叶うな、願うな 7

「よう」
 弘瀬はこれから飲みにでも行くような気安い挨拶を寄越した。もっとも弘瀬の生業──花屋ではない方──を考えれば、ただの不法侵入なんて散歩みたいなものなのだろうが。
「ん」
 ほぼ唸り声、若干人の声が混じったような哲の挨拶を聞いておかしそうに笑い、弘瀬は哲の肩をばしばし叩いた。
「何だよ、元気ねえな!」
「うるせえな……あんたが元気すぎんじゃねえの……」
「仕事帰りだっけ?」
「あ? ああ、いや。居酒屋は頼まれてシフト代わったから今日は休みだった」
「そうなのか。じゃあ休みだったんじゃねえか。何ぐったりしてんだよ」
 それは勿論昨晩から色々とあったからだ。いや、正確に言えば「あった」じゃなくて「やった」からか。何だか知らないがスイッチが入ってしまったのは自分だけではなかったらしい。
「──思い出したくねえし、言いたくねえ」
 不機嫌面の哲に弘瀬は怪訝そうな顔を向けたものの、哲が疲れていようといなかろうとどうでもよかったと見える。ふうんとかううんとか曖昧な相槌を打つと、すぐに哲を促して歩き出した。
 すでに午後十時過ぎとあって駅に向かう人間も多かったが、これから飲もうと店を物色している人間もまだ多かった。人混みを抜けつつ弘瀬が口を開く。
「近くに車用意してあるから、それで行こうぜ」
「分かった」
「運転は?」
「あんたがすりゃいい。道知ってんだから」
「意外だな。あんた、ハンドルは誰にも握らせねえってタイプかと」
「ねえよ、面倒くせえ。横に乗ってて命の危険を感じる運転なら別だけど、そんなことねえんだろ」
 弘瀬はにやにやして頷いた。自分より少し高いところにある横顔を何となく眺め、昨日アンヘルと秋野に聞いた高校生の話をまた思い出した。
 秋野の部屋でそれこそ何ひとつ思い出したくないあれこれを終えた後──ついでにシャワーと、本来シャワーには付随しないはずの諸々に散々翻弄された後──痺れたような、ぐずぐずに崩れて馬鹿になってしまったような頭でつらつら考えてみたら、弘瀬はどうやら年下だった。年下と言っても一つかせいぜい二つくらいのものなのだが、何となく年上かと思っていたから意外だった。
 大人びているかというとそんなこともないのだが、どこか達観したような、笑っていても本当には笑っていないような、そういう部分があったからだ。だが、響という少年の話を聞いた今は、それは老成などではなくもっと違うものなのかもしれないと思った。
「そう思うことねえのか」
 仰向けに寝転がっている哲の横に腰を下ろして煙草を吸っている仕入屋に訊ねてみると、乱れた髪の隙間から覗く金色がこちらに向けられた。
「ずっと思ってる」
「──ふうん」
「ああなってから知り合ったら気づかないかもしれないけどな。元の響とは違いすぎて……ただ、俺が知ってるのは記憶がない状態だから、もしかしたらあれが成長した響そのものなのかもしれないし」
「ああ、そういうこともあるか」
 確かに、一回まわって元に戻ったというだけなのかもしれない。
「本当に思い出してないのかどうかだって分からんし」
「本人は一切思い出してねえっつってんのか」
 頷く秋野が吐いた煙がゆるやかに立ち上る。ここの空調設備はしっかりしていて、広いわりに気温をまだらに感じることがない。元々そうなのか、秋野が住むのに手を入れたのかは知らない。空気の流れは緩やかで、煙は静止しているように見えた。
「一貫して何も思い出してないって言ってる。それが嘘だとしても何の問題もないから、誰も追及してないけどな」
「何ひとつ思い出せねえってことあんのかな。名前とかも全部分かってて、そんでもかけらも出てこねえってこと」
