叶うな、願うな 5

「……名前を変えるって?」
「はい」
「何なら顔も少しいじったらどうだ。瞼をちょっと変えるだけでも大分違うだろう」
 アキという若い男は、翌日になってもどこにも行く気配がない響を見て怪訝な顔をし、アンヘルから話を聞いてあからさまに嫌な顔をした。
「俺は関係ないが──出頭するほうがいいんじゃないのか」
「身に覚えのない罪で裁かれるためにか? このガキ、やったことだけじゃなく今までの人生全部覚えていないのに」
「もし思い出したら? もう友達にも親戚にも会えなくなるんだぞ」
 響に目を向けて言う彼が心配してくれているのはよくわかったが、そんな言葉も正直遠かった。別にアンヘルのことは好きではないし、助けてくれた恩を感じるならアキの方だし、そもそも彼の言うことが正論だと分かっている。
 そんな常識は自分の壊れてしまった頭にもちゃんと記憶されていて、そちらに従うべきだという判断さえ下しているのだ。
 それなのにどうして、と問われても分からない。分からないものを説明のしようもない。しかし幸いにもアキはそれ以上言わなかった。
「──分かったよ、俺の人生じゃないから、本人がしたいようにすればいい。本当に強要されてないんだな?」
「はい」
 頷く響を一瞥して、アキは重い溜息を吐いた。
 ドラマみたいに、じっと目を見つめられて本心なんだなとか言われるのかと思った。だが、アキは金色に煌めく目で響を掠めるように見ただけですぐに目を逸らした。
「何がいるんだ。戸籍?」
「ああ」
「未成年だとちょっと時間がかかる。二十歳くらいまでなら許容範囲かな──」
「そうだな。日本人にしては上背もあるし、顔つきも割とガキっぽくないからいけるだろう」
 その後の会話は英語に変わって、響のヒアリング能力では追いつけなくなったから聞き取ろうとするのは諦めた。
 顔をいじるとか、新しい名前とか。
 まるでハリウッド映画か海外ドラマみたいな台詞を当たり前のように口にして、それが滑稽に響かない彼らは一体何なのか。
 少なくともアキの方は話す日本語からして日本で生まれ育ったように見える。しかし、それにしたって所謂普通の会社員ではないことくらい、高校生の響にもすぐに分かった。
 アンヘルに至っては言わずもがな、そもそも彼が自分にさせようとしていること──何かの訓練──が一体どこに行きつこうとしているのかは、昨晩の短い会話だけでも十分に推し量れた。
 勿論具体的なことは分からない。それに、響が想像力を働かせすぎているだけかもしれない。
 それでいいのか、と自問したのは夜になりまた一人の部屋のベッドに横たわってからで、暗い中、何の模様も見えない素っ気ない天井を眺めながらだった。
 自問自答というくらいだから答えてくれるのは自分しかいない。だから、当たり前のことがだが答えはなかった。
 知識だけ残されて思い出や感情を根こそぎどこかに置き忘れてしまった津田響という高校生。人生経験は二十年にも届かない。彼に答えられることなんて記憶があっても限られているだろうし、そう考えれば仕方がなかった。
 いっそ常識も知識も置き忘れて、子供のようになってしまっていればよかったのに、と埒もないことを思う。そうしたら、アンヘルでも誰でも、誰かのいうことを信じて従うことに疑問なんか持たなかった。
 いや、どちらでも同じか──と考え直す。疑問を持ったところで別にどうしようという気もないのだから。
 何ということもなく起き上がってリビングに戻ると、アンヘルはまだ起きていて、それこそ映画で見るようなグラスに入った酒を持ってソファにだらしなく座っていた。
 消音になっているテレビではドキュメンタリーみたいなものをやっていて、スーツを着た年配の男性が何かインタビューに答えているようだったが、音声がないから何を言っているのかまるで分からない。
