ドラゴンロード

 よく晴れた空の下、冬の分厚い服を脱いで薄着になった人々はどこか浮き立って見える。街路樹には新緑が芽吹き、軽やかに春風に揺れていた。
 今日は平年よりだいぶ気温が高く、春というより初夏の陽気だ。雲一つない快晴。日差しは強く、コートや上着を脱いで手に持つ人の姿も多かった。
 だが、部屋の空気はどんよりしていた。
 むっと籠る煙草の煙、燻された家具の埃っぽい臭いは申し訳程度に稼働する天井のファンでは駆逐しきれず、頑固に部屋の中に居座っている。窓を開ければいいと思うのだが、誰もそれを言い出す者はいなかった。
 六人居る人間のうち四人はしっかりスーツの上着を着込んでいて、部屋が暑いわけではないが、見るからに暑苦しい。スーツそのものはまあ普通のスーツだが、中身がどうにもこうにも爽やかとは程遠いのである。
「暑くないですか」
 秋野は、目の前に座る遠山にそう訊ねた。
 遠山は四人の中ではもっとも涼しげだが、この澱んだ空気の中、きっちり締めたネクタイがいかにも窮屈そうだ。
 光沢のあるグレイのピンストライプのスーツにシルバーグレイのタイ。ワイシャツの袖から覗く時計と合わせたシルバーのバングル、茶色く染めた長めの髪。どこからどう見ても水商売関係者。サラリーマンとも、やくざとも程遠い。
「まあ、涼しくはない」
「大変ですねえ」
 上司が脱いでいない上着を脱ぐわけにはいかないのだろう。そう推察して言った言葉に、整えられた眉が上がり、まあね、と呟く。
 遠山の目が、隣の上司の見るからに趣味の悪いオリーブグリーンのワイシャツに向けられた。視線は細い首から垂れる琥珀色の、古臭いペイズリー柄のネクタイに移動して諦めたようにのろのろと戻ってきた。無理もない。
「まあ……」
 秋野のカジュアルな格好を爪先までゆっくり眺め、遠山はまた息を吐いた。
「仕方ない」
 何が仕方ないのかはよく分からない。上司の服の趣味の悪さか、それとも好きに上着も脱げない我が身の悲しさか。秋野は唇の端で愛想笑いを返し、再度部屋の中に目を戻した。
 狭い応接室は、六人ものでかい男が詰め込まれているだけに、酸素が薄いような気がした。どっしりと重そうなテーブルの上には今時珍しいビニール製レースのテーブルクロスがかかっている。薄緑の模造大理石の灰皿とライター。こげ茶の合皮のソファ。一昔、いや二昔は前、昭和の中小企業の応接室そのものだ。実際にどこかの中小企業から巻き上げたものをリサイクルしているのかも知れない。
 窓のないほうの壁には誰の筆やら不明の書がかかっており、その下に並んで立つスーツの男達は、顔だけ見れば狛犬もかくやである。
 阿吽の狛犬にそっくりな男達は、顔に向かって立ち上ってくる煙を何とか避けようと、更に壁に背を押しつけた。煙を吐き出しているのは彼らの上司とその客であり、嫌な顔も出来ないのが哀れであった。
「だからあ」
 うんざりした声が上がり、秋野は燻される狛犬達から意識を隣の哲に向けた。
「無理だって。何遍言わすんだよ、おっさん」
「そこを何とかってこうやって頼んでるじゃねえか、なあ?」
「勘弁してくれよ」
 情けない声を上げる哲は右手の煙草を灰皿に押し付け、左手で後頭部をぐしゃぐしゃと掻き回した。
 先程からのこの会話が終わる気配はまったくない。秋野は俯いて欠伸を噛み殺し、煙草のパッケージを引っ張り出した。

