叶うな、願うな 1

 今日、帰りマック寄ろうぜ。
 そう声をかけてきたのが誰だったかはもう覚えていない。母は夕飯に連絡なく遅れることを嫌ったから、学校を出てから電話した。
「あんまり遅くならないでよ。ご飯食べられないくらい食べないこと」
「分かってるよ」
 必要以上に素っ気なく返して切ったのは、友人たちが横にいたからだ。
 愛想のない返事をしたこと。
 すぐに家に帰らなかったこと。
 負い目があるから、耐えるしかないと思った。そう信じた。
 打ちすえられる度、腹の底に黒々としたものが溜まっていくのが分かっていた。まるで汚泥のようなそれは、粘度を増し、いずれ体内で固まってしまうのではないかと思わせるほど重みがあった。
 憎しみならよかった。憎んでくれれば、憎めた。憎めたらよかった。それすら禁じられて、どうすればいいのか分からずただ蹲った。
 憎悪を装った絶望は、眼前に突きつけられる度腹の中でしこって呼吸を圧迫した。
「──そこで何やってるんだ」
 暗闇で蹲ってどれくらい時間が経ったのか。気付けば、頬にアスファルトが当たっていた。靴の爪先が脇腹をつつく。一瞬身を縮めたが、蹴られるのではないと分かって力が抜けた。
「高校生だろ。家に帰れよ」
 低く、深い声には何故か催眠作用があったらしい。
 ここ数日眠ることができなかったのに、いつの間にか意識が薄れていた。
 おい、勘弁してくれよ。なあ、起きろ。
 肩に誰かの手がかかる。揺さぶられたが、瞼は頑として開くのを拒む。あとは、深い眠りの淵へと否応なく引きずり込まれていくだけだった。

 何度目が覚めても、やはり自分の名前を思い出すことができなかった。
 ベッド脇に置かれた椅子には適当に畳んだ高校の制服が載せてある。最初に目覚めたときにポケットを探ったら財布が出てきた。財布の中の学生証から自分の身元は分かったが、小さな写真にいくら目を凝らしても自分の顔だと実感はできず、名前は言わずもがなだった。
「面倒事を拾ったな、アキ」
 のんびりとした声が向こうの部屋から聞こえてくる。ドアが開いているらしく、声ははっきりと耳に届いた。多分、聞こえないようにする気もないのだろう。
 流暢な日本語だが、声の主が日本人ではないのは知っていた。男は一度部屋に入ってきて、最初は英語で話しかけてきたからだ。
 授業で習った単語をいくつか聞き取れたくらいで、早口すぎて全体の意味が分からない。黙り込んでいると男は日本語に切り替えたが、言葉にはどこか嘲笑うような響きがあった。
 ベッドに座っていると見上げるほど背が高い。ウェーブのかかった長い黒髪を無造作にゴムで束ね、意外に繊細な細い顎には無精髭。彫りの深い顔立ち。外国人に間違いないと思うが、確かなことは分からない。だが、それを言うなら確かなことなど何ひとつ分かりはしないのだ。
 名前を訊かれ、分からないと答えた。学生証を見せて自分だと思うと伝えたら、男は一旦部屋から出ていき、何かの景品らしい安っぽい鏡を持って戻って来た。
 男に促されて覗きこんだ鏡には確かに写真と同じ顔が映っていた。多少やつれているし髪も伸びているようだったが、それは確かに同じ顔だった。
「仕方ないだろ。放っておいたらあんたが面倒に巻き込まれたんだぞ。むしろ感謝してもらいたいよ」
 アキ、と呼ばれた人物が答えた。声を聞いた途端頬に当たるざらついたアスファルトの凹凸を鮮明に思い出し、意識を失う前に話しかけてきた男なのだと思い当たった。
「放っておけばよかったんだ。日本人の、しかもあんな理由ありのガキなんか。ニュース見ただろう。俺のところには置いておくな。何とかしろよ」
「……もういいだろ。様子を見てくる」
「警察に連れて行けよ。お前だってたまには人の役に立てる」
「はいはい」
 起こした上体がびくりと震え薄い毛布がずり下がった。
 警察。自分が何をしたのか思い出せないのが怖かった。すべてを忘れたわけではないらしく、部屋の中にある物の名前も、自分の身長も思い出せた。なのに、どこで生まれ、どんな生活をしていたかが分からない。
「起きてたのか」
 部屋の入口で立ち止まり、アキと呼ばれた男はこちらを見下ろした。
 背が高く、整った顔をしている。無精髭の男も端正な造作だが、彼も同じだ。そっくりというわけではないが、どこか似た雰囲気も感じる。話の内容からこの男も外国人なのだと思っていたが、顔つきと肌の色だけでは判断が難しかった。
 目の色は薄い琥珀色で、髪は黒。彼の日本語は流暢というのとは違う。完全に日本人の使う日本語に聞こえたから、日本生まれの外国人か、両親のどちらかが日本人なのかも知れない。
「あの……はい。道端で倒れてたのを助けてもらったって。どうもありがとうございました」
「名前、分からないって本当か」
 この男もドアの枠より背が高いらしく、少々前屈みになっている。この頼りない記憶が間違いでなければ自分も百八十くらいあるが、彼はもう少し高いはずだ。
「財布に学生証が入っていたので、分からないわけじゃないんですけど」
「覚えてないって?」
「はい」
「何も?」
 男は、低い声で淡々と問う。
「物の名前とか、今が西暦何年とかそういうことは分かります。ただ、自分の名前と今までどうやって生きてきたのかが分からないんです。学生証を見たし、鏡も見せてもらったけど顔にも全然覚えがなくて」
 男は数度瞬きし、ゆっくりと歩み寄ってくる。椅子の上に畳んで重ねてある制服を一瞥し、またこちらに視線を向けた。
「あの、さっき警察って。俺、何かしたんでしょうか。喧嘩とか?」
 体中が痛むのは、そこここにある傷のせいだと理解していた。男は片方の眉を上げ、聞いていたのか、という顔をしたが何も言わなかった。
 部屋の中を見回してみる。椅子と同様、壁紙も傷みかけている。床には何も敷いておらず、よく見れば男もブーツを履いたままだ。男が背凭れを掴んで体重をかけると、椅子がぎしりと軋んだ。
「──ツダヒビキ」
「……はい」
 それが津田響という字をあてる自分の名前だということは、学生証を見たから知っていた。しかし、身体のどこも、頭の中も、ぴくりとも反応しなかった。
「その高校生は、父親を撲殺したんだそうだ」
 ボクサツ。その単語が何を意味するのか分からなかった。
「ぼく──?」
「殴り殺したっていうことだ」
 ちちおやをなぐりころした
 音の羅列は言葉としての意味を成さず、頭のなかでただゆらゆらと漂いどこかに消えていった。