 アンヘルはどうした、と問うこともなく、響の顔を数秒眺めて興味なさげにテレビに目を向けた。
「眠れなくて」
 一応言ってはみたが、アンヘルは耳が聞こえないのではと疑うくらい何の反応も見せなかった。
 キッチンに行って冷蔵庫を開け、ペットボトルのジンジャーエールを発見して手に取った。今朝まではそんなものはなかったような気がするから、アキの気遣いなのかもしれなかった。
 アンヘルのことはよく知らないし、例え知っても多分好きにはならないだろう。仲良くしたいとも、可愛がられたいとも思っておらず、ただ人のいるところにいたいだけだった。
 何となく視線を落としたら、足元の床の上にきらきら光るものが見えた。身体を屈めて拾い上げてみると、直径三ミリほどの淡いピンクのラインストーンだった。多分アクセサリーか何かから剥がれ落ちたのだろう。
「……どんな女が好きだ」
 突然アンヘルが日本語で訊いてきた。視線はテレビを見つめたままだ。
「え?」
「女。どんなのがタイプだ」
「さあ……分かりません。覚えてない」
「覚えてなくても本能的にあるだろう。胸のでかいのがいいとか、脚がきれいなのがいいとか、笑ったらかわいいとか」
 最後のひとつがちょっと意外だったから思わず笑ったら、アンヘルはようやくテレビから響に目を移した。
「高校生なら好きな女くらいいただろうにな」
「そうですね。多分いたと思うけど」
 もしかしたら彼女だっていたかもしれない。そう考えて立ったままぼんやりしていたら、アンヘルがちょっと身体をずらしてソファの片側を空けた。
「来い」
 命じられるままソファに腰を下ろしてジンジャーエールのキャップを捻る。炭酸飲料だから当然だが炭酸ガスが漏れるお馴染みの音がして、その音量に少しだけ驚いた。
 アンヘルは何を話すでもなく黙っていた。父親のように気遣いを示そうともしないし、友人のように親しみを見せようともしない。まるで響がせいぜい犬猫、もしかしたら置物か何かのように隣に置いてすっかり興味を失ったように見えた。
「あの……」
 声をかけても反応がない。
「えっと──アンヘルさん……?」
「さんはいらない」
 素っ気なく言われたが、一応こちらを向いて返事をしてくれただけマシだと思った。
「アンヘル、は、ええと──どんな女の……ええと、どんな人が好みなんですか?」
 言い直したのはアンヘルが同性愛者に見えたからではない。なぜか、そういうことに配慮して発言しなければいけないのだという知識は記憶から消えていなかっただけだ。アンヘルはちょっと面食らった顔をしたものの、にやりと笑い、そうだなと呟いた、
「顔より身体がきれいな女がいい。どんな見た目だろうが、男は好きじゃない」
「じゃあ例えば性格とかは」
「そんなことを訊いてどうするんだ?」
「いえ、どうもしませんけど、何となく」
 今度は本当に笑い出したアンヘルは酒のグラスを傾けながら少しだけ考える仕草をした。
「人の言うことに耳を貸さない女がいい。自分だけを信じてるような──ちょっと優しくしたからって俺を信じたりしない女がいい」
 これが例えば映画のワンシーンだったなら、アンヘルにはかつて愛した女性がいて云々、となるのかもしれない。訊ねてみようかと思ったが、もしそれが合っていても的外れでも関係ないかと思い直した。
「なんか……俺にはまだ難しいみたいです」
「そのうち決まる、好みなんてものは」
 微かな笑いがアンヘルの唇の端に浮かぶ。
「今のお前が欲しいものも、いずれ見つかる」
 アンヘルはそれきりまた響のことを忘れたように黙り込んだ。
 そのまま会話もなくテレビを眺め、いつの間にか眠り込んだらしく、気がついたら朝になっていた。アンヘルは出かけたのか姿が見えなかった。響はソファの上に起き上がり、テーブルの上に置いてあった飲みかけのぬるいジンジャーエールをゆっくりと飲み干した。