積年の切れ端

 哲らしいと言えばらしいし、らしくないと言えばらしくない。
 どうでもいいことが繰り返し頭に浮かび、いい加減嫌になって溜息を吐いた。まったく、感情というか脳というか、何でもいいが頭というのは御し難い。精密機械と同じで、小さな接触不良や処理の躓きが訳の分からない結果を引き起こして持ち主を悩ませる。
 哲の部屋のドアを前にして、秋野は小さく溜息を吐いた。

 

 哲が電車に乗ることはあまりないが、皆無でもない。買い物や解錠の仕事、人と会う用事があれば当たり前に使うのは知っていた。今日もある駅前のビルに何かを買いに行ったらしく──詳しくは知らない──そこそこ混み合う時間に目的の駅に降り立った。
 電車から吐き出された人は多いから、階段も混んでいた。スマホを見ながら歩いている人間も多いが、大抵はそれなりに気をつけて昇降する。哲は運動神経と反射神経が服を着て歩いているような男だから特別気を遣ってはいなかったかもしれないが、普通に注意はしていたはずだ。
 だから、人波に逆らい駆け下りてきた男に突き飛ばされてバランスを崩した年配の女には反応できたのだ。女もろとも階段から落下するようなことはないはずだった。彼女が無意識に目の前のものを掴んだりしなければ。
 女の前にいたのがトレンチコートを羽織った、わりに大柄な男だったのがよくなかった。落下を防ごうと本能的にトレンチコートのベルトを掴んだ彼女は、突然背後から引っ張られ何の抵抗もできなかった男と一緒に哲の上に落ちてきた。運悪く哲は最後尾で、哲を支えてくれる人はいなかった。それでも咄嗟に女と自分の頭部を庇うことができたあたりは哲らしい。正義漢でもなんでもないが、哲は年寄りと女子供には弱いのだ。その場は一時騒然とし救急隊が呼ばれたりしたらしいが、結局トレンチコートの男が不運にも右足首を捻挫したのが一番の重傷だったとか。
 こういう諸々を、秋野は哲の部屋の前に立つ数時間前、その日の午後に川端から聞いた。
 病院から家族の連絡先を聞かれて哲が教えたのは川端の番号だった。軽くではあるが頭を打ち脳震盪を起こしたからということで一応一晩の入院を勧められたらしいが、それならとおとなしく病院で寝ているような男ではない。
「そんなだから、すまんが一応見舞に行ってくれ」
「行くのは勿論構いませんけど──」
 秋野は川端と話しながら、目の前の花に目を向けた。静脈血のような赤い色の花。花の名前は知らない。その辺に咲いているようなものではなく、洒落た花束でしか見ないような、単体だと一般的な可愛らしさを感じない花だ。正に血の色だが、その割に不思議とおぞましさは感じなかった。飾られているものではなく売り物なので、ごく淡いグレーの大きな花瓶にただまとめて生けられている。
「きれいな花でも持って行きますか?」
 嫌がらせにしかならないが、と口に出さずにつけ足したら、川端が同じことを口にした。
「そりゃあ哲にとってはどっちかというと嫌がらせだな」
「そうですね」
「あんたもひどいねえ」
 川端は笑ったが、すぐに真面目な声に戻った。
「見舞いの花はいらんが、頼むよ。頭も打ってるし」
「石頭ですよ、あれは。父親代わりみたいな川端さんが過保護になる気持ちは分かりますけど」
 それは社交辞令ではなく本心だった。年齢も性別も何から何まで違うとはいえ、秋野にとっての利香だと思えば、川端の気持ちも理解できる。階段から転げ落ちただけでどうということもないと言ってもやはり心配なのだろう。勿論頭部の強打は笑いごとではないが、話を聞く限りではそこまでひどかったとも思えない。
「まあ、二階分転げ落ちたわけでもないですし、腕で庇ったなら──」
「……あのな」
「はい?」
「時間にしたら本当に一分二分の話らしいんだが」
 川端はそこで言い淀み、普段は馬鹿でかい声を潜めるようにして呟いた。
「──記憶障害があったらしくて」
 特に意味もなく踵を返し、部屋の反対側に足を向けた。室内はむせ返るような花の香り、というにふさわしい芳香がする。花屋なのだから当然のことだが、秋野の見えるところにいるのが弘瀬だけだからか、何か酷く間違っているような感じがした。
 店内を歩き、緑色で中心がクリーム色の花の前に立つ。これは秋野も知っている、葉牡丹というやつだ。初めて見たときはキャベツみたいだと思った。
「それは、脳震盪を起こしたなら普通のことですよ」
