零度の情熱 1

 秋野の前にあるのは、指輪だった。
「何だ、それ」
 哲は秋野に軽く手を上げて去って行く男から目を逸らし、秋野の手元に視線を向けた。
「指輪」
「見りゃ分かる。そういう意味じゃねえ」
 銀色の台に嵌まっているのは緑色の大きな石だ。よく見ると、緑色の石の周りを小さな透明の煌めきがぐるりと囲んでいる。古臭いデザインだというのは、宝飾品に詳しくない哲でもすぐに分かった。
「嵌めてやろうか?」
「そういう意味でもねえ。色んな意味で気色悪ぃからやめろ」
 顔を歪めながら隣に腰を下ろした哲を見てちょっと笑い、秋野は指輪をこれまた古臭い紺色の小さな箱に入れた。今時指輪の箱と言っても色々あるが、何故か昔の映画で見るのは大抵黒や紺、臙脂のベルベット張りの小箱だった気がする。
「本物か?」
「レプリカだ。人工エメラルドらしいが、素人目には分からんだろう。俺には区別できないよ」
「今の、質屋?」
 哲は肩越しに振り返ったが、先程の男は既に店を出ていて姿は見えなかった。元は茄子紺だったのだろうが長年着たせいで白っぽくなったらしい上着と、よれた灰色のスラックス姿だった。顔はよく見えなかったが、質屋というよりは質屋の利用客という感じだった気がする。案の定秋野は首を横に振った。
「いや、あれは俺の知り合いだ。質屋と宝石商に顔がきくんで、本物と見分けがつくかどうかテストを頼んでた」
「ふうん。ジンライムちょうだい」
 寄ってきたバーテンダーに言って、哲は秋野の前にある銀色のボウルからアーモンドを摘んで口に入れた。
「俺に古臭い指輪見せるために呼んだのか」
「いや。顔が見たかったから」
「帰るぞ、クソ虎」
「冗談だ」
 秋野は肩を竦め、指輪の箱を上着のポケットに突っ込んだ。
 仕事が終わった後秋野と飲むこと自体は珍しくない。今日も休憩中を見計らったように電話が来た。いつもと少々違ったのは、終わった後に会えないかと、秋野がこちらの意向を確認してきたことだ。大抵の場合秋野の要求は一方的で、哲の返事などほとんど聞いてはいない。しかし、それは哲にしても同じことで、来いと言われても行きたくなければまず行かないし、いちいち行かないからと断りもしないのだ。
 わざわざ約束を取り付けてまで会うのは仕事が絡むときだけだから、秋野のポケットに消えた指輪が仕事に関係あるのかと、哲はなんとなく視線をそちらに向けた。
「これを金庫に戻したい」
「依頼人に渡すんじゃなく?」
 秋野は頷く。
「そこまでが依頼なんだ。理由や経緯は訊いてないから知らん。ただちょっと急な話で──今から三時間後くらい。平気か?」
「時間は別に、帰って寝るだけだからいいけど。店か? 住宅?」
「住宅だ。ただ、自宅に併設した店舗で不動産屋もやってるんで、警備システムが導入されてる。グレードは低いらしくて、一般住宅用らしいな」
 哲が何か言う前に秋野が続けた。
「お前が個人宅を嫌がるのは分かってるよ。今日は家には誰もいない。家族で沖縄旅行に行くとかで丸三日空けるんだそうだ。確認はレイのところだし、さっき全員で飛行機に搭乗したって連絡がきたから間違いないだろう」
 レイというのは神田怜、秋野の幼馴染の情報屋だ。中肉中背童顔で人畜無害の見本みたいな見かけだが、性格はいいとは言えない。秋野同様母親がフィリピン人だが、レイの場合は無戸籍どころかきちんと日本名がある。秋野とレイは仲がいいわけではないが、幼馴染同士それなりに助け合っているようなのは知っていた。
「ああ、そうかよ。そんならいいけど」
 情報の精度という意味で神田事務所の評判はいいらしいから、レイがそうだというならそうなのだろう。
「けど、警備システムはどうもできねえぞ。お前がやんのか?」
「いや、専門の奴を連れてくから何もすることはない。そっちの都合がつくのが三時間後なんだ。本業の方の都合だとか」
「そう──ああ、どうも」
 哲は控えめに微笑んだバーテンダーからグラスを受け取って口をつけた。バーテンダーが秋野に声をかけたので、煙草を取り出す。お代わりがどうとか喋っている秋野は放っておいて、流れていく煙をぼんやりと見送った。
 一般住宅の解錠が嫌いなのは面倒事が多いからで倫理観の問題ではないが、それでもやはり住人がいないと思うと気楽だった。もうだいぶ前になるが、哲が開けた扉の向こうで女が死んだのを知ったときからは、更に関わるのが嫌になった。
 別に泣くほど親しい間柄だったわけでもなく、言ってしまえば一瞬顔を合わせただけ、会話しただけの女だった。
 それでも彼女の残した言葉が時々ふと蘇ることがある。死んでしまった、その事実が言葉に実際以上の重みを与えたのは間違いない。哲は追加された重みに惑わされるほど夢見がちでも素直でもないのだが、例え本気で信じていなくても、ひっかかる言葉や物事というのはあるものらしい。
 哲本人でさえ普段は意識しないことを、秋野はきちんと把握している。死んだやくざの情婦で占い師の女、そのつまらない死に様さえ、哲に関わることなら遺漏なく。
 哲はまだ長い煙草を灰皿の底で捻り潰し、グラスを一気に呷って立ち上がった。
「じゃあ三時間後な。場所は送っといてくれ」
 バーテンダーが他の客の方へ行き、秋野が哲を見上げて瞬きした。
「来たばかりだろう。急ぐのか?」
「いや、別に急いでねえけど。用は済んだし」
「少しくらい付き合えよ」
「ここ豆以外に食うもんねえんだろ。腹減った」
 秋野は笑ってグラスを空け、ちょっと待ってろと言ってバーテンダーを呼んだ。そこで突っ立って待つ必要もないので、財布を取り出している秋野を放って店の外に出た。隣のビルとの間に押し込むように灰皿があったので、吹き付ける風に身を竦めつつ煙草を銜えて火を点けた。
 時間帯のせいなのか喫煙者自体が絶滅しかけているのか、他には誰の姿もない。白くなった穂先が突風に吹っ飛んだのがおかしくて思わず口元を緩めたら「何一人で笑ってるんだ」と声がして店のドアから秋野が現れた。
「あー、風で灰がぶっ飛んだのがなんか笑えた」
「箸が転がってもおかしい年頃だもんな?」
「うるせえくそったれ。てめえが転がれば腹抱えて笑うかもしんねえぞ」
「お前が笑うなら転がってもいいけど」
「馬鹿ぬかせ」
 吸い殻を灰皿に捨てようと視線を下げる、その一瞬に間合いに踏み込まれた。まったくこの野郎の反射神経ときたら。哲だって一応人並み以上のはずなのだが、多分生まれ持った素質がまるで違うのだろう。
 両腕が作る檻の中に閉じ込められて唸りながらもがく。まるで保健所に捕獲された野良犬みたいな気持ちになった。野良犬が実際何を考えているかなんて哲は知らないが、犬自身に捏造だと憤慨されたところで謝罪の犬語を知らないし、知っていたとしても秋野のせいですべて忘れてしまった。
 濃厚な口づけに、風に飛ばされ撒き散らされる灰みたいにばらばらになりそうだった。考えていたことも考えなければならないことも、何もかもが吹っ飛んで遠くに消えていった。

