叶うな、願うな 9

「なあおい、忘れたら何を忘れてるか分かんねえってよ!」
 中二階のドアをがんがん蹴っ飛ばしながら喚いたら、嫌そうに顔をしかめた秋野が出てきた。眠ろうとしていたのか、適当な格好になっている。もっとも、適当な格好ではあっても哲のそれとはまるで趣が違っているが。
「何だ、寄るなら寄るって言っていけよ」
 欠伸を噛み殺して言い、秋野は哲が入りやすいように一歩下がった。本当はそのまま帰るつもりだったが、何となく中に踏み込む。
「寄るつもりだったわけじゃねえよ。ただ、何となく」
「響はいたか?」
 何も言っていないというのに、ベッドに腰を下ろした秋野はそう訊いてきた。
 自分以外の誰かと完璧に通じ合うことなんてできないし、相手のすべてを理解することなんて不可能だ。だが、秋野は時折哲の頭の中を覗き込み、正しい答えを掴み出すような真似をする。
 それは決して心地いいものではないが、さりとて酷く不快というわけでもない。哲にとっては秋野と出会ってから馴染みになったもののうちのひとつだった。
「……ああ」
「そうか」
 シャワーを浴びたらしく目に落ちかかってくる前髪を片手でかき上げ、小さく溜息を吐く。
「思い出したならよかった」
「そう思うか?」
「ああ。どの程度戻ったのか知らんが、覚えてないよりずっといいだろう」
「そもそも忘れたのは、本人が忘れたかったからかもしんねえけどな。どうでもいいけど。まあ、そんで、忘れたら何を忘れてるかもわかんねえって」
 ドアを蹴っ飛ばしながら言ったことをもう一度繰り返した。ソファに寄りかかるようにして立つ哲を、秋野の薄茶の瞳がじっと見つめる。
「っつーことは、忘れたら忘れたことも忘れるわけだろ? あ? 何だ? 何言ってるかよく分かんねえけど、忘れた方は別に何とも思わねえってことだろ。つーことはだぜ、忘れねえ方がどうかって話じゃねえの」
「こんがらがるな」
 唇の端を曲げて笑った秋野の顔はいつもの顔だった。弘瀬と同じ、腹の中に流れる光がいくつあっても、どれが傷つきやすい秋野で、どれが違う秋野かなんてわかるわけがない。
「俺が忘れたら、お前は好きにすりゃいいんじゃねえ?」
 煙草を取り出して銜えた。秋野の顔に気を取られ、ライターがどこにあるか一瞬分からなくなって胸の内でほらな、と呟く。誰だって少しずつ忘れ、そして新たに手に入れる。火を点けないままのそれをぶらぶらと揺らしながら、パーカーのポケットに両手を突っ込んだ。
「──じゃあ、俺が忘れたら?」
 穏やかな声で訊ねる秋野の瞳孔がライトの光にぎゅっと縮まり、獣に睨まれているみたいな気分になった。
「さあ、そうなってみねえとな。けど、」
 ポケットからライターを引っ張り出す。
「他に欲しいもんはねえ、何も」
 誰も、と付け足しライターを擦る。
「お前に会う前に戻るだけだ」
 穂先を焦がす炎の先。葉っぱを包む薄い紙が焦げ、縮れて灰になっていく。吐き出した煙が哲の動きにつられてゆるゆると流れ、意志があるもののようにたゆたった。
 ドアを開け、外階段を降りる間に風に煽られ、煙草の穂先から白い灰が散ってどこかに舞っていった。

  
 未だによく分からない。叶っていいのか。既に自分のものではあると思いつつも、欲しいと願っていいかさえ。
 いつか終わるかもしれないと思いながら、終わりが来なければいいとは思わない。それは多分、どこかが歪んでいるのは分かっているからだ。
 人としての真っ当な何かが欠損している自覚、本来は当たり前に人を愛せる秋野という人間の本質、大和の願う楽園と幸せ。悩みも迷いももうしないが、進む道が正しいかどうかは多分いつまでも分からないままだろう。
 忘れるなら自分ではなく秋野であってほしいと願う。そうでなければ、あの男は何も覚えていない哲を前に、必死に足掻いてすり減るに違いない。無駄なことをする必要なんかひとつもないのに。
 何もかもなかったことにして、行くべきところへ行けばいい。俺から切り取ったすべてはどこかに捨てればいい。返されたって今更嵌め込む場所があるでなし、そもそも覚えていないなら、壊れたまま生きていくだけだ。
 階段を降り切ったところでしゃがみアスファルトに煙草を擦りつけ、立ち上る細い煙に目を細めた。
 街灯の光がアスファルトを淡く照らす。こいつらは石に見えて石ではない。原油が原料なんだとか。目に見える姿とその正体、想像と現実、掴んでいるのは一体何なのか。
 何の気配もなかったのに、蹲っていた身体を後ろからきつく抱き締められた。通行人なんかいないし、いたとしたって道路からは見えない位置。それでも反射的に周囲に目をやった。秋野が低く喉を鳴らす。
「誰からも見えないよ」
「……離せ、クソ虎。重てえから体重かけんな」
「忘れても思い出す。響みたいに」
「思い出したことを忘れたいみたいだったぜ。あいつ」
 視界に入る長い指に触れてみる。普段なら振り払う指の先の形のいい爪。顔が見えないからなのか、不思議と叩き落そうとは思わなかった。
「だから?」
「だからってお前──」
「俺を誰だと思ってるんだ」
「いや、つーかよ」
 笑った哲の顔に指が触れる。子供の熱を計るように掌が額に触れて、そのまま前髪を梳きながら離れた。
「忘れないし、忘れさせない。何なら直接書いとくよ」
 何の前触れもなく突然うなじに噛みつかれて、低く濁った呻き声が出た。手加減のない顎の力に皮膚が捩れ、肉が圧されて涙が滲む。
「痛え! 齧んじゃねえこの馬鹿──!」
 背中に圧し掛かる重さから逃れようと身体を捩り、アスファルトに両手をついて無理矢理立ち上がった。掌が擦れる感触。ようやく離れたと思った歯が耳殻に食い込み、どこへもやらない、と掠れた呟きが耳を侵した。
 直接皮膚から染み込んできそうな息遣い、肉を食いちぎられると錯覚するほど強い力。
「俺は思う通りにする。したいように」
 動物みたいな目を持つ男は歯軋りしながら忘却とか喪失という言葉を蹴散らして、望むものを余さず食い尽くすのだと咆哮した。
「一人にはしない」

