叶うな、願うな 3

「どういうことだか……」
 困惑する響の顔を暫く見つめた後、男は一旦部屋を出て、どこからか椅子を一脚持ってくるとそれに腰かけた。
 ダイニングセットのひとつなのだろう。ダイニングセットが何かは分かるのに、そういう家具がある家で育ったのかどうかはまったく記憶にないのが不思議だった。
「俺も詳しくは知らない。ニュースでやってることと」
 男の目は距離があっても真正面から見つめると吸い込まれそうな美しさだ。光が当たると金色に見える薄い茶色の目の中には、焦げ茶や青緑の細かい筋が入っている。
 だが、美しい色をしている反面、何か抑えた激しいものがちらつくようにも思える。うまく説明できないが、顔立ちは人並み以上に端正なのに、その瞳が嵌っているせいで綺麗という形容詞が似合わないひとだと思った。
 行儀よく本性を隠して澄ましている野生動物。そんな印象があった。そういえばここの家主らしい男も似たような獣っぽい雰囲気だが、年配のくせにあの男の方が子供じみた印象がある。
「後は知り合いがちょっと聞いて回ってきたことくらいで」
 男の低い声に我に返り、響はその虹彩から目を逸らした。
「君の──津田響の母親が一年と少し前に亡くなった。心不全だったそうだ。既往歴はなかったっていうから、誰も予想もしなかったんだろうな」
 響に実感がないと思ったからか、男はまるでここにいない誰かの人生を語るように言った。
「彼女の携帯電話には、いくつか発信履歴が残っていた。相手は夫と息子。倒れてから亡くなるまでの間に自力でかけたと思われた。夫は運悪く出張からの帰りで飛行機に乗っていて、電話の電源を切っていた。息子は学校帰りに友人と遊んでいて、着信には気づかなかった」
 ああ、と他人事のように考えた。
 それは辛かっただろう。響は、多分自分を責めただろう。そして、父親というひとは一体誰を責めたのだろう?
「あの」
「──うん?」
「それで……俺の父親は……」
「彼は猛烈に自分を責め、憎んだそうだ。それから、同じくらい息子も」
 どうして電話に出なかったと息子を責め、そうすることで自分を責め、傷つけた。お定まりの酒への逃避。罵倒はいつしか暴力に変わって、徐々に激しくなっていった。もしかしたら、助けてくれというその人なりのサインだったのかもしれないけれど。
 響は今まで気にもならなかった両手を見下ろした。絆創膏型のガーゼと包帯で手当てされた拳。感覚としての痛みはあるが、何故か痛みとして意識するのが難しい。
 家主の男に見せられた鏡に映った顔はきれいだったのに、身体はどこもかしこも痛みらしきものに疼いていた。シャツの胸元からも見える痣。交通事故にでも遭ったのだと想像していた。
「命の危険を感じたんだろう」
 暴力に耐え続けた息子はすでに高校生で、父親の背丈を超えていたのだ。
 反抗できなかったはずはない。最初から殴り返すこともできたはずだ。だが、相手は親で、そうして彼には負い目があった。悪いのは自分。あの日真っ直ぐ帰っていれば、父がこんなふうになることも、母が亡くなることもなかったのだ、と。
「でも俺──何ひとつ覚えていません」
「ショックで一時的な健忘症になってるんだろう。知り合いの医者もそう言ってた。専門じゃないから確信はないそうだが」
 男は長い脚を組んで小さく溜息を吐いた。
「どうしてここに来たのかは分からんが、多分茫然自失でうろうろして辿り着いたんだろうな。夜中だったから人目に付きにくかっただろうし。未成年だし、虐待されていたことやその事情を考えれば情状酌量の余地は多分にある。警察に行くほうがいい」
 まったく知らない誰かの人生を読み聞かされているようだった。
 両親を失ったという悲しみも、父に憎まれたという痛みも遥かに遠く、想像も及ばなかった。
 男が作り話をする理由なんかひとつもないし、学生証の写真からしても自分の身元は明らかだ。だが、両親というひとたちの顔すら自分には分からない。分からないということに対する焦りもない。
 もしかしたら、父親を殴り殺したというそのときに、自分の一部も死んでしまったのではないかと思えた。
「一緒には行ってやれないが──」
「あ、はい」
 男は上の空の響を訝しむように眉を上げたが、記憶がないから仕方がないと思ったのか、それ以上は何も言わなかった。
「今日はゆっくり休んで、明日にでも行くといい」
 そう言って椅子を抱え、男は部屋から出て行った。
「……」
 溜息を吐き、たった今聞かされたばかりのことを反芻してみる。しかしどうにも現実味がなさすぎて、何かの詐欺に遭っているのではないかとすら思えた。
 しかし自分を──というか、津田響という男子高校生を──騙して得があるとも思えないし、二人の男の態度を見た限りではそもそもこちらに興味があるとも思えなかった。
 拘束されているわけでもないし、年配の男に至っては響をここに置いておくなとすら言っているのだ。
 もう一度さっきより長い溜息を吐いてからトイレを借りようと思い立ってベッドから出た。すでに何回か使っているので場所は分かるし、家主の男もいちいち確認するでもない。意外なほど隅々まできれいに掃除されているトイレで用を足し、手を洗った。伸ばした腕の袖口にいくつも浮き上がった痣。はっきりとは分からないが、多分指の痕なのだろうと思う。一体いつつけられたものなのか知らないが、こんなふうに残るのだから結構な力だったはずだ。父という人がどれだけ絶望し、悲しみに暮れたのかは分からない。顔すら覚えていないのだから想像もできない。
