零度の情熱 2

 仕事まで三時間もあったら持て余すと思ったが、体力お化けみたいな三十路野郎に散々弄ばれた結果、慌てて立ち食い蕎麦を啜るくらいの時間しか残らなかった。別にゆっくり優雅な飯の時間を求めているわけではないものの、それでもやっぱり腹は立つ。
 何度か後ろから狙った挙句、目的地三メートル手前でようやく格好いいケツに一発会心の蹴りを入れてやれた。おっかない顔で睨まれたから思い切り鼻で笑ってやる。
 秋野はこの後用があり、仕事を終えればどこかへ行かねばならないと聞いていたから、後が怖いということもない。秋野は哲を振り返り、忌々し気な舌打ちをくれた。

 

 目的の建物は店舗を併設しているだけあって、住宅というより事務所という感じがした。一階部分が店舗、上に乗っかった階が自宅というよくあるスタイルだ。駐車場は店の表に二台か、コンパクトカーが詰めれば三台というところか。夜間だからか人通りも車通りもなく、秋野は特に周囲を気にすることもなく裏口があると思しき方へ回った。途中監視カメラがあったが、秋野がまるっきり無視しているところを見るとダミーだろう。
 店の脇にある狭い通路みたいなところには先客がいて、俯いてスマホをいじっているのが見える。大半は秋野の身体に隠れて見えないが、男だということは哲にも分かった。
「どうも」
 秋野が声をかけると男はぱっとスマホを下ろした。光源が消え、一瞬男の顔が闇に沈んだように錯覚する。秋野が数歩進んだので哲からは男が見えなくなった。くぐもった挨拶みたいなものが聞こえ、秋野が肩越しに哲を見た。
「彼にシステムを切ってもらう」
 警備システムの解除を担当するという男が秋野の後ろから乗り出し、ひょこりと会釈してきた。でかいマスクをしているので人相がよく分からないが、若いということだけは間違いない。着衣での印象だが、中肉中背。ごく標準的な体格。巻き毛みたいなくるくるした髪の毛に何となく記憶が刺激されるような気もしたが、覚えている限り知り合いではなかった。
 最初は風邪なのか素顔を晒したくないのか判断がつきかねたが、そいつが声を出したら、少なくとも顔を隠すためだけのマスクではない、ということは明らかになった。
「どうも」
 誰が聞いても明らかな鼻声だったのだ。これが偽装だったらすごいなと思いながら、哲も会釈を返す。
「じゃあ、お願いします」
 秋野が言って、男は背負った黒いリュックを地面に下ろしてがさがさやり始めた。

 

 警報解除も金庫の解錠も特に問題はなかった。寧ろ問題そのものが消失していて、哲は苛立ちに髪を掻き毟る羽目になったくらいだ。
 金庫は業務用のそこそこでかい耐火金庫だったが、あろうことか、ダイヤル錠を回すという基本的なことが放棄されていたのだ。覚えるのが面倒だからとダイヤルを固定し、鍵だけで開閉する不届き者──あくまでも哲にとっては──は意外に多い。
 鍵穴にピックとテンションを突っ込んで開けるだけならあっという間に終わってしまう。この間の弘瀬の祖父のガレージ、そのまた前の陶芸家の蔵と、ここのところ結構な割合で外れが続いていた。
 お前のせいでツキが落ちてるなら許さねえぞという思いを込めて仕入屋の背中を睨んでいたら、熱い視線が過ぎたのか、秋野が嫌そうな顔をして振り向いた。
 哲を見るなりゆっくり何度か首を横に振った秋野は、またすぐに顔を戻す。まったく、かわいそうな子でも見るような目をしやがって、後で覚えてやがれと喉の奥で唸りつつも、哲はつい肩を落とした。
 金庫を開けて目的のものを探している秋野は放置して店の中を見回した。
 そうは言っても、不動産屋だ。店舗に特別目を引くようなものはない。引っ越しを考えているわけではないから壁に貼られた物件情報を見たって仕方ないのだが、他に見るべきものもないから端から順に眺めていく。
 特におすすめの物件が掲示されているのだから当然だが、新築、オートロック、オール電化などの謳い文句が目についた。オートロックだと解錠できないし、オール電化だとライターがないときにガスレンジで煙草に点火できない。まったくおすすめされたくねえ、と勝手に憤っているうちに、奥から出てきた秋野が「終わった」と告げた。
「ああ、そう」
「無駄足踏ませたな」
「お前のせいじゃねえから仕方ねえだろ」
 不満気だったのがおかしかったのか秋野はほんの少しだけ笑った。

 

