叶うな、願うな 6

 秋野がアイーダのママに何か用事があるとかいうので、アンヘルのところを出た秋野と哲はエリのところに寄った。別について行きたかったわけではないが、じゃあな、と踵を返しかけたら文字通り首根っこを捕まえて方向転換させられたのだ。
 俺は猫の子かと大荒れに荒れた哲を面倒くさそうにいなしながら結局秋野は哲を連れてアイーダまで来てしまい、なんだかんだと好きなようにされている哲は眉間に刻んだ皺を深くするしかなかった。
 アイーダのような店が混むには──というか、開店にも早すぎる時間だというのに店内は賑わっていた。エリによると今日は最近導入した月に二度のハッピーアワーの日で、夕方早い時間から開けているらしい。遅い時間には何だかイベントごともあるらしく、安い酒目当ての一見客も常連も入り乱れての混雑らしかった。
「うるさくてごめんねえ。カウンターでよければ飲む? 誰もつけないから好きにしてて」
「いや、いい」
 秋野は首を振ってカウンターの奥の事務所に入っていった。
「てっちゃんは飲んだら。待ってるのに突っ立ってんのも何だし」
 ちょうど次の客が来るまで十五分ほど空いているというエリに案内され、カウンターの端っこに座る。いつもそうだが、アイーダは耀司が勤めていたティアラよりは女の客が少ないし、観光客もほぼいない。
 ティアラは華やかなショーがメインでダンサーも半分くらいはプロを目指す奴らのアルバイトだ。つまり、実際に女装趣味があるダンサーは少なく、たまに生物学上の女が混じっていることもある。アイーダにはそういう外部スタッフはいなかった。
「……なあ」
「なあに? お酒、適当でいいわよね。どうせてっちゃんは度数以外関係ないし!」
「お前何気に失礼だなおい。いいけどよ……」
「やだあ、愛あるいじめよう。で、何?」
「弘瀬って知ってるか? あの野郎の知り合いの」
「花屋の周ちゃん? 知ってるわよ」
「花屋だあ?」
 思わずひっくり返った哲の声に笑いながら、エリは何だか分からない酒のグラスを差し出してきた。
「っていっても、周ちゃんがお花いじってるのは見たことないわねえ。経営者のお手伝いみたいな感じ? その経営者が秋野の知り合いの知り合いなんだけど」
 その花屋がまっとうな、ごく普通の花屋とは思えない。秋野本人と知り合いではないというなら、アンヘル絡みか。もしそうだとしたら、弘瀬が勤めていてもおかしくないのだろうが。
「多分配達とかの運転と、あとは市場から仕入れた花運んでくるとか……結局力仕事担当なんじゃない? っていうか、そもそも仕事してんのかしらね」
「じゃあ花屋のって冠つけるのおかしいじゃねえか」
「まあそうなんだけどぉ」
 エリは笑いながら哲の隣のスツールに赤紫のドレスの尻をひっかけて座った。
「何で? 何かしたの、周ちゃんが」
「いや、ただ今日久々に顔見たから」
「そうなんだ! 私最近会ってないのよねえ。てっちゃん今度会ったらたまには顔出してって言っておいてよ」
「自分で言やいいじゃねえか」
 哲がそう言うと、エリは銜えた煙草を摘んで少し考え、顔を背けて煙を吐いた。
「あたしが言ったら、カレ、無理してでも来ちゃうでしょ。そうじゃなくてふらっと遊びに来てほしいのよねえ」
「──そういうタイプか? 見えねえけど」
「今はねえ」
 煙をかき乱すように、エリはネイルした指で宙に渦巻きを書くように手を動かした。灰色の石を透明な水に沈めたみたいな不思議なネイルが、ダウンライトを受けてきらりと光った。
「親しくはないから印象だけだけどさ……前はもっとお人形さんみたいだったの。冷たいとかじゃなくてねえ……いつもちょっと上の空っていうか、困ったような顔してた。だけどなんかいつの間にか今みたいになってて──あたしからすると、オネエが女っぽいふるまいを学習するみたいに、ああいう人格を学習したように見えんのよ」
「……」
「男とも女とも付き合うのよね、周ちゃん」
「ああ、そう聞いたけど」
「それも本当なのかなあって、ちょっと疑問に思うときあるわよ」
「……」
 エリは灰皿に煙草を押し付けて、つけ睫毛で重たそうな目を瞬いた。
「まあ、分かんないけどね。本当のことなんて、本人だって分かんないこともあるし」
 すぐにエリの客がやってきて、哲が煙草を一本吸い終えたら秋野が奥から戻ってきた。哲はエリに注がれた変な味の酒──なんだか草みたいな匂いがした──を飲み干して、秋野の後から店を出た。
「このままバイトに行くか?」
 訊ねる秋野の腕を掴んで時計を確認したらちょうどいい時間だった。ちなみに哲は腕時計をするのが嫌いであまりつけることがない。いくつか持ってはいるのだが、気づいたら電池が切れて止まっていたりする。