 憎しみも悲しみもぼんやりと遠い。常識を忘れたわけではなかったから、こんなふうで情状酌量なんてしてもらえるのだろうかと漠然と思ったりした。
 トイレから出てドアを閉め、顔を上げたら家主の男が廊下の向こうのドア枠に凭れて立っていた。響は足を踏み入れたことがないが、間取りからして多分そこがリビングだろう。
「あの──」
 昼間だからこんにちはと言えばいいのか、それともお世話になっていますか。悩む響を嘲笑うように、男は端正な口元を歪めて笑った。さっきまで話していた男と同様高い知性を感じさせるが、この男にはどこかが捻じれたような印象がある。
「何も感じないか」
「あ……ええ、はい。まだ何も思い出せなくて」
「そうじゃない」
 男は日本語で話しかけてきた。明らかに外国人の話す、しかし流れるような日本語だ。
「何も感じないんじゃないかと訊いているんだ。怒りも、悲しみも、辛いとも幸せだとも」
「……」
 怖かった。過去のことは覚えていないが、多分今までの人生で出会ったことがない人間。その彼がまるで自分を開かれた本のように読んでいるのが怖かった。
「怖いか」
「……はい」
 目を瞠ったまま突っ立ち頷く響を鼻で笑い、男は暫くその黒い瞳を響に向けて黙っていた。魅入られたように男の目を見つめ返し、酷く不思議な気持ちになった。吸い込まれそう、というのとは違う。それはさっきの金色の瞳に感じたことだ。
 飲み込まれそう。
 まるで覗いてはいけないと言われた部屋を開けてしまったような、扉を開いたら見たこともないどろりとした闇に搦めとられて息もできなくなったような気持だった。
「来い」
 男は唐突に言って部屋の中に消えた。金縛りが解けたように突然身体が動き出す。しかし、数時間そのまま固まっていたかのようにぎくしゃくしたぎこちない動きしかできなかった。
 踏み込んだ部屋は、想像とそう違わなかった。海外ドラマで犯罪者が住んでいるような部屋と言ったらいいか。壁紙も床も家具も傷んでいて物があちこちに散乱している。ただ、よく見ると食べ物の容器や何かが出しっぱなしになっていることはなく、すべてが清潔に保たれているのが不思議だった。
 男は座面の端が擦り切れて詰め物が見えているソファにだらしなく腰かけていた。そんな格好で煙草を銜えている様子は正に海外ドラマの出演者だ。手足が長いから、四肢を放り出した座り方でも様になるのだろう。
 どうしていいか分からずに立ったままでいると、男はまた口の端を歪め、そこに座れ、と手振りで示した。ソファと向き合う位置に置いてあったのは、さっきまで響と話していた若いほうの男が持ってきたものだ。周囲を見回したがダイニングセットはない。何故か一脚だけがここにあるらしい。
 取り敢えず腰を下ろすと、男は煙を吐き──響に煙がかかることは何とも思っていないらしい──長い指で額にかかるウェーブした髪を払いのけた。
「それで、どうなんだ」
「……え、なにが……ですか?」
「警察に行きたいのか」
「いえ──行きたくはないけど」
 何も覚えていないのだから罪悪感はない。しかし聞かされた話が事実なら、警察に行かない選択肢はないだろう。そう伝えたら男は声を出さずに肩を揺らして笑った。
 嫌な笑い方だな、と思う。罷り間違っても好感を持てる男ではない。だが嫌悪感があるかというとそれもない。記憶を失ったこととは多分無関係なのだ。まったく不思議な男だった。
「じゃあ行かなきゃいい」
 煙草を吸いつけながら目を細めて男は微笑んだ。
「でも……」
「どうして覚えてもいないことで罰を受ける必要がある? それに、お前はもう十分痛めつけられたんだろう」
 腕の痣に顎をしゃくられ、咄嗟にそこを掌で覆った。
「お前みたいな奴をたくさん見てきた」
 どういう意味なのか分からなかった。警察には見えないし、医者にはもっと見えない。困惑する響に構わず男は続けた。
「アキは、あれは特別強靭だからな。誰に何を教わるでもなく切り抜けたが、素人だと普通はそうはいかない。お前のように全部忘れるのは珍しくない。最初に手にかけた奴と一緒に感情まで殺す」
 ついさっき考えていたようなことを言われてどきりとした。
「いつか思い出すかもしれないが、忘れたままかもしれない」
「忘れたまま──」
「罰は十分だろう」
 そう言われたらそれが正しいような気もした。
 まるで思い出せない過去。確かに、もし記憶があったとしても自分だけが責められるのはおかしいのではないかと思えてきた。父からの仕打ち、自責の念、両親を失った不幸。悪いのは急に母の心臓を止めた何か。どうしてそれで済ませてはいけない。
「俺が面倒を見てやろうか」
 男はそう言って夜空が固まったような黒い瞳を響に向けた。
「勿論、ずっとじゃない。ガキとは言え男に優しくする趣味はないからな。お前が物になるまで……何年かかかるだろうが、まあ、ずっとべったりついてなくてもいいしな。俺の言うとおりにするか?」
 何がどうなっているのか、男の言っていることは分からない。それなのに、響は男に問われるまま頷いた。
「いいだろう。じゃあ、まずはお祝いをしないとな」
 満足そうに言って身体を起こし、テーブルの上、吸い殻が山になった灰皿に煙草を突っ込む。男は金色の目をした男とよく似た顔で、まったく違う笑みを浮かべた。
「それで、お前はどんな名前が欲しい?」