「ああ、そうなんだ、分かってるよ。間違いなく一過性で、しかも俺が病院に着いたときには完全に治ってたし。医者にもしつこく確認したけど大丈夫だって。けどなあ、あいつは息子みたいなもんだし、一晩平気なら大丈夫だろうから……だからって俺が張り付いてたって喜ばんだろう」
「俺が張り付いてても同じくらい喜びませんよ」
「そんなことはないだろう」
「いや、真面目な話です。どっちにしてもこれから用があって、ちょっと遅くなってからでないと行けないんですが、いいですか?」
「構わんが、あんた、合鍵は渡されてるか?」
 川端の感覚がおかしく、秋野はなんとなく頬を緩めた。哲の話からしても秋野が接した印象からしても、川端はごく普通の不動産業者というわけではない。海千山千、という感じのくせに、時々ごく普通のお父さんみたいなことを言う。
「もらってないですが、ご存じのとおりいつも鍵はかかってないですし」
「そういうことを言ってるんじゃないよ、俺は。まったく、あいつなら」
「川端さん、いいんですよ。欲しくないですから」
「でもなあ──」
「そういうものじゃないんでしょう。哲にとっては」
 川端は束の間黙り込み、とにかく頼むよ、ともう一度言って電話を切った。
「何かあったのか?」
 カウンターの中の椅子に腰かけていた弘瀬がパソコンから顔を上げた。秋野は弘瀬の顔から目を逸らし携帯を上着のポケットに突っ込んで葉牡丹の花びらに触れてみた。実際にそこが花弁なのかどうかは知らないが、少なくとも秋野には花に見える。フリルのような縁は思っていたより硬くて本当にキャベツのようだった。
「哲が階段から落っこちて頭を打った」
「錠前屋が? 階段から落ちるようなタイプには見えねえけど」
「落っこちてきたおばさんを受け止めたはずが、おばさんが別の人間を掴んだんで二人分の負荷がかかったって」
「ああ、そういうことならあるかもな。頭って」
 大丈夫なのか、と続けた弘瀬は秋野の顔を見て肩を竦めた。
「あんたが顔色も変えずにそこに突っ立ってんだから大丈夫なんだな」
「周一、あのな」
「はいはい、あんたは常にポーカーフェイスですよ。確かに今のは適当に言った。でも実際そうなんだろ? 血相変えて飛び出してくわけでもないってんなら」
「まあな」
「電話、本人?」
「いや、あいつの身内だ。様子見てきてくれって」
「おお、家族ぐるみのお付き合いか」
 弘瀬はからかうように笑い、パソコンの画面に目を戻した。
「見舞いに何かいる? 昨日売れ残ったやつでまだ大丈夫なのあるけど。どうせあいつ色とか種類とか気にしねえだろ」
「気にしないどころか、花束なんか持っていったら喉の奥まで突っ込まれる」
「怖えなあ。じゃあ小田原さんにもらった酒やるよ」
 立ち上がった弘瀬は店の奥に消え、すぐに出てきた。小田原は今ここにはいない花屋の店主だ。戻ってきた弘瀬は酒の瓶をぶらさげていて、銘柄を見たら販売終了した国内メーカーの高級ウィスキーだった。
「この間客にもらったんだって。あの人飲まないからって、三本もあったのに全部くれた」
 だからと言ってなぜ哲に、とは訊ねなかった。この間の礼なのは明白だ。金を払って依頼したのだからそれでいいし、そもそも哲自身は感謝されるいわれもないと感じるだろう。弘瀬自身も分かっているに違いないが、それでも何かしら渡したいと思ったのは弘瀬周一という存在するようなしないような曖昧な男なのか。それとも津田響という存在しないはずの少年なのか、どちらであっても秋野が踏み込むべきことではなかった。
「剥き身で持って行けって? 袋くらいくれ」
「まさか、俺もそこまで無粋じゃねえよ」
 浮かんだ笑みに感じた嫌な予感は的中し、鼻歌混じりにクラフト紙とリボンを取り出した弘瀬は、いらないと言っているのに酒をおしゃれにラッピングしてみせた。
「……真面目に働いて仕事を覚えて、偉いぞ周一、って褒めるべきなのか俺は」
「あんたにヨシヨシしてもらう必要はねえよ」
 秋野は喉まで出かかった男の名前を押し止め、一応礼を言って瓶を抱えた。
 弘瀬がアンヘルに抱く気持ちが例えば恋愛感情ならよかったかもしれない。そうでなければ小さな子供が父親を求めるような気持ちだったら。
 弘瀬は──響は、忘れていたままでいたかったのだろうか。それとも、例え一分でも二分でも、失くしていたことの方がつらいのか。
 訊ねることはないだろうなと思いながら、秋野は振り返らずに花屋を出た。