 つけない理由は簡単、殴り合いのときに相手の目にでもぶつかったら喧嘩が事件になってしまうかもしれないからだ。そういうことを気にしない相手のときはつけていても別に気にしないが、そもそも喧嘩スケジュールがあるわけではないので、つけないほうが安心だ。
「あー、そうな。ちょうどいいかも」
「後で寄れよ」
 掴んでいた手首が離れるその時に、秋野の指が哲の手の甲をするりと撫でた。
 乾いた皮膚の感触に気を取られた一瞬のうちに秋野はさっさと遠ざかり、寄ったりしないと宣言する機会はあっさり奪われた。
 哲はその場で小さく舌打ちし、アイーダのように客が押し寄せ言い訳ができますように、と考えながら歩きだした。

 しかし、うまくいかないときは何もかもうまくいかないものだ。哲は着替える間もなく店を追い出された。
 店主を怒らせたとか、客に対して粗相があったわけではない。どうしても明後日とシフトを代わってほしいという奴がいて、今日明日の勤務が明後日と明々後日になっただけだ。二連休なんかあっても仕方ないと思うがそれこそ仕方がない。
 勤務する曜日や時間にこだわりはないのだが、遅くなって寄れなかった、と言い訳できない状況は腹立たしかった。どうしても行きたくないわけではなく、言われるままに立ち寄るのが業腹なだけではあるのだが。
 秋野に知り合いの娘──中国人──との結婚話が持ち上がったのはつい先月。結婚話と言っても一般的なものではなく一種の偽装結婚で、秋野がいくつか持っている他人名義の戸籍と彼女の結婚だった。
 書類上の手続きでしかないその話に過剰なほど反応した自分が滑稽で、忌々しい。だがいくら鼻で嗤ってみたところで、誰にもやりたくないという感情に衝き動かされ、雨の中馬鹿みたいにあの男を待って突っ立っていた事実は消せなかった。
 どんなに足掻いても、見えないふりをしてももう遅い。ひとかけらを失うと思っただけでどうしようもなく動揺するのに、知らぬ顔はもうできなかった。
 顔を見たいとか、会いたいとか考えることは今もない。いなければいないでそのうち現れるだろうと思うだけで、積極的に所在を知ろうという気にもならない。
 だが、手の届く場所にいるとき、見える場所にいるとき──そしてあの野郎について考えるときは無意識のうちに思ってしまう。俺のものだ、と。
 どこかひとつ螺子が飛んだか、箍でも外れたか。理由なんか何でもいいが腹立たしかった。
 外階段をわざと音を立てて上った。どうせスニーカーのゴム底が立てる音なんて高が知れているが、音を立てなくても人の気配を察知する男がイラつけばいいとつまらないことを考えて、我ながらガキみたいだとおかしくなった。
 ドアをひとつ蹴っ飛ばし、反応がないので立て続けに何度か蹴る。足音はしなかったが突然内側からドアが開き、秋野が「蹴るなよ」と呆れた声を出した。
「ノックしたんだ、ノック」
「ノックは手でするんだって何百回言えば分かるんだお前は」
 ドアに施錠する秋野を放置して部屋の中に進み、ソファとベッドの中間あたりで足を止めた。当然ながら続いて歩いて来た秋野を振り向き、哲は思い切り前蹴りを食らわせた。秋野は避けかけたが、スペースが不十分だったせいかソファに脚がひっかかり──長い脚にも欠点はある──バランスを崩した。追い打ちをかけるようにもう一度蹴っ飛ばす。三度目はさすがにうまくいかずに避けられたが、勢いのまま身体を寄せて殴りつけ、飛んできた肘を抱えるように体重をかけて押し倒した。
 哲ごとベッドの上に倒れ込んだ秋野の上に馬乗りになって拳を振り下ろしたが受け止められた。長い指が拳を締め上げ、腹を立ててはいないがやはり少しばかり呆れ顔をした秋野が溜息を吐く。
「突然スイッチが入ったみたいに蹴ってくるのは止せよ」
「突然スイッチが入ったんだっつーの」
 何でもない顔をしているくせに秋野の力は強く、哲の拳は少しも動かない。だったらもう一度やり直そうと引いてみたが、駄目だった。
「何のだ。喧嘩スイッチ?」
「そうじゃねえ」
 頭を下げ、容赦なく指に噛みついた。それだけなら多分離れなかっただろうが、哲自身の右手もまとめて一緒に齧ったらあっという間に解放された。
「お前、商売道具を──」
「うるせえ、俺の手なんだから俺の好きにする」
「あのな」
「てめえも俺のだから好きにする」
 吐き捨てて覆い被さり唇に噛み付いた。噛むなよ、と微かに笑いを含んだ囁きが唇に触れ、体重移動だけであっさり上下を入れ替えられた。
「可愛いところを見せてくれるスイッチか?」
「そんなスイッチ装備されてねえ」
「じゃあ何だ」
「教えねえ」
 胸倉を掴んで引き寄せさっきと同じ場所にもう一度齧りつく。秋野の唇から低い笑い声が漏れ、哲の吐息と交じり合った。
 お前は俺のだからマーキングしてやりたいスイッチ、なんて口にはしない。
 何をされるものやら分からないし、いくら仕入屋が相手でもそこまでの被虐趣味は持ち合わせていなかった。