 哲が空手をかじっていたというのは、秋野も最近まで知らなかった。確かにきれいな蹴りは見せるが、単に喧嘩の中で培ったものだと思っていたのだ。
 先日たまたま一緒にいるときに三人のチンピラに絡まれたが、哲はその時酷く虫の居所が悪かった。それを知っていたのは前の晩に原因を作った秋野だけだったが、哲の知り合いならその顔を見ただけで何も言わずに踵を返すに違いないくらい不機嫌だった。
 本当なら秋野のことも殴り倒してさっさと立ち去りたかっただろうが、解錠の仕事があった。秋野をぶちのめしたいという衝動より錠前への情熱が勝ったらしい哲は、不承不承秋野と並んで歩いていたのである。
「なんだそのツラぁ!? え?」
 すれ違った哲が男を睨んだのは、男がわざとぶつかってきたからに他ならない。
 普段なら故意にぶつかられても、平気な顔で「すみません」と謝るところだ。哲はそういう意味ではやけに大人で、殴り合いが好きでたまらないくせに、誰彼構わず喧嘩を売ったりはしない。
 だが、不機嫌に加えて男の態度が悪かったのがいけなかった。男が手を伸ばして乱暴に哲を突き飛ばす。ああ、馬鹿な奴だと思ったが、秋野には止めてやる義理もなければ親切心もない。
 顔だけで小学生が泣き出しそうな男の太い首に向かって哲の脚が伸びる。最後に足首から先が鞭のようにしなったと見えたのは錯覚か。秋野も思わず見惚れるほどのクビゲリで男はあっという間に昏倒した。残りの二人が手を出してこなかったのは不満だったようだが、哲は渋面のままその場を後にした。
 その時のチンピラの、倒れなかった二人の方。どっちがどうだか知らないが、とにかくその片方の話が回りまわってナカジマの耳に入ったらしい。
 話を聞いたナカジマの方では、目撃情報を聞いてすぐに哲だと分かったようだ。というか、秋野の人相から連れが哲だと割れたというべきか。それでナカジマの配下が哲捕獲に乗り出したというわけで、バイト帰りの哲と一緒に、今まさに定食屋に入ろうとしていた秋野まで任意同行を乞われた。任意とはいえ、やくざと揉めたくない秋野と哲に基本的に拒否という選択肢はない。分かっていて任意でとお願いしてくるあたり、キツネ顔の中年は相変わらずだった。

