叶うな、願うな 2

 以前会ったときと随分印象が違うのは、髪型のせいだろう。あの時は前髪も襟足も長めで茶色く染めていた弘瀬の髪は、今はかなり短くなっていた。すっきりとした髪型のせいでほとんど別人に見える。色は欧米人の髪で言えばダークブロンドというところだが、哲に言わせれば陽に焼けた畳みたいな色だ。
「干した草っつーか、納豆包むヤツみてえな色だな、その頭」
 開口一番言うと、弘瀬は大口を開けて笑った。
「そういう感想は初めてだな」
「変な色」
「小学生かよ。あのなあ、俺は何でも似合うんだよ、ものすごく男前だから」
「おい、ここに可哀相な人がいるぞ」
 振り返って言うと秋野はぐるりと目を回し、大げさに肩を竦めて見せた。

 土足で上がり込む雑居ビルの一室が印象深かったせいか、この部屋は弘瀬に酷く不似合いに思えた。
 新築か、そうでなくともかなり新しいデザイナーズマンション。すっきりとしたデザインには無駄がなくシンプルで、汚れも、無駄な出っ張りも、何もない。家具やファブリックも高価そうで、コーヒーを零したら警報装置が鳴ると聞いても驚かない。こんなところに住むと想像しただけで、哲ならストレスで禿げそうだ。
 そういえばついこの間一度だけ連れていかれた秋野の部屋のひとつもこんな感じだったと思い出す。あちらの方が高層階だし更に家賃が高そうではあったが、哲にしてみればここもあそこも同じようなものだった。
 座ってくれと案内された居間のソファはやたらとでかい。これまた秋野の部屋にあったものとよく似ていてその座面の上で吐いた悪態やら晒した痴態やらが蘇り、哲は己の記憶を強制的に意識の外に締め出した。
 腰を下ろしたキャメル色の革は柔らかすぎるくらい柔らかく、色そのまま、溶けかけたキャラメルのようでどうにも尻が落ち着かない。
「柔らか過ぎねえか、これ。ケツが沈む」
 哲が文句を言うと、弘瀬はにやにや笑う。
「確かに座り難いけどな。座る以外に使うならなかなかいい具合だ。試してみねえか?」
「染みにするなよ。お前のじゃないんだからな」
 秋野が哲の隣に腰を下ろしながらどうでもいいことを言う。哲は大きく溜息を吐いた。
「いっそブルーシートでもかけとけば。それより、さっさと帰りてえんだけど」
「相変わらず愛想ってもんがないよな」
 弘瀬は灰皿を持って、反対側のソファの背もたれを乗り越えて座面に腰かけた。ばかでかいテーブルの両側には、こちら側と同じ大きさのソファが向い合わせで置いてある。普通の部屋ではできないことだが、無駄に広い──と哲には思える──この部屋にはそれでもまだまだ余裕がある。
「愛想じゃ食えねえ」
「客商売だろ、一応。居酒屋に勤めてんだから」
「俎板に向かって笑ってたら薄気味悪ぃじゃねえか」
「……そういう意味じゃねえんだけど」
「分ってるよ、うるせえなあ」
「なあ秋野、もう少し色々教えたらどうだよ? 愛嬌とか、愛想の振り撒き方とか」
「周一、あんまり弄るな。今日はご機嫌斜めなんだ。噛むぞ」
「ううう」
 哲が適当に唸ってみせると秋野はつまらなさそうに哲を一瞥して「ほらな」と言い、弘瀬は呆れたように言った。
「どうせあんたのせいなんだろ」
「うるさいよ」
 煙草を銜えた秋野はどうでもよさそうに言って火を点けた。
「それより用事は何だ。わざわざ呼びつけて」
 弘瀬は煙を吐きながら言う秋野の方に洒落た色ガラスの灰皿を押しやり自分も煙草のパッケージを取り出したが、結局手の中で弄んだだけで取り出しはしなかった。
「錠前屋さんを借りたいんだけど」
「仕事の依頼なら俺じゃなくて本人にしろよ。そこにいるだろ」
「仕事っていや仕事なのかもしれねえけどそうじゃなくて──」
 弘瀬はちらりと哲に目を向けて、また煙草を手に取った。
 数度しか会ったことはないが、弘瀬が普段こういう物言いをしないのはすぐにわかることだ。
「仕事っていうか……」
「何だ、はっきりしないな」
「俺の個人的な依頼なんだよ。だから別にやばいことがあるわけじゃなくて──」
「だったら尚更俺の許可なんかいらないだろう。直接交渉したらいい」
「そうだけど」
 弘瀬はようやく煙草を引っ張り出して銜え、火を点けないままぶらぶらさせた。
「……実家のことで」
「……」
 秋野はちょっと首を傾げて弘瀬を見た後哲を一瞥し、長々と煙を吐いた。
「俺が口を出すことじゃない」
「そりゃそうだけど、でもあんたには言わないとなんねえだろ。どうも父方の祖母さんが死んだらしくて」
 柔らかいソファに身を沈めるように凭れかかり、前髪をかき上げかけて今は短くなったのだと気づいたらしい。弘瀬は指先を暫し彷徨わせた後ぱたりと膝の上に手を落とした。
「金庫が残ってて……中に書類とか写真とか隠してたみてえ。祖父さんは捨てろって当時からうるさく言ってたみたいなんだけど、何年か前に先に死んじまったからな」
「ああ、確か聞いた気がする。情報は入るようにしてたのか」
「ああ、一応な。そんで、子供も──いねえしさ。来週業者が来て処分するって。だからその前に中身見て、要るものがあったら取っとかねえと」
「いつがいいんだ」
 煙草を挟む秋野の指の関節をぼんやり眺めていたら、弘瀬が今日か明日どっちでも、と小さく呟いた。秋野が促すような視線を向けてくるので、哲は勤務表を思い浮かべながら口を開いた。
「夜がいいんだろ? バイト終わった後でいいならいつでもいいけど。今日は遅番で最後までだから遅えぞ。明日なら十時くらいに上がる」
「わかった。じゃあ明日、終わる頃に店まで迎えに行く」
「別にわざわざ来なくても行く場所分かれば現地集合でいいぜ」
「いや、車使うから」
 頷いた哲にちょっと頭を下げ、普段とは違う自分を誤魔化すように弘瀬はわざとらしく明るい笑みを浮かべた。
「急な話だから料金は言い値に色つけて払うからな、まあ期待しててくれよ」
「ああそりゃどうも」
「ていうか、俺もつけちゃうぜ? 仕事が終わったらゆっくり親交を深めるのはどうだ?」
「要らねえ」
 付き合ってやるのも面倒だが、弘瀬の様子がいつもと違うから無視するのは勘弁して必要最低限の返事だけしてやった。
「いつも通り愛想がねえなあ、あんた」
「だから愛想じゃ食えねえってさっきも言ったよな」
「それは聞いたけど」
 ぶう、と膨れて見せる弘瀬の顔は一見いつもと同じようでいてやはり違う。初対面なら気づかなかっただろうが、目尻が微かに強張っていた。強張りを誤魔化すかのように笑みを浮かべた弘瀬が続ける。
「愛想も実地で教えてやるぜ」
「あのな」
「いいじゃねえか、たまにはかわいいとこ見せたってよ」
「かわいいとこねえし」
「少しくらい持ってんだろ、人間なんだから」
 弘瀬が言い、秋野が微かに唇の端を曲げて笑う。
「かもな。つーか、そんな貴重なもんがもしあったら尚更あんたには見せねえよ」
「いい女にしか開陳しねえって?」
「いや、そこでにやついてる野郎にしか見せねえ」
 素っ気なく返したら弘瀬は虚を衝かれたように一瞬口を開いて固まって、今度は本当に腹を抱えて笑い出した。