 用があるという秋野は駅とは逆方向に向かって歩き出し、哲はマスクの男を振り返った。
「じゃあ、俺は駅の方行くんで」
「あの、じゃあ俺も」
 男はぼそぼそ言って、哲の後についてきた。別に嫌だとは思わなかったので無言のまま歩く。それほど遅い時間でもないのに人通りはなかったが、身の危険を感じる界隈ではないから、角を曲がった途端男に腕を掴まれたときは本気で驚いた。そうは言っても振り払うほどでもないからそのままじっと顔を見ていたら、男は突然何かに気づいたように、慌てて哲から手を離した。
「えっ、もしかして気づいてなかった!?」
「は?」
「佐崎だろ? 佐崎哲」
 フルネームで呼ばれて驚き、改めてまじまじと相手を眺めたが、何せほとんど顔が覆われているからいくら見たって同じだった。自分でも気が付いたのか男はもどかしげにマスクを外したが、出てきた顔を見てもやはり誰だか分からない。
「誰? 悪い、覚えてねえ」
「マジか! 越智だよ、越智勇斗!」
「オチ……?」
 名前を聞いてようやく記憶が蘇った。高校時代、知り合いの中にそんな名前の奴が確かにいた。女子並みに小柄、外国人の巻き毛みたいなくるくるの頭をした他校の奴だ。
「あー、越智? 野村の学校の奴?」
「そう!」
「でも、もっとちっこくなかったか?」
「高校出て急に伸びたの! 元々そんなちっさくなかったし!」
 哲が適当に胸のあたりでひらひらさせた手を見て男──越智はそれこそ少年のように笑った。もっとも、相変わらず鼻は詰まっているようで、声にはまったく記憶を揺さぶられなかったが。

 越智は哲の同級生の野村という男の中学の友達とか何とか、そういう繋がりの知人だった。
 学校が違うから毎日顔を合わせるわけでもなく、何となくそんな奴がいたということは記憶にあるものの、顔立ちの細部まで覚えているわけではない。特に越智は小柄だということが印象的だったから、まったく思い出せなかった。
 越智に懐かしいから飲もうと誘われ、連れられて向かったバーはこの時間だから何とか見られる類の店だった。多分、太陽の下で目にしたら更に安っぽくくたびれて見えるに違いない。
 バーテンダーは哲よりいくつか若そうな男で、ほとんど素人同然だった。水と氷と酒をかき混ぜてはいるがステアと呼べるようなものではないし、シェーカーは使えないらしい。だが、テレビで見るタレントのような外見だから、採用基準はカクテルを作る技術ではないのだろう。
「俺、あの人と仕事すんの初めてなんだよね」
「そうなのか」
 誰が注いでも同じ──適当なアイラウィスキーのロック──のグラスを持ち上げながら隣の越智を見る。越智は煙草を銜えて火を点け、こくこくと子供のように頷いた。
「うん。俺の師匠みたいな人が今日ちょっと都合悪くて、俺を推薦してくれたから」
「ふうん。お前本業は何してんだ」
「SE。あ、でも大手IT企業とかじゃないぜ。孫請けみたいなちいせえとこ。それでまああんなことしてんだけどさ。本当は声かけようと思ったけど、佐崎があの人に本名言ってるのかとか、事情も全然わかんなかったし」
 それで越智なりに気を遣って知らないふりをしたらしい。それもこれも哲がお前なんか知らないという態度を貫いたからだと越智は言うが、哲にしてみれば何の演技もしていなかったのだから、そう言われても、というところだった。
「佐崎は? ほかに何かしてんの」
「居酒屋の厨房」
「へえー、そうなんだ! 料理とかできんの? 専門行ったとか?」
「いや、別に……ただじいちゃんと住んでて家事してたから、料理もしただけ」
「マジで? お前にぶん殴られた奴とか聞いたらめちゃくちゃ驚きそう」
「別に殴んのと料理関係なくねえか?」
 わかんねー、と言って笑い、越智はポケットからティッシュを取り出して洟をかんだ。
「そっか、居酒屋か。なあ、佐崎さあ、バイトしねえ?」
 ティッシュを丸めてカウンターの上に抛り、越智は続けた。
「立ってちょっと作業するだけ。一週間だけ、そうだな、二日とか三日とか……三時間くらいとか?」
「どこで」
「ここ」
「はあ?」
 哲は思わず店内を見回した。確かに案外客がいるなとは思ったが、それでも普通の飲食店やバーに比べれば空いている。メニューは酒ばかりだし、フードと書いてある部分もせいぜいナッツやチーズ、越智が頼んだサルサチップスがある程度の店だ。これ以上人が必要なようにはまったく見えない。
「知り合いの店か?」
「いや、実はオーナーが兄貴なんだよね」
 何故か照れたように言うのは、客が少ないからか、それとも兄の店に連れてきたことが後ろめたいのか。哲にしてみればどちらも気にすることではないと思うから追及はしなかった。
「へえ。兄貴いたんだな」
「うん。ちょっと年離れてんだけどな。今三十──八とか? 九かな。忘れた。で、あのバーテンダーくんがさ、ちょっとまとめて休み取るんだ」
「交替要員がいんだろ、普通は」
「多分普段はいると思うけど、なんか今いないんだって……よく知らないけど」
 なんだか曖昧な話だ。元々それが目的で連れてきたわけでもない知り合い、しかも何年も会っていなかった相手に声をかけること自体適当すぎる。大体秋野くらいの見た目ならまだしも、哲の容姿では平凡すぎて客寄せにはならない。かといって水割り以外のドリンクも作れないなら、いてもいなくても大差はない。
 とりあえず考えると答えたら、越智は特にしつこくすることもなく、共通の知人の近況に話題を変えた。それからは越智の仕事の話や何かに話が流れ、バイトの話はもう出なかった。