 弘瀬が何を覚えていようと関係なかったが、何となく訊ねてみる。記憶喪失というのは映画や小説でもよくあるネタだが、実際に何もかも忘れて一切記憶が蘇らないなんてことがあるのかどうか、哲にはよく分からない。そして、どんな過去があったにせよ、それがいいことなのかどうかも分からなかった。
「さあ……ないとは言えないんじゃないのか? 少ないにしても」
「そうか。まあ、そうよな」
 上体を起こし、秋野の手を掴んで乱暴に引き寄せ、指先に挟まっていた煙草を勝手に吸い付けた。
「あいつが誰だろうと何考えてようと関係ねえからどうでもいいけど」
「忘れることがあると思うか?」
 突然訊かれて何のことか分からなかった。
「ああ? 何を」
「色々、全部を」
「……」
 秋野は時々こういうことを言うが、自分の望む答えを引き出そうとしていないのは知っている。そもそも答えを望んでいるのかどうかも分からなかった。
 ずっと前に思ったことだが、色々な意味でこいつは強い。だが、その精神の強靭さにも関わらず弱い部分は確かにあって、それを隠そうともしないのが仕入屋というひとだった。弱いところはあるが決して脆くはない。
 弘瀬の強さと見えたものが単に忘却──つまり無知であるならば、強さとは一体なんだろう。哲は考えたって仕方がないことを考え、すぐに頭の中から追い払った。
「すげえ強く頭ぶつけたら忘れるかもな。何もかも。今の首相とか横綱とか」
「横綱か」
「西だけ覚えてて東は忘れるとか」
「横綱なのか」
「悪ぃか。国技だぞお前、相撲は」
「いや、悪くはないしそういうことを言ってるんじゃない」
「──んなことは分かってる」
 照明が一部しか点いていないから、中二階はベッドの周りだけがぼんやりと明るかった。
 真っ暗な山の中で焚火でもしているような、そこだけ世の中から取り残されてしまったような根拠のない不安を微かに感じ、しかしすぐにどうでもよくなった。
 本当のことを言えば、哲にとっては、秋野以外はどうでもいいのだ。ほんの数人だが、気にかけている人はいる。だが、言ってしまえば彼らにすら、秋野に向けるほどの執着はない。
 今、運転席に座って鼻歌でも歌いそうな顔をしている弘瀬の顔が、津田響という少年の成長した姿なのか、それともつくりものの人格でしかないのか、そんなことは更にどうでもよかった。
「何?」
「あ?」
「俺の顔に何かついてるか?」
「つくべきもんはついてんじゃねえの、多分」
 弘瀬は笑いかけたが、どうしてか途中で顔を強張らせた。
「──どこまで聞いた?」
 硬い声は弘瀬と会って初めて聞くものだったが、そもそも会ったのはほんの数回だ。
「さあ? 聞いた話が俺にとっては全部だけど、あんたにとって全部かどうかなんて知らねえし」
「……」
「どうだっていい、興味ねえ」
 哲は言い捨てて煙草を銜え、助手席の窓を少し下げた。隙間に向かって煙を吐く。狙い通り煙が車外にふわふわと流れて行く。煙の行方を見るともなしに見ていたら、暫く経って弘瀬が突然笑い出した。
「おい、何だよ。突然笑うな、怖えな」
「いや、悪い──」
 そう言って笑う弘瀬は、哲が知っている弘瀬に見えた。いつもふざけた物言いで、戯れに哲に迫ってみたりする。悪戯な少年みたいに振る舞う男。
 何の脈絡もなく、弘瀬が引き金を引いたから死んだ占い師を思い出した。今日の空は曇っていて、月はどこにも見えなかったが。
「なんかあんたと喋ってると、色々考えんの馬鹿みてえって気持ちになるなあ」
「なんだそりゃ、どういう意味だ」
 煙草を携帯灰皿に突っ込み、溜息を吐く。
「俺が馬鹿なのは分かってるけど、何でそれであんたが馬鹿みてえな気持ちになんだよ」
「あんたは馬鹿じゃないと思うけど。秋野は、馬鹿は嫌いだろ」
「知らねえよ。つーか今何回馬鹿って言ったっけ?」
 弘瀬はちょっと唇の端を持ち上げて笑い、その後は目的地に着くまで口を開かなかった。