叶うな、願うな 4

「うお」
 思わず出た声に、ドアを開けた男と秋野は同時に哲に顔を向けた。
「……あ、悪ぃ、何でもねえ」
「何だよ?」
 秋野がこちらを向いて訊ねるので、哲は仕方なく口を開いた。
「いや、なんつーか親子みてえ」
「……」
「なんつったっけ、あの……あー、ヨアニス? あいつもお前に似てるけど、おっさんとはもっと──漫画とかで言う片っぽは光でもう片っぽは闇みてえな」
 秋野のものすごく嫌そうな表情を見た男が肩を震わせて笑い出したからか、当の秋野は益々不機嫌になった。
「……似てない」
「いや、似てるっての」
 薄茶の瞳を眇めて哲を睨むと、秋野はそれ以上何も言わずに男を押し退けるようにして中に入っていった。仕入屋が年をとってだらしない格好をしたらこうなるだろうな、という感じの男はにやつきながら秋野の背中を見送り、哲に向かって顎をしゃくると流暢な日本語で「入れ」と言った。

「アンヘルだ」
 アンヘルが苗字なのか下の名前なのかは説明がない。それだけではなく、一体その男がどういう男で、何故哲はここに連れてこられたのかまったくもって分からなかった。
「──どうも」
 一応会釈するとアンヘルはさっきから浮かべたままのにやけた笑いを更に大きくした。
「この坊主はあれだな、チハルから頼まれて攫った坊主だろう。あと、お前がつい最近椅子に縛り付けてたな」
「ああ」
「ふうん」
 しげしげと眺められたからこちらも無遠慮に見返してやる。どちらかというと品のある端正な容貌なのに、浮かべている笑みのお陰で台無しだった。無精髭や長い髪のせいではなくて、表情そのものに崩れた雰囲気があるのだ。
 長い髪の緩いウェーブは、いかにも欧米人の癖毛という感じがする。目の色は日本人と同じように一見黒く見える焦げ茶色だが、それが嵌っている眼窩はアジア人のそれより深く、鼻梁も高かった。
「で、何でその坊主と? 俺に何か用か」
「響のことで」
 秋野が聞きなれない名前を口にすると、アンヘルは「ああ」と素っ気なく頷いた。
「この間会ったが相変わらずだった。あいつが何かしたのか」
「いや。そうじゃなくて、響の身内が亡くなったらしい」
「身内……? 両親はとっくにいないだろう」
「祖母だって。孫可愛さに色々残してたとかで、それでこいつが」
 秋野が哲を見て、またアンヘルに視線を戻す。
「明日、一緒に行って取ってくる」
「ふうん? それがどうした? もう何年も前にいなくなった人間の写真や書類のひとつや二つ出てきたところで問題ないだろう。あいつはとっくの昔に津田響じゃない。弘瀬周一って人間なんだからな」