 

 哲の部屋はいつもどおり鍵が開いていて、当然のことだが照明は消えていた。ムードもへったくれもない蛍光灯のスイッチを点け室内に目を向けると、部屋の主は布団と枕の隙間から少しだけ顔を覗かせて熟睡していた。
 布団に埋もれていると聞いたら大抵はかわいらしい感じを想像するのだが、哲の場合は安定のかわいくなさだ。今にも唸り声を上げそうな哲の顔をぼんやり眺め、秋野は無意識に、小声のスペイン語とタガログ語で悪態を吐いていた。
「──うっせえ……」
 哲に言ったわけではなかったが音は聞こえたらしく、何故か枕の端にぐいぐい額を押し付けながら呻いた哲は、眉間に縦皺を刻んだまま目を開けた。眩しいからだろう、目を瞬き、不満げに唸った。
「何でいんだよ」
「川端さんに頼まれて」
「あぁ……?」
 語尾を上げるチンピラくさい声を上げながら子供みたいに目を擦る。
「頭打ったんだろ? 心配してた。俺に一晩様子見てくれって」
「大したことねえのに──俺は子供かよ」
 まだ顔が半分布団の中だから、声は籠って聞き取りにくかった。
「頭打ったつったって、てめえに殴られたときとたいして変わんねえし」
「川端さんがそれ聞いたら俺は出禁だな。これ、弘瀬が見舞いだって」
「出禁? てかなんで弘瀬」
「電話、川端さんからのな。受けたときたまたまあいつのとこにいたんだ。川端さんの話だとお前、記憶障害があったらしい。駅員が駆け付けたときに、少しだけ」
 ラッピングされた酒と弘瀬と記憶と川端。一見ばらばらなものが哲の中で並べられ、繋がっていくのが見えるように錯覚した。寝起きで哲の思考が緩やかなせいだろうか。それとも普段よりゆっくり感じる瞬きと、まだ布団に半分埋もれたままの顔のせいか。
 哲は小さく溜息を吐き、布団の中から片手を出した。起き上がるか煙草を要求されるかと思ったら、哲の手はそのまま秋野の胸元に伸びてきた。ニットの胸元を鷲掴みにした哲に引っ張られるまま身体を屈める。
 覚醒しきっていないのか、眠たいだけなのか。哲の内側はあたたかくて柔らかかかった。口腔内なんて誰でも柔らかいものだろうが、秋野が時折思い出す哲の感触は、口蓋のカーブや歯の硬さだ。
「──哲?」
 床についた掌で身体を支える秋野の肘に哲の手がかかる。突っ支い棒を外すように乱暴に引っ張られて倒れ込む。布団が間に挟まっているから、哲の上にというより布の上に、という感触だった。
「何だよ」
「別に」
 あっさり手を離した哲は、身体を起こす秋野をどこかぼんやりとした目で眺めていたが、億劫そうに起き上がって枕元の煙草のパッケージを手に取った。ライターの石が擦れる音と、火が点く一瞬のごくわずかな音が耳につくほど静かだった。秋野がいることを忘れたように煙を吐いている哲はどう見ても正常だったし、具合が悪そうにも見えなかった。
 一晩中見ていることもないだろうと思って立ち上がり、玄関に足を向けながら哲を振り返った。
「電気は──」
「消してくれ」
「ああ」
「あと、鍵」
「鍵?」
 怪訝に思って立ち止まる。鍵をかけろと言われても合鍵は持っていないし、ピッキングの道具を常備しているのは秋野ではない。
「どうやってかけろって」
「ああ? そこ回せばかかんだろ」
 顎を振って哲が指したのはサムターンだった。
「何突っ立ってんだ」
 煙を吐き出しながら前髪をかき上げ、哲は僅かに首を傾げた。
「一晩様子見てこいって言われたんじゃねえのかよ?」

 