「まったく面倒くせえ奴だぜ」
 マンションのエントランスまで降りて思わず呟いたのが聞こえたのか、秋野は微かに笑いを漏らした。
 伸びた背筋と小さい頭のせいで実際の身長よりも背が高く見える。普段から猫背気味の自分とは大違いだ。別に羨ましくはないが見ているだけで腹が立つのは昔からなので、湧き上がる気持ちに逆らわずその脛を後ろから蹴っ飛ばした。
「痛っ」
 避け損ねたらしく小さな声が上がり、哲は満足して秋野の後ろについて自動ドアを潜り外に出た。
 既に陽は落ちているが、ビルの看板や街灯が多い地域だからか辺りはやけに明るかった。
「後ろから蹴るなよ、卑怯者の謗りは免れないぞ」
「お前俺がんなこと気にするとマジで思ってんのか?」
「いや」
 笑った秋野とすれ違った通行人の女が息を飲む。秋野はその音に反応してか女に目を向け、余所行きの甘ったるい笑みを浮かべた。女が名残惜し気に何度も振り返っているが、秋野は顔を正面に戻した途端にその存在を失念したらしく、何か考え込んでいた。
「おい、俺にはねえ愛想があるとこを見せつけなくてもいいからちゃんと話せ」
「うん?」
 もう一度横合いから蹴っ飛ばしてやろうとしたが今度はあっさり躱された。秋野はすっとぼけた顔で「何が?」と返して寄越したが、哲が鼻を鳴らすと小さく溜息を吐いた。
「……道端を歩きながら話すことじゃない」
「じゃあ止まればいいじゃねえか」
「嫌だよ。ご近所の主婦同士じゃあるまいし」
 長い脚でさっさと先に行く仕入屋に悪態を吐きながら、哲は渋々その後を追って歩き出した。