叶うな、願うな 8

 到着までそう長い時間はかからなかった。昼間なら電車移動の方が早そうだが、この時間はさすがに交通量も少ない。
 ありふれた郊外の住宅地。並んでいる家屋を見ると住人は大半が高齢者、たまに売っ払われた土地があって子供世代が住んでいるという感じだろうか。まだ深夜には程遠いにも関わらず、住宅の照明はほとんどが消えていた。
 街灯の数は少なくないのにやたらと暗く感じるのは、家の明かりが消えているからだ。飲み屋街に慣れているからか、怖いくらいの静寂に訳もなく走り出したくなった。
 弘瀬はどこかの塀の脇に車を停めた。路上駐車は目立つのではないかと思ったが、どうせみんな眠っているから、短時間なら気がつかないのかもしれない。
 映画やドラマで見るゴーストタウンみたいに人気のない道のど真ん中を堂々と進んだ弘瀬は、一軒の家の間で立ち止まった。想像の三倍くらい敷地があったので驚いた。弘瀬は門扉の簡単な掛け金を外すと迷うふうもなく家に通じる私道を歩いていく。
 地主か何かなのだろうか、両側に広がる庭が広い。今風のガーデニングが施されてはいるが、昔からそこにあるのか、所々に日本庭園めいた木が立っている。家もリフォームされ、まめに手入れされているように見えるが、今時の住宅とは年代が違うという感じだった。
 私道を通って家に辿り着くと、隣にガレージらしきものが建っていた。この間陶芸家の家で見たような離れではなく、大きめの車庫と言っていい。
 正面にはシャッターが下りているが、側面にドアがあった。作った時のままなのだろう、哲からしたら施錠されているうちに入らないシリンダー錠がついていた。それでも錠前は錠前だ。胸をときめかすことはないまでも、自然とポケットに手をやったら、弘瀬があっさり鍵を取り出して開けてしまった。
 思わず重く長い、落胆の溜息が出た。
 南京錠も昔のシリンダー錠も、哲にとっては子供の玩具と変わらない。目を瞑っても開けられるから、何のやりがいもないと言えばない。だが、どんなに簡単に開こうが、錠前は錠前なのだ。
 弘瀬が振り返って怪訝な顔をしたが、哲が何も言わないでいるからか、向き直ってガレージのドアを開けた。
 後ろ手にドアを閉める。弘瀬が壁に手を這わせ、スイッチを見つけたらしく照明を点けた。窓はないし、ドアにガラスも嵌っていない。シャッターの下の隙間から多少光が漏れるかもしれないが、少なくとも通行人からは見えないだろう。
「さっきのは?」
「ああ?」
「さっきの溜息」
 弘瀬が奥に進みながら言うから、哲は再度溜息を吐いた。
「合鍵持ってんのな」
「ああ、作っといた。え? 何、俺の用意周到さに陶然とした溜息だったとか?」
「違う」
 ばっさり斬って捨てたが、弘瀬は特に応える様子もない。
「そりゃそうか。で、何だって?」
「開けたかっただけだ」
「あー、あ、そうか。悪ぃな」
 あまり悪いと思っているふうではなかったが、まあ別に謝罪されることでもない。
「いや、いいんだけどよそれは。どれだ」
「これだよ」
 弘瀬が段ボール箱をひとつ退かせて場所を創り、身体を避ける。
 そこには結構なでかさの古い金庫が置いてあって、金庫を一目見た哲の口から今度は正に陶然とした吐息が漏れた。
「お前、言えよ先に……山田金庫の次は大蔵か、くそ」
「え? やっぱ古すぎてやりづらいとかあんの? 悪かったな、ちゃんと──」
「あ? ああ、違う、そうじゃなくて喜んでんの」
「喜ぶって、え、何が」
「うるせえなあ、もう邪魔すんなよ。黙ってろ」
「えー」
「ケツ退かせって」
 身体を軽くぶつけて押し退けたら弘瀬はぶつぶつ言いながらもおとなしく脇に避けた。
 この間大和が来た時に開けた山田金庫と同じく、大蔵金庫も古い金庫のメーカーだ。もっとも当時はメーカーなんて呼び方はしなかったのだろうが。
 最近では廃棄されてしまったものが多いのだろう、そうそう見かけることなんかないし、あっても破損していたりする。現役で金庫として使われていることも少ないので、解錠依頼も勿論稀少だ。
 古くなった金庫の表面。塗料が浮きかけた場所を指でなぞる。事前に弘瀬から聞いていた響の祖母の情報、彼女にまつわる数字と絡み合った何かが奔流となって流れ込んでくる。
 音のない音、金庫の記憶とでも呼ぶべきもの。弘瀬の中にもあるのだろうか、となんとなく思う。ダイヤルのつまみに触れ、金庫の声に耳を澄ませながら。誰かに──自分自身に聞いてもらいたい、掘り起こしてもらいたいと叫ぶ何かは、今も弘瀬の中にあるのだろうか。
 一瞬考えたそんなことを頭の中から追い払おうと、哲は手を止め、目を閉じた。今ここにいるのは哲と錠前、それだけだ。遠い昔に消えてしまった高校生のことなど関係ない。
 かちりと何かが嵌る音。まるで火花が散るように弾ける何か。金色に光る細かい鱗粉みたいな誰かのかけら。
 こんなところにまで入り込んでくるあの男の気配に苛立ち、同時に微かな安堵も覚えた。多分、苛立っていれば立ち位置を見失うこともない。
 蝶番の軋む音、抵抗が突然消えて扉が開く。
 開いた扉から殊更ゆっくりと手を離し、哲はそっと詰めていた息を吐き出した。

「まったく──よく取ってあったよな」