 半分眠っているから、と思えばいいのか。
 それとも、忘却とか喪失とかに反応した秋野への慰めみたいなものと受け取るべきか。
 掌と指先で哲の身体の輪郭と感触を確かめる。眠る前にシャワーを浴びたらしい。眠っていた人間の皮膚とシャンプーの匂い。温まった布団の中は繭か何かのようだった。
 長い時間をかけたせいか、終わったと思ったら哲は軽く寝息を立てていた。寝返りを打ちこちらに背を向けた哲を腕に抱いたまま秋野も眠った。さすがの錠前屋も眠ってしまった後まで文句は言わない。浅い眠りから覚醒し、目の前のうなじに歯を立てた。うつぶせの哲に覆いかぶさり勃ち上がったものを押し込める。進める限界まで腰を押し付け揺さぶると、哲は低く呻いて身じろぎした。
「どうして」
 何も言わない、と問いかけたが、起きているのかいないのか、哲は溜息のような声を漏らしただけだった。何度も首筋を甘噛みし、鼻を擦りつけ、名前を呼ぶ。さすがに目が覚めているだろうに、哲は抵抗もしなかった。引きずるように抜いて浅いところを何度も突く。哲は歯を食いしばっているのか声も上げずに、自分のものを掴む秋野の掌に艶めかしい動きで腹を擦りつけた。ゆっくりと、何度も中断しながらそんなことを繰り返し、一体何時だったのか、哲が布団を脱け出すのを感じて目を開けた。
 体温が失われた側がひんやりする。水音がするから用を足しているのかそれともシャワーか。今すぐ出て行けと蹴り出されなくてよかったと思いながら起き上がった。
 手探りで下着とTシャツを探して身に着ける。デニムを掴み、少し考えてから穿くのは後にして、放り出してあった哲の煙草のパッケージを手に取り一本銜えた。
 普段とは違って罵倒も文句もない代わりに、色っぽい声もない。ただ微かに聞こえる呼吸音と布や肌が擦れる音がすべてだった。
 哲に確かめたいことがあったような気もしたが、声に出すのは躊躇われた。哲がいつもと違ったからではない。訊くまでもないことのような気がしたからだ。
 積み上げてきた何か、その一部やすべてが失われたとしても、また積み上げればいいだけだ。もしも哲が忘れても、嫌がっても、自分が覚えているならそれができる。哲がほんの切れ端でいいから持っていてくれさえすれば。

 

「──?」
 煙草を吸いきって横になったらうっかりまた眠ったらしい。目を開けると、哲の顔が真上にあった。微かに白み始めた空のせいで、青味がかった濃い灰色のフィルターをかけたように見える。
 濡れていると感じて目が覚めたのは、哲の前髪の先が秋野の顔に触れているからだった。辛うじて水滴が垂れないくらい。シャワーか風呂から上がって軽く拭っただけなのだろう。視線を下にやると、哲は何も着ていなかった。
「……風邪引くぞ」
 我ながらつまらないな、と思いながら言ってみる。哲は頬を歪めて微かに笑うと、秋野のTシャツを捲りあげるように両手を突っ込んできた。
 湿った肌の感触が妙に煽情的だった。手指と唇が下がっていき、脇腹に思い切り食いつかれたから思わず跳ね起き哲の身体をひっくり返した。
「痛いよ」
「あんまり前じゃねえんだけどよ」
 哲がゆっくりと口を開く。ほんの数時間話さなかっただけなのに、随分久し振りに声を聞いた気がした。
「割と最近──あー、多分あれ、あのすげえタワーマンションの後くらい」
 何を言いたいのか分からず戸惑う秋野に構わない様子で、哲は続けた。
「女とやってる最中に、お前にされたことがぱっと出てきたりとかするようになりやがって」
「……」
「前はそんなの絶対なくて、女とやってる時の俺は完全にアレ、そっちの頭になってたっつーか。そこにお前の入る余地なんか一切なかったのによ」
 伸びてきた指が秋野の頬に触れる。それは優しげでも愛しげでもない、ただそこにある物体を確かめただけというような触れ方だった。
「今は、何かっつーと思い出す」
 指がうなじに回り、乱暴に後頭部の髪を掴む。
「てめえがどこ触って、どこ噛んだとか……どういうふうに突っ込みやがるか、とか」
 引き寄せられるままに屈み込む。哲のもう片方の手が下着の中に潜り込んできて直に掴まれた。鋭く息を飲んだ秋野の顔を見て、哲はひどく凶暴な笑みを浮かべた。
「こんだけ身体に染みついたらもう忘れねえよ。それに今日──昨日か? どうでもいいけど、またいいだけ覚えさせたろ」
 湿った前髪の束が哲の瞳にかかって陰を落とす。
「だから、忘れろ」
 矛盾しているようなそうでもないような台詞を吐いて、哲は両方の手を布団の上に放り出した。
「今欲しいのは、何だよ?」
「──……」
「俺か? それともなんかの保証なのか」

 

 明けきらない薄闇の中で執拗に穿たれ、哲は、甘ったるくも色っぽくもない、まるで傷が痛むかのような声を上げ続けた。
 積年の執着の切れ端を握り締めるように秋野の腕を掴んだまま。
 何もかも忘れて眠りに落ちるまで。