 

 

「アンヘル、何くさってるんだお前」
 隣のカウンタースツールに腰を下ろしたでかい男を横目で見て、アンヘルはあからさまに眉を寄せた。
 在日米軍の士官であるジョナサンとは長い付き合いだが、アンヘルはジョナサンが好きではない。底抜けに明るく、裏表がなくてお人よし。一体どうしたらこんな絵に描いたような善人が育つのか。アンヘルからしてみたらジョナサンの人間性は不可解以外の何ものでもない。
「別にくさってない」
「景気の悪い顔してるじゃないか。なあ、俺にいつもの、こいつに同じの」
 バーテンダーは愛想のない顔で頷き、酒の棚に向き直った。ここは米軍や関係者しか出入りしないバーだ。別に日本人は立ち入り禁止と掲げてはいないが、メニューから何から英語で、誰も日本語を話さない。日本人というのは読み書きや聞き取りができても話すことは不得手らしく、こういう店は避けて通る傾向にある。
「くさってないなら何だよ、なあほら、俺が聞いてやるから言ってみろ、アンヘル」
 太陽みたいな輝く顔を見ていたら、誤魔化すのも適当なことを言うのも面倒になった。ジョナサンは誰をもこういう気分にさせ、そのことにまったく自覚がない。五十代も半ばを過ぎて、まったく稀有な存在だと思う。
「子供がいてな」
「子供? お前に? 隠し子か?」
 ブルーの目を輝かせたジョナサンが筋肉質の身体を乗り出してきて暑苦しい。アンヘルは上半身をやや反らしてジョナサンから逃げながら首を振った。
「違う。親が死んだんで一時的に面倒見てるガキがいるんだ。もう三年くらいになるか……そいつが、俺を父親代わりと思ってるみたいで」
「そりゃ、面倒見てるならそうだろう?」
「いや──面倒って言ったってほとんど住むところを提供してるだけに過ぎんし、そもそも俺にはガキに対する愛情もない」
「ああ、あー、それはまあ……自分の子じゃないわけだしな?」
 そういうことではないと言っても、二人の息子と末娘のよき父であるジョナサンには通じないことは分かっていた。秋野に感じる微かな父性愛みたいなものを、響──今は周一と名乗っている──には感じないことも。
 それは多分、秋野が僅かではあっても自分と同じようにいかれた部分を持っていて、響はそうではないからだ。何をどう模倣しようと響のまともさは変えられないし、アンヘルにはその健全な精神を理解することはできないからだ。
「だけど、慕ってくれるなんて可愛いじゃないか。別に今子供として愛せなくたっていいだろう。何も愛情だけが親子の結びつきじゃないんだし、ただ信頼し合えばそれだけでも違うんじゃないか」
 グラスに注がれた新しい酒を揺らし、秋野の瞳と同じ色のそれを眺めながら響のことを考えた。
 愛情は感じない。可愛いとか、守ってやりたいとか。そもそもアンヘルは誰かに──勿論、秋野にも──そういう感情を抱いたことがなかった。
 だが、ソファに座って、子供と呼ぶには大きい身体を丸めながらジンジャーエールを啜っていた少年を傷つけたいとは思わなかった。
「家族が欲しいなら自分で手に入れればいい。いつか、どこかの女とガキでも作って」
「そうだなあ、子供はいいぞ」
 ジョナサンは笑ってボトルビールを呷り、赤くなった頬を緩ませながら末娘のことを話し出した。
 ほとんど頭に入ってこないジョナサンの子供自慢を聞きながら、アンヘルは長いこと思い出しもしなかった父親の顔を思い出した。ほとんど忘れかけたその輪郭はぼやけるままに放置して、拾ったときとは少し変わった顔をその場所に据えてみた。
 いつか、あいつの願いを叶えてやる気になるのだろうか。
 彼を家族と思う日が。
 ジョナサンの歌うような南部訛りが、アンヘルの身体を撫でるように優しく通り過ぎて流れていった。