「大体よ、素人の俺が素人に教えるなんて無理だって。何なんだよ、一体。理由が全然分かんねえよ」
 この部屋に連れて来られて三十分、ナカジマと哲の話は堂々巡りを繰り返す。ナカジマの目的は何と、狛犬兄弟──と秋野は内心勝手に命名した──に格闘技を教えてやってくれというものだった。
 哲でなくともご免だろう。何が悲しくて少なくとも見た目は金剛力士像と大して変わらないこのお兄さん達にそんなことを教えなければならないのか。それに、ナカジマが何故今更そんなことを言い出したのか、正直秋野にも分かりかねた。哲が喧嘩をさせたらかなり強いということは、ナカジマもとうの昔に知っているはずなのだ。
「中嶋さん」
 噛み殺したはずの秋野の欠伸の端切れでも目にしたのか、遠山が会話に割って入る。秋野は煙草に火を点け、煙を吐き出して右側の哲に目を遣った。先ほど掻き回した後頭部の髪が、ぐしゃぐしゃに乱れている。
 煙草を左手に持ち替え、右手を伸ばして哲の髪に差し込んだ。適当に直してやると哲はうるさそうに頭を振り、最終的には虫を追い払うように秋野の手を払いのけたが、こちらに注意は向けようとはしなかった。
 視線を感じて哲から正面へ目を戻すと、遠山が妙なものを見たという顔をして秋野の指先を凝視していた。秋野はもう一度、わざとゆっくり哲の髪を撫でつけて──そしてもう一度手を叩かれて──から手を離し、組んだ足の先をぶらぶらさせた。遠山は気を取り直したように中嶋に顔を向け直す。
「中嶋さん、ちゃんと理由を説明しないと納得してもらえねえんじゃ」
「……」
 心なしかキツネ面が頬を染めたように思え、秋野は思わず眉を寄せた。哲もぎょっとしたような顔をして目を剥き、ソファの上で後ずさる。
「いや、それがよ……坊主がその……カンフー使いだって聞いてだね」
「……かんふう……つかい?」
 傷んだ食べ物でも口にしたような珍妙な顔で、哲はナカジマの言葉を復唱した。
「カンフー! カンフーだよ、格闘技の」
「ああ、カンフーな……って、はあ? カンフー?」
「ん? いやだからな、俺の部下にカンフー使いがいるなんてお前、そりゃあうっとりするような」
「中嶋さんはブルース・リーが大好きで」
「俺の社用携帯の着信音は燃えよドラゴンだ」
 中嶋が自慢げに言った。秋野は内心ヤクザが社用携帯ってなんだそりゃと思ったが、それは今どうでもいい。
「ああ、そう……」
「だからさあ」
「いや、ちょっと待ておっさん、俺はカンフーなんてやったことねえって」
「まあまあ照れなさんな坊主」
「照れてねえし」
「お前さんをリクルート出来るならそれに越したことはねえけど、駄目だっつうんだから、せめてそのくらいはなあ。なあ遠山」
「はい。そう思います」
「はいじゃねえ、はいじゃ。あのな、俺のは空手で、しかも似非だし、カンフーじゃねえんだって」
「あれ、カンフーと空手って元は一緒だろ」
「全然違うだろ」
「似たようなもんだろうよ」
「似てねえよ……」
「そうだっけ」
「や、それはどうでもいいよ。おっさんが似てると思うならそれでもいいけどよ、けどな」
「じゃあいいじゃねえか。なあ、頼むよ坊主。一ヶ月くらい朝から晩までみっちり教えてくれればさ」
「一ヶ月? みっちり!? おっさん、勘弁してくれよ、あり得ねえって!」
 狛犬の片方が堪え切れずに小さく欠伸をした。もう片方がその足首を尖った革靴の先で蹴っ飛ばす。
「大体──」
「それで」
 秋野はゆっくり身体を起こし、哲を遮りナカジマに笑いかけた。
「──日当はお幾らですかね?」

 

「くたばれクソ虎!」
「痛っ。何でだ、助けてやっただろ」
 組事務所を出るなり思い切り尻を蹴り飛ばされて、秋野は数歩たたらを踏んだ。
「何が助けだ何が!」
「だから、一ヶ月の間一日中、ってのを、一週間に二回、四週間だけ、しかも一回二時間で交渉してやっただろう。おまけに日当まで出るんだぞ」
「ヤクザから給料もらいたくねえ!」
「馬鹿だね、タダのほうがまずいだろう。貸し借りなしにしておけ」
「貸し借りなしになんのかよ? 金銭のやり取りが発生すんだぞ」
 哲は毛を逆立てた野良犬みたいに歯を剥いて唸りながらのしのし歩く。秋野は通りすがりのヤクザも避けて歩くだろう哲の物騒な顔を眺め、まったく可愛いったらない、と誰も同意してくれないことを真剣に考えた。
「タダで教えてやったって恩を売るって? そういう考え方もあるが、厚意と取られても面倒だろう。だったらもらっておけ。ただし振り込みは駄目だ。源泉徴収されるわけじゃなし、領収書はもらうなよ」
「つったってよ、お前」
「ヤクザ相手に真っ当に考えるんじゃないよ、馬鹿だね」
「あのなあ」
「明日の十五時からだからな、励めよ、勤労青年」
「覚えてやがれこのクソ虎! 死ね!」
「ああ、俺はこれから用があって忙しいから死ねない。じゃあな」
「コラ!」
 秋野はここ数日で一番いい笑顔を浮かべて見せ、ふてくされた哲にわざとらしく手を振りその場を後にした。
 後日哲に聞いたところによると、狛犬兄弟──本名は吉田と新妻──は、筋トレでつけた筋肉はすごいものの、運動のセンスはまるでないらしい。
「せめて思いっきりぶん殴れんなら俺も発散できるぜ、けどよ、お前アレは……本気で蹴ったら泣きやがったんだぜ、マジで! ヤクザのくせに、信じられるか!?」
 本気で嘆かわしいという顔をする哲があまりに可愛かったので、思わずその場で押し倒した。鬼の形相で暴れ吼えまくった錠前屋は最終的にそれこそ泣く羽目になったのだが、それはまた別の話、秋野だけが知る話だ。

