君のすべて 8

「昨日、葉月と会ったんですよ」
 薮内の指先が、ベッドにうつぶせになっている桑島の背骨を撫で下ろす。
 玄関先でお互いの服を剥ぎ取るように脱がせ合って、散らばった服の上で思い出すのも憚られるくらい激しいセックスをして、そうしてようやく寝室に辿り着いた。
 薮内は、二度目は優しく、愛しむようにして桑島を抱いた。ごめんと繰り返す桑島を何度目かに遮って、もういいですと呟いた顔はやつれてはいたが穏やかで、桑島は堪え切れずに暫く泣いた。
 身体を転がし仰向けになって薮内を見上げると、薮内は目を細めて桑島の汗ばんだ額に貼りつく前髪を払った。
「ああ……用事って」
「そう」
 山口の言っていた薮内の用というのは、妹と会うことだったらしい。別に何を疑っていたというわけでもないのに、そう聞いた途端胸のつかえが下りた気がする。自分勝手だと思いながらも、桑島は内心安堵の溜息を吐いた。
「実家に俺宛の郵便物が届いたっていうんで、それ持ってきてもらうのに、ついでに飯食ったんです。新谷さんには悪かったんですけど、楽しく飲む気分じゃなかったし……それで俺、桑島さんと駄目かもしんねえって、妹相手にクダ巻いちまって」
「それは──嫌がったんじゃないのか、妹さん」
 桑島も一度会ったことがある。薮内の妹葉月は、兄が同性と付き合うことに反対していて、桑島に翻意を促しにやってきたのだ。目元が兄とよく似ていた。それから、取り繕わない真っ直ぐな物言いも。
「あいつ、言うんですよ。桑島さんはきっとお兄ちゃんのこと好きになってくれるから頑張れって」
 桑島は、葉月の複雑な心中を想像して思わず身を竦めた。無意識に退きかけた身体を薮内が抱き寄せる。肩に回された腕に、自分でも驚くほど安心した。
「他人ならどうでもいいけど、兄弟がゲイなんて無理とか言って──正直なんすよ──そうやって真っ青になってたくせに何だ、って。そしたら、桑島さんのこと好きなんですって。喜べはしないけど、変な女性がお姉さんになるよりいい、って思うことにしたから好きにしていいよって。別にあいつの許可なんか要らないけど、でもそう言ってもらえて正直ほっとしました」
 薮内は喉の奥を鳴らすようにして笑った。振動が、触れる指先から身体に伝わる。こいつは前からこんなに男っぽい笑い方をしただろうか。何となく手を伸ばして頬に触れると、薮内は指にすり寄るようにして顔を傾ける。まるででかい猫のようだ。
「急に物分かり良くなられるとこっちも焦りますけどね。しかし、信じられねえのは、あいつ兄貴二人にも勝手に言いやがって」
 驚いて思わず頬に触れていた手が固まった。薮内は小さく笑って、桑島の指先をぱくりと銜えた。それこそまるで猫のように。
 根元から指先まで舐め上げられて、収まったばかりの興奮がまた頭をもたげる。薮内は桑島の指を舐めながらゆっくりと体勢を変え、桑島の上に圧し掛かった。
「薮──」
「まあ、上二人は変わってますから。せいぜい頑張れとか言ってたみたいですが」
「何を頑張るんだ」
「頑張って桑島さんを孕ませろと。そうすりゃ桑島さんが絆されるって」
「……馬鹿じゃねえの、お前の兄貴たち」
「うーん、まあ、俺の兄弟ですからねえ。阿呆ですね。二人ともどうやって結婚したのか謎ですよ。また奥さんがどっちともいい女で、子供たちも凶悪に可愛いっすよ」
 ゆっくりと言いながら、薮内の指先が下肢を這う。
「……あ」
 思わず漏れてしまった声は物欲しそうで我ながら赤面したが、薮内は嬉しそうににっこり笑った。
「薮内……」
「何ですか?」
「お前の──兄貴二人の名前って……何ていうの」
「何でです?」
 薮内は本当に不思議そうな顔をした。
 今まで故意に避けていたのだと、それは、今は言わずにおこう。必要以上にお前を知ることも、お前を取り巻くすべてを知ることも、多分無意識に避けていたのだと。
 取り返しがつかなくなるのが怖かった。曾山が言ったように、俺は多分怖かったのだ。
「何でって──ただ、知りたいだけだ」
 お前のすべてを、知りたいだけだ。そう言ったら、薮内はどんな顔をするだろう。俺のすべてを知りたいと、薮内もまた思ってくれているのだろうか。
「睦月と、文月です」
「……何でお前は五月生まれなのに、サツキじゃなくてイツキなんだ?」
「皐月だと女みたいだって親父が反対したらしいですよ。だからストレートに五月と書いてイツキ」
「変なの」
「うるさいですよ」
 薮内は笑って、桑島に覆いかぶさりキスをした。
 軽く触れ、笑いながら唇をなぞり、徐々に深くなる口づけとともに表情もまた変わる。無精髭が生え始めた男っぽい顔に、息が止まりそうになった。絡め合う舌の濡れた音。再び薮内の一部がいっぱいに押し込められて、桑島の先端にじわりと体液が滲む。体内を広げられる感触に、身の内をすべて暴かれたような興奮で眩暈がした。
「お前、何回すれば……!」
「さあ? 最近ご無沙汰でしたし」
「この間したろ、気が済むまでっ」
 つい先日のことを思い出して言うと、薮内は意地の悪い笑みを浮かべた。
「この間ですか? あのときは俺、いじけてましたからね。あんたに意地悪すんのに一所懸命で、腹いっぱいってわけじゃなかったんですよ」
「ばかやろ……!」
 身を捩る桑島を見下ろして、薮内は瞬きした。桑島の股間に手を伸ばし濡れ始めたものを撫でた薮内は、嬉しそうに目を細め、片方の頬を緩ませた。
「何か」
「……え?」
 桑島の耳を噛みながら薮内は低く囁く。耳朶を口に含まれたまま話されて、全身に小波のような震えが走った。
「桑島さん、敏感になりました? 前より」
「うるさい、何言ってるんだ馬鹿」
「あんたの感じるところ、全部知りたい」
 なんて台詞だ。顔に血が上って熱くなる。薮内は含み笑いを漏らし、桑島の鎖骨の窪みに顔を埋めた。
「でも、感じないところも全部知りたい」
 どきり、と心臓の鼓動が一拍飛んで、速くなる。
「あんたって人を丸ごと知りたい。それが俺の望みです──知ってますか」
 ゆっくりと重ねられた体温の心地よさに、不意に声を上げて泣きたくなる。
「薮内」
 薮内は答えずに、ゆったりと腰を動かし、桑島を喘がせた。
 他人が二人、体温も、価値観も、育った環境も何もかも違う。それでも、こうして重なりあっているだけで、少なくとも体温だけは溶け合える。
 そうして時間を重ねていって、体温だけではなく、他の何かもきっと分かち合えるようになるのだろう。
 己の中に存在する他人の一部がもたらす快感に身を委ね、桑島はそう思った。