 祖父母の家を離れて数分経って、弘瀬はようやく口を開いた。
 哲が開けた金庫にはほとんど何も入っていなかった。使わないからガレージに入れてあったというのだからまあそれも当然だ。
 古くなった箱や冊子、金属の缶。金庫に入れる必要もなさそうなそれらの間に置かれていた大判の封筒はそれなりに嵩があった。
 金庫の中を検めた弘瀬が手に取ったのは封筒だけ、今、それは後部座席に無造作に置かれている。
「……なあ」
「何」
「あんた、何かひとつでも思い出してんの?」
 弘瀬は前を向いたまま何も言わず、ただハンドルを握っていた。一瞥した限りでは、例えば指に力が入っている様子も、歯を食いしばっている様子もない、それまでと変わらない横顔だった。
「ようやく俺に興味持ってくれたってこと、じゃねえよな」
「違う」
 放り出すように言った哲の台詞に、ああ、とかはあ、とかいうような音が被さった。
「ですよね」
「あんたに興味はねえ。けど、忘れるってどういうことかっていうのには、少し興味ある」
「──忘れたいことでもあんの? それか……捨てたいものがあるとか」
 探るような鋭い目を向けられたのは意外だったようなそうでもないような、だった。秋野はそれなりに弘瀬を心配し、可愛がっているように見える。対して弘瀬は特に何も感じているようではなかったが、それもまた隠されていただけなのかもしれない。
「心配しなくてもあんたの大事な誰かを泣かせる気はねえ」
「……」
「何かを忘れたいってわけじゃなくて」
 煙草に火を点け、窓を開けた。風が吹き込んで煙と前髪を巻き上げる。
「始まる前に巻き戻してえとはいつでも思ってるけど。今この状態で忘れんのは面倒なだけだからいい」
「……」
「ただ、どういうもんなのかって単純な好奇心つーか。あと、」
「あと、何だ?」
「俺が馬鹿だから忘れちまうんじゃねえかって気にしてる繊細な馬鹿がいる」
「──忘れたら何もねえよ」
 弘瀬はハンドルから片手を離して目を擦った。
「何を忘れたのかも分かんねえんだから惜しみようもねえし、忘れたくなかったとか思うわけでもねえし。ただ……なんていうか、長いこと歯になんか挟まったみたいには感じてた」
「……」
「気になったからってほじくる手段もなかったから、放っとくしかなかったけど」
「そういうもんか」
「放っといたら治ったし。だから──」
 結局弘瀬はそれ以上続けずに黙り込んだ。窓の隙間から吸い出される煙と吹き込む風で押し込まれる煙。車は少なく、繁華街より空は暗くて静かだ。図らずも記憶が──どの程度かは別として──戻っていることを白状してしまった弘瀬だったが、自覚があるのかないのかは分からなかった。
「何が入ってたんだ?」
 哲が口を開くと、弘瀬は「ん?」と言ってこちらを向き、ルームミラーに目をやった。まるで後部座席に放り出した大判の封筒が生き物で、今にも起き上がるのではないかというように。
「書類」
 低く抑えられた声には抑揚が欠けていた。
「俺──津田響の母子手帳とか。戸籍謄本とか抄本とかも。そんなの役所に行けばいくらでも取れんのに」
「ふうん」
「あとは、写真」
 更に低くなった声が呟く。
「子供んときの?」
「ああ。そんなにあったわけじゃねえけど。でも、袋ん中にほんとの赤ちゃんときのとか」
 弘瀬の口調がゆるやかに変わっていく。微かに稚気を残したそれは、高校生の「響」かもしれない。
「そうか」
「そう、後は多分入学式とか、卒業式とか」
「ああ……節目んときに祖父さん祖母さんに渡したかなんかしたんだな」
「うん、多分。修学旅行とか。友達と写ってるやつ。年上のいとこの結婚式とか、あとは、母さんと父さんと」
 ぶつり、と家電の電源を切ったように音が途切れて静かになる。タイヤがアスファルトを擦る音が後方に過ぎ去っていく。
「どっちだっていいじゃねえか。覚えてても忘れてても」
 哲はフロントガラスの向こうをぼんやり眺めながら呟いた。
「昨日の晩飯忘れることもあるし、どうせ人間の記憶なんて斑だろ。全部覚えてる奴なんかいねえ」
「アンヘルが、俺の面倒を見てくれたこと」
 そこで言葉を探すように暫し口を噤んだ後、弘瀬はまた口を開いた。
「感謝してる。いい人じゃないし……変人なのは確かだし。でもいいとこだってあるから好きだよ。何も思い出せなかった頃は、家族になれたらいいなと思ったこともあったけど──でも、俺にそんな資格はないから」
 叶うな、願うな。
 自ら壊した家族を願ってはいけない。叶ってはいけない。
 そう唱え続ける傷ついた高校生は、今も確かにここにいる。
「何で資格がねえと思うんだ?」
 弘瀬は何か言いかけたように半分口を開けて哲を見た。ハンドルを握っていると突然思い出したのか、数秒経って慌てたように前方に目を戻す。
 フロントガラスの向こうには、何台もの車。似たような形のテールライトが川のように流れて行く。
 弘瀬の中はこんな風に見えるのだろうかと何となく思う。どれが弘瀬でどれが響か分からない。混じり合う光と光。分かち難く結びつき、揺らめいて流れて行く。
「何でって……」
「あんたのせいじゃねえよ」
 前を見据える弘瀬の顔は、哲の知っている弘瀬の横顔だった。