 

 

「まあでも、こんなもんなんじゃないでしょうかねえ」
 遠山は交替でサンドバッグを蹴ったり殴ったりしてみせる二人を眺めながら言った。
 組員の知り合いに紹介してもらったキックボクシングのジムで、吉田と新妻は場違いには見えなかった。吉田がサンドバックを思い切り殴る。いい音がしてサンドバッグが結構揺れた。
「いやあ、上出来、上出来」
 中嶋は満足そうに相好を崩している。
 ぎしぎし軋みながら揺れているサンドバッグはこのデモンストレーションのためにわざわざ設置させた初心者向けの安くて軽い代物で、中は布が詰まっていて軽くてやわらか──なんてことは勿論言わない。
 そうしろ、と言った男の顔を思い出しながら、遠山は胸の内でこっそり笑った。
「あのなあ、あれ筋トレで作った筋肉だろ?」
 服を着ていると筋肉なんかなさそうに見える痩せた男は、最後の指導が終わった後、事務所の外に遠山を呼び出し銜え煙草で言った。
「見栄えはすっけど実戦向きじゃねえし……まあ、その辺はいいけど。とりあえず蹴り方と殴り方は教えといたけど、間違ってもカチコミ要員とかにしねえほうがいいぞ」
「分かってる」
 思わず笑った遠山に、錠前屋は年寄り臭い溜息を吐いて続けた。
「今時武闘派も流行んねえだろうからいいけどさ──おっさんに見せるなら、軽いサンドバッグあるとこで柔らかいのでやらせるといい。普通のやつ、素人が下手に力入れて殴ったら手首痛めっから。あの二人だったら筋力ある分却ってまずいし」
 面倒くさそうにしながら、錠前屋は結局約束した期間はきちんと教えに来て、遠山に色々と言って帰って行った。
 義理の弟と同級生だと言うから、まだ三十になっていないはずだ。しかし、義弟の栄よりはずっと大人に見えるし、気が遣える。
 恐ろしく凶暴な面と、常識的で真っ当な面と。
 遠山自身は錠前屋に対して特別な愛着や親近感は持っていないが、それでも、誰かがそう思う気持ちは不思議と理解できた。錠前屋の乱れた髪を撫でつけた長い指を思い出しかけ、意識してそれを頭の外に追いやっておく。一見仲が良くもなさそうなあの二人が本当のところどういう関係でも、遠山には関係ない。
 サンドバッグを蹴る大きな音と中嶋の歓声で我に返り、そういえば何十年も前にドラゴンなんとかという映画があったような、とぼんやりと思い出した。中嶋の好きなブルース・リーからドラゴン、そこからの連想だったが、気になってスマホを取り出し検索したら、タイトルはドラゴンロード。主演はジャッキー・チェンだった。
 ほとんど彼らの映画を観たことがない遠山には違いがあまり分からないが、中嶋は多分どちらも好きだろう。観たかどうか訊いてみよう。正直言ってどっちがどうでも興味はないが、中嶋が好きなものなら知っていたかった。
 先輩に憧れる高校生みたいな思考だなと考えて、もしかしたらあの二人もそうなのだろうかと少しの間だけ思いを馳せた。
 完全に的外れかもしれないし、案外当たっているかもしれない。ドラゴンロード自体に意味はない。その映画を愛する誰か、その人物を形作る要素のひとつ。それが何か知っていること、それを手にしていることに意味がある。
「遠山ぁ!」
「はい」
 中嶋がご機嫌な声で名前を呼ぶ。遠山はもう一度検索画面に目を落とし、ドラゴンロード、ドラゴンロード、と呟きながら、自分を呼ぶ大切な人に向かって歩き出した。