 

 薮内が自動販売機を蹴っ飛ばして悪態を並べ立てた。
 どうしようもないクライアントというのは必ずいるもので、そういうところに限って金がある。金があるからどうしようもないのかどうかは、桑島には分からない。
「だから、蹴るなって」
「蹴りたくもなりますって」
 薮内は煙草を銜え、火を点けて煙を吐き出した。
「まーたお前、禁煙だっつってんのに、ここ」
「吸いますか?」
 手に持った煙草を差し出して薮内が首を傾げる。桑島は首を振った。
「いらねえ──あれ、前にこんな会話したっけ? いつだっけ」
 桑島は自動販売機の前の椅子に腰を下ろして考え込んだ。あれはいつのことだったか。ぼんやりとした記憶を手繰り寄せてみたが、それは途中で儚く消えた。
 桑島は息を吐き、椅子の背凭れに身体を預けた。思い出せないのではなく、ただの気のせいかも知れない。
「気のせいかな」
 顔を上げると、薮内が目の前に立っていた。
「薮内?」
 今日は黒にシャドウストライプの、細身のスーツだ。ほとんど白に見えるグレイのワイシャツ。ネクタイは、紺と暗紅色のストライプ。
「そういやさ、お前のスーツ」
「はい?」
 身を屈めた薮内の顔が近付いてくる。
「え、あの、だから、スーツの色が」
 顎の下に触れる薮内の髪。喉元に触れる唇の感触に思わず目を閉じる。
「煙草臭くないですね」
「やっぱりお前、黒が似合う……って……何やってんだよ、お前は」
 薮内は、桑島を見て薄く笑った。
「俺も撫でてみようかなあ」
「え? え?」
 頭がこんがらがって、薮内の言葉の意味が分からない。だが、どこかで聞いたような気がするのはなぜだろう。薮内が煙草を吸いつけ、ポケットから取り出した携帯灰皿に吸殻を入れた。
 買ったコーヒーの缶ではなく。
「あー」
「思い出しました?」
「あー」
「俺って黒が似合うんですね」
「あー。なあ」
「はい」
「あの時、撫でるのが何とかって、あれ何のことだったんだ」
「ああ、あれは桑島さんの頭を撫でようかと思ったんです。車で送った時も言ったじゃないすか。で、撫でた気がしますけど」
 言われてみれば、そんなこともあった。
「今日は違うところを重点的に撫でてもいいっすかね」
「……馬鹿だろ、お前」
「今更です。行きましょうか」
 促されて、桑島は立ちあがった。そうか、あの時。薮内が、俺の匂いがどうとか言ったのはあの時か。煙草の香りのする髪の感触を思い出す。薄く笑った口元と、愛しげに目を細めたその表情。

 

 そうしてあの日、俺とお前のすべてが始まったのだ。