 津田響という高校生が起こした事件を哲は知らなかった。それほど騒がれなかっただけなのか、ニュースで観たが覚えていないだけかは分からない。何せ十年だかそのくらいは前の話だ。
 当時のニュースはともあれ、秋野の説明で響がどうやってここに現れ、結局警察に出頭せずに名前──顔も少し──変えたかは何となく分かった。
「つまりこのおっさんが記憶を失くした子供を唆したっつーことな」
「はっきり言うな。まあそうだ」
 アンヘルは秋野の説明と哲の感想を聞いて頷いた。常に何かを嘲笑うような表情を浮かべた男は、長い手足を投げ出すようにソファに腰を下ろしていた。
 部屋はそれなりに広く、洒落ているが取っ散らかっている。床の上に散乱したものは多いが、汚れたものはない。秋野のタワーマンションとは違って生活感はあるのだが、乱雑さも使い込まれた家具の風合いも、演出のようだった。
 アンヘル本人もだらしなさや品のなさを貼り付けたような外見の下に、もっと違うものを持っているように見える。もっともそれは例えば高尚な精神や清廉な人柄といったものではないのだろうが、厭世的で軽佻浮薄な印象を丸ごと信じる気はなかった。
 何かもっと禍々しい、しかし悪意がないものと言えばいいか。哲の語彙のなさでは表現することはできなかったが、そうでなければ渋々とはいえ、秋野がいつまでも付き合いを続けているわけもないと思う。
 秋野自身が丸ごと善人と思うほど馬鹿でも純真でもないから、悪い人なら付き合っているはずがない、という理論でもない。結局のところ秋野の好みなんて哲に執着している時点でおかしいが、アンヘルとは縁を切りたいと思いながら仕方なく面倒を見てやっている様子も見て取れ、尾山とはまた違う意味、違う分野での父親代わりであるのだろうとも思えた。
「ところで坊主とは仕事仲間なのか」
 アンヘルが煙草を銜えて言い、まるでそういうものを持つのが決まりだから持っている、と言わんばかりのジッポを取り出して火を点けた。一瞬黒煙が上がってすぐに消え、オイルライター特有の匂いが漂う。
 哲はこの匂いがあまり好きではない。高校時代、不良仲間と言っていい奴らがこぞってジッポを手に入れたのに百円ライターで通していたのは何も人と同じが嫌だとかそういう主張があったわけではなかった。
 嫌いというほどでもないが、鼻につく。マッチのリンの匂いは好きだが、だからといって常にマッチを持って歩く気にはなれない。
 そういう理由で鼻に皺を寄せた哲の表情をどう取ったのか知らないが、秋野は僅かに首を傾げて薄い茶色の目を瞬いた。
「仕事仲間というか、色々頼むことはある」
「どんなことを?」
「錠前破り」
 秋野はそう口にしたが、アンヘルはいまいちぴんと来ないという顔だった。日本語はかなり達者だが「錠前」という言葉と「破る」という言葉が結びつかないのかもしれない。
 天井に向かってゆるく煙を吐き出した秋野がスペイン語か何か、哲にはよくわからない言語で何かいい、アンヘルはようやくわかった、という顔をした。秋野は続けて何か言い、アンヘルが返す。少しの間会話が続いたが、当然何を話しているか分からない。そもそも興味がないので、さっさと帰りてえなと思いながら欠伸を噛み殺していたらアンヘルが結構な勢いで秋野からこちらに視線を振り向けた。
 ああ、くそったれ、なんか余計なこと言いやがったな。
 そう思ったのは秋野に対してだ。何事にも動じなさそうなアンヘルがこんな顔をしているのだからそれ以外考えられない。
 恐らく、本気か? というようなことを口にした男に対して秋野が頷き何か言う。アンヘルは今初めて目に入ったもののように上から下まで哲のことをまじまじと眺め、不意に口元を歪めて何か言った。
 英語ですらなかったので意味は一切分からなかった。だが、酷く下品なことを言っているのは分かったから、間にあるローテーブルを手加減なしで蹴っ飛ばした。品がないのはお互い様だが、そういう問題ではない。
 あちこち剥げたテーブルがアンヘルの膝に勢いよくぶつかり、鈍く重たい音がする。まったく予想していなかったらしいアンヘルが今度は英語で悪態を吐き素早くテーブルを蹴り返したが、こちらは想定内なので脚を上げて避けてやった。
 秋野は煙を吐き、アンヘルに向かって片眉を上げて見せると日本語に切り替えた。
「気が荒いんで気を付けたほうがいい」
「先に言えよ、まったく──なんでこんなのがいいんだ、お前、頭がおかしいんじゃないのか」
 哲は低く唸り声を上げたが、それはアンヘルへの同意であって非難ではなかったことが伝わったかどうか。秋野は正しく理解したらしく、思わずというふうに苦笑したが。
「放っといてくれ」
 煙草を灰皿の底に押し付ける秋野と仏頂面の哲を交互に眺めていたアンヘルは、唐突に真顔になると秋野を見た。
「……アキ、こいつを俺に預けてみないか?」
「はあ? 何言ってんだおっさん」
 返したのは秋野ではなく哲だったが、アンヘルは哲を無視して秋野に言った。
「今の動きを見ただろ? 反応もいいし、周一より素質がある」
「それは否定しないが、嫌だよ」
「どうしてだ。面白いものができるんじゃないか? 運動神経がいいから格闘系は問題ないだろう。銃やナイフも──」
「おいコラ待ておっさん」
 アンヘルが口を挟んだ哲に顔を向ける。
「言っとくけど、銃もナイフも興味ねえ。殴るのも蹴るのも死ぬほど好きだけど道具は好きじゃねえし、それよりまずあんたが好きじゃねえ」
 無精髭の生えた頬を撫でながら数秒黙り込んだアンヘルは、瞬きして微かに首を傾げた。ついさっき秋野が見せた仕草と驚くほど似通ったそれは、誰がやっても──いや、秋野とこのおっさんだからか──捕食動物を思わせた。
「アキのことも大して好きそうには見えんが」
「それは否定しねえけどこいつは俺のだから仕方ねえ」
「本当に仕方なさそうに言うんじゃないよ。傷つくだろ、俺の繊細な心が」
 秋野は捻り潰した煙草を灰皿に放り込んで腰を上げた。
「とにかく、預けたりはしないからそのつもりで。俺のいないところで勧誘したりするなよ」
「じゃあなんで見せたんだ」
 アンヘルが子供のように口を尖らせ、秋野は小さく溜息を吐いた。
「だから勧誘されないようにだって」
「そんなに目くじら立てなくてもいいだろう、この坊主はあの頃の周一と違って子供じゃない」
「子供とか大人とか、あんたが気にしたことがあるのか? 俺はもっとガキだったぞ」
「お前は自分から進んで来たんだ、俺を責めるな」
「選択肢はなかった」
「多分そんなことはない」
 アンヘルが浮かべた表情が酷く分別くさいものだったからか。秋野は一瞬言葉に詰まったように口を噤み、長い溜息を吐いた。
「そう思うなら焚きつけるような真似をしなきゃよかったんだ。ついでに未だに山に連行するのもやめてくれないか」
 スペイン語で何か言ったアンヘルがにやりと唇を曲げて笑い、秋野はまた溜息をひとつ吐いて、哲に向かって「行くぞ」と言った。その声は憤っているようでも諦めているようでもあり、駄目な父親に迷惑しながらも許容している息子の姿を彷彿とさせた。