 

 犬みたいに激しく唸って噛みついて、いいだけ蹴っ飛ばし殴りつけて、そうして哲は降伏した。壁に押し付けられた背中が痛い。片足を抱えられ、立たされたまま激しく突かれ、怒りと興奮に血圧が上がる。
 秋野があちらこちらに用意しているベッドとシャワーしかないような殺風景な部屋。元々は事務所か何かだったらしい素っ気なさは、照明も点いてないからどっちにしたって関係なかった。
 周囲がよく見えないから感覚ばかりが鋭くなって、秋野の吐息が首筋に触れるだけで皮膚に静電気みたいな痛みが走る。
「……っ!」
 快感なのか苦痛なのか分からないものが身体のど真ん中を突き抜けて、頭のてっぺんに抜けていく。声も出せず歯を食いしばり、秋野の背に指先を食い込ませ引き寄せてかき抱いた。
「……哲」
「何──、い、ぁ」
 押し付けられた秋野の身体。ジャケットのポケットの中の何かが脇腹に当たって気になった。身じろぎした哲に気が付いたのか、秋野が少しだけ身体を離し、ああ、と小さく呟きながらポケットのあたりに視線を落とす。乱れた髪と瞳を隠す濃い睫毛。唇に哲がつけた歯形が残っているかどうかまでは暗くて見えない。
「指輪だ」
 秋野にも哲にも何の意味もない偽物の装飾品。ただの小さい布張りの箱が、獣じみた凶暴な熱を一瞬だけ断ち切った。秋野の瞳が僅かな月明かりに光って見える。哲は指先を伸ばして秋野の瞼に触れた。
「よそ見すんじゃねえ」
 あの女は何と言ったか。月の光みたいに現れて消えた占い師。女に示唆され邂逅した運命とかいうやつは、今、淡い光の下で哲の身体に図々しく突き刺さり、元からそこにあったみたいに居座っている。
「よそ見?」
 秋野は月光の色に見える瞳を細めて喉を鳴らし、獰猛な笑みを見せた。指輪の入ったジャケットを乱暴に脱ぎ捨てて、哲を壁から引き剥がすように抱え上げる。
「う、あ……あ──!」
「つまらないことを言うんじゃないよ」
 耳と腹。意識と身体。低い声と秋野自身でど真ん中を深く貫かれ、哲は呪いの言葉を吐きながら、秋野の肉に爪を立てた。