零度の情熱 3

「半年くらい前にオープンした店だ」
 秋野は煙草をふかしながら前髪を掻き上げた。そうするとライトが顔を照らし、目の色がごく薄い色に透けた。まるでガラス玉か、そうでなければ飴玉だ。口に入れたら腹を下すなと、意外によく考えることをまた考えながら、哲はカウンターの向こう側に立つ秋野をぼんやり見つめた。
「ああ?」
「お前が行ったっていうバー」
 哲は手を伸ばして灰皿を引き寄せ吸殻を放り込んだ。
 越智とは別に仲がいいわけではないが、悪くもない。久々に会ったから話すことも──越智の方にだけだが──色々あってかなり飲んだ。安酒だったせいか妙に酔って、部屋まで戻るのが面倒だったから秋野の新居に転がり込んだのだ。
 実際には中二階の入り口まで階段を上がるのも億劫で一階のドアを蹴りまくり、不機嫌面の秋野に腕一本で死体かゴミ袋のように床を引きずられて入室する羽目になった。哲に愛情を抱いているとか言いながら、哲の扱いの粗雑さと言ったら仕入屋は人後に落ちない。
 とりあえず越智に連れていかれた店の話をしていたら話しながらベッドに押し込まれそうになったものの、何とか逃げ出してソファで寝入った。しかしどうやら二時間ほどしか眠っていなかったようで、目が覚めたらまだ日の出前だった。
 ひと眠りしたら少し酔いが醒めていた。哲は用を足して煙草を銜えついでに水でも飲もうと階下に降りた。
「起きてたのか」
「あれから目が冴えてな」
「お年寄りは寝つきが悪ぃな」
「うるさいよ。可愛くないこと言うと教えてやらんぞ」
 どうやら秋野はどうせ起きているからと、その間に哲が話した店のことを調べていたらしかった。
「仕事が早えなあさすが仕入屋ー」
「なんでそんなに棒読みなんだ」
「心が籠ってっからだろ。つーか半年前? それにしちゃ薄汚れてた気がすっけど」
「今入ってる店のオープンは半年前だが、容れ物自体は結構古い。居抜きで買ったんだろ」
 秋野は既に液体が入ったグラスと酒の瓶、それから哲のミネラルウォーターのボトルを持ってこちら側に出てくると、哲の隣に腰を下ろした。
「それで、その店がどうしたって?」
「昨日警備システム解除した奴いるだろ。あれ、高校んときの知り合いだった」
「ああ、そうなのか。それでやけに挙動不審だったんだな」
「そうだっけ」
「妙に緊張してただろう。慣れてないからだと思ってたけどな」
「俺は気にしてなかったから分かんねえけど、俺がお前にどこまで個人情報渡してるか分かんねえから名乗らなかったんだってよ」
 秋野がグラスを軽く傾ける。思ったより硬く澄んだ音がしたので、哲は思わず秋野の手元に目をやった。グラスの中の氷は丸くて大きいもので、ご家庭の冷蔵庫の製氷皿で作れるものではない。
 ちなみに秋野の部屋の冷蔵庫は、ここはバイト先かと錯覚するようなでかいステンレスの業務用冷蔵庫だ。調理器具は何もないが、さすがに冷蔵庫はないと不便だったのだろう。一人暮らしなんだから一般家庭向けでよかったのに、とぼやいていたことがあったから、秋野が選んだわけではないらしい。
 とはいえ、いつ覗いても中身はほとんど入っていない。水とかビールとかほんの僅かな食糧とか、まったく一体何を入れるためにあるんだか、と何の気なしに言ってみたら「死体」とかさらっと言われた。さすがに本気にはしていないが、ちょっと背筋がぞわりとしたのは事実だ。
「俺もお前の名前を呼ばなかったからな」
「ちょこまかした奴で、昔は割と落ち着きないイメージだったんだけど、意外に気ぃ回んだなとか思った」
「そりゃあお前、零細でもIT企業に勤務してるならそういうところは無意識に気を遣うだろ」
「ああ……そりゃそうか」
 カウンターに置かれたグラスの中の、丸い氷が浮いた透明な酒。酒が何か分からないが、瓶からすると洋酒のようだった。どうせ秋野が知り合いだとか女だとかから貰った物だろう。
「この氷って自分で削ったのか?」
 哲が手を伸ばしてグラスを持ち上げ軽く揺らすと、また金属を叩いたような音がした。哲がバイトする居酒屋にバーテンダーはいないし、カクテルは出来合いのものだ。厨房で手が空いている奴が並んだジョッキに氷をぶち込んでいく作業はするが、ぶ厚いガラスの安っぽいジョッキから聞こえる音は、これとは違う。
「アイスピックと氷の塊があれば誰でもできるのかもしれんが、俺じゃないよ。酒と一緒にもらったんだ」
「誰でもはできねえだろ。少なくとも俺は無理」
「大抵の人間より器用じゃないか、錠前屋」
「器用かもしんねえけど、やる気が出ねえ。途中で絶対瓦割りしちまう」
「彫刻家にはなれないな」
 グラスを口に運びながら喉の奥を鳴らす秋野の低い声に氷が立てる音がかぶさった。
「そもそも俺に芸術を解する心があると思うのかお前、何見ても、わあ、すげえ、以外に感想もねえってのに」
 今度こそ声を上げて笑った秋野は自分のグラスを目の前に掲げ、そうだな、と呟いた。ライトに透けるグラスの中、氷の周りで蜃気楼のように揺らめく酒が見え、その向こうに見える薄茶がダウンライトの昼白色に溶けた。
 まあ、芸術は分からなくとも人並みに美醜は分かる。それに綺麗だから眺めていたいと思うものもないではない。好きか嫌いかは──その判断が必要かどうかも別として。
「どうすっかなあ……」
「面倒なら断れよ」
「面倒は面倒だけどな。ただ突っ立てるだけでいいならできないわけじゃねえんだけど」
「だけど、何だ?」
「どう考えたってなんかあるだろ」
「何か?」
「ああ、いや別に越智が何か企んでるとかそういうこと言ってんじゃなくて」
 言葉を探してペットボトルのラベルを眺めてみたが、書いてあったのは当然ながら役に立たない単語ばかりだった。
「俺と会ったのは偶然だろ。だから俺個人にどうこうってことじゃねえのは確かだけど、なんつーか、結局何かトラブルがあんだろうなと思って。あいつん中で俺は金髪の不良高校生で止まってるわけだしよ」
「羨ましい。俺も見たいな、金髪の高校生な錠前屋」
「金髪の高校生と錠前屋は両立しねえんだっつーの。まあいいか──どうせ考えて分かることじゃねえし」
 水を飲み干し、哲はスツールから腰を上げた。
「もっぺん寝る」
「ああ、おやすみ」
「寝ねえのか」
 動く気配のない秋野を見下ろして訊ねると、秋野は煙草を取り出して銜え、火を点けた。
「夢を見そうな気がするから起きてるよ」
「……」
 秋野の夢はまるで揺らめく水の流れのように時折立ち現れては消える。この先頻度が変わることはあってもなくなることはないのかもしれない。
 哲は秋野が何かを気に病もうが基本的には気にならない。どうにかできるのは秋野自身だけだと思うからだ。だがどうしてか秋野の夢に関してだけは、放っておくことも、一人で対峙しろと突き放すこともできなかった。悪夢にうなされる当の本人は、夢に関して哲に何も求めないのだから、おかしな話だ。
 秋野の銜えた煙草を取り上げて一口吸い付け、灰皿に押し付ける。片眉を引き上げ、哲を見上げる顔を見つめ返した。まるで液体のように虹彩が色を変え、薄い茶色の奥に金や黄色、時折こげ茶や青緑のような筋がちらつく。光を反射する水面か、色はないが、酒の中の氷の微細なひび割れを見ているようだった。
「おとなしく寝ろよ」
「どうして。お前に関係ないだろう」
「関係はねえけど。いい子で寝たら金髪ブレザーの佐崎先輩見せてやるからよ」
「口から出任せ言うんじゃないよ」
 笑いながら言って、秋野はもう一本煙草を取り出した。
「確かに俺はんなもん持ってねえけど、誰か持ってんだろ、写真の一枚くらい」
「あるかどうか分からないもので取引はしないぞ、俺は」
「──それこそ口から出任せじゃねえか」
 秋野の唇から火を点ける前の煙草を取り上げ、カウンターの上に抛った。少しだけ、本当にほんの少しだけ不機嫌そうな色を見せた目を見つめ、瞼に親指で触れる。反射的に目を閉じるのが普通なのに、秋野の目は開いたままだ。
「何がだ」
「あるかどうか分かんねえもんで取引はしねえって」
「それが?」
「いつか返すって言った。でも」
「勘違いするな、哲」
 思いのほか強い口調で哲を遮り、秋野はゆっくり瞼を閉じた。
「これは取引じゃない」
 指の先で触れた睫毛は鳥の羽のように艶があって、そして繊細だった。
「返さなくていい」
「だけどそれじゃあよ」
 借金はいつか返す、と言ったのは自分だ。秋野にとっては返す必要がないものなのか。問い質そうかと思ったら、秋野は目を閉じたまま呟いた。
「いつまでだって待てる」
「……」
「どこにも行くな。今はそれだけでいい」
 秋野の顔から手を離し、長い脛を蹴っ飛ばす。
「……立てジジイ、ケツ上げてさっさと動け。調査代に添い寝してやるからよ」
「俺は要介護の高齢者か、それとも乳幼児か?」
「どっちでもねえだろ。どこも行かねえで隣に寝てやるっつってんだから素直に喜んどけ」
 秋野は目を開けて何か言いたそうに口を開いたが、結局何も言わなかった。