拍手お礼 Ver.18
Ver.18 薮内と桑島
「……」
「おはようございます」
「……はよ」
薮内の顔を暫く見つめて、桑島は掠れた声で呟いた。
土曜の朝六時。
雲ひとつない快晴である。
休日の朝早くに桑島の家のインターホンを鳴らしたのは、何も嫌がらせというわけではない。
薮内は今日、友人に頼まれて草サッカーの試合に出る。それを桑島に話したら観に行きたいと言い出した。それでこうして迎えに来たのだ。
試合そのものは、某公園内のサッカー場で九時開始である。ウォームアップや着替えの時間があるから遅くとも三十分前には会場に入る。それにしたって幾らなんでも早過ぎるこの時間にやって来たのにはちゃんと理由があって、その理由というのは桑島の顔全体に今も表れている。
深く刻まれた眉間の皺、一箇所だけ寝癖がついた後頭部、まだ血の通っていない、血色の良くない顔。
要するに、桑島は朝に弱い。
夜型人間というわけではないらしいのだが、朝の桑島は物凄く不機嫌なのだ。
勿論、出張で同行したとき——まだ、二人の関係がただの先輩と後輩だった頃——にこんな顔を見せられたことは一度もなかった。他人の前で不機嫌になるほど大人げなくはないのだろうし、本人曰く、眠りが浅い時は逆にはっきり目が覚めて、熟睡した後こそ駄目なのだそうだ。だから、休日の寝起きなどは出来ることなら誰とも会いたくないし話もしたくないらしい。
コーヒーを一杯飲むまでの桑島は、本当に機嫌が悪い。
カフェイン摂取後は多少ましになるものの、一時間程度は動きも鈍いし、頭の回転も普段より緩慢だ。そのため、桑島の起床時間は、普段から家を出る時間よりかなり早く設定されているのである。
「天気よくてよかったっすね」
薮内が話しかけると、まだスウェットパンツとTシャツのままの桑島は酷くゆっくりと振り返った。
「……」
「多少の雨なら、やってる方は忘れちゃいますけど、観てる方は快適ってわけにはいきませんしね」
「……ああ……」
不機嫌そうな目付きに、低く掠れた声。
可愛い。
薮内は、多分考えた自分以外誰も同意しないことを真剣に考えた。
一緒に暮らしていないので当然平日は見られないこの状態の桑島が、薮内はかなり好きだ。
桑島は感情の起伏が激しい方ではないし、他人の前で不機嫌さを露わにしたりはしない。基本的に穏やかでバランスが取れた人間だ。怒ることくらい普通にあるが、不機嫌に押し黙って手を焼かされるなんてことも滅多にない。
そのせいで新鮮に感じるのか、こういう桑島が可愛くて仕方がない。だからこそわざわざ早起きし、迎えに来るべき時間より二時間は早くここに立っているのである。
「何か食いますか? 一応コンビニでサンドイッチとか買ってきましたけど」
「……え?」
アイドリングどころかエンジンすらかかっていない桑島は、半分閉じた目で薮内を見て数度瞬きし、手の甲で乱暴に目を擦った。
「あ——、飯? 食ってねえ……てか、コーヒー……」
「まだなんですね。座っててください、淹れますから、俺が」
「……」
桑島は頷いて、ソファにどさりと腰を下ろした。背凭れに頭を預けて目を閉じている。薮内は桑島に背を向けて台所へと足を向けた。
コーヒーをマグカップに注いで鼻先に近付けると、桑島はようやく目を開けた。
両手で受け取ったマグを傾けて飲む様子は、まるで子供だ。普段の桑島の所作は、男くさいとまではいかなくとも基本的に男っぽく、少なくともこんな仕草を見せることはまったくない。
可愛いなあ、と内心で再度呟き、薮内は自分の分のカップを傾けた。
朝の一杯が効果を表して多少マシな顔つきになった桑島は、改めて薮内に目を向けた。
「——来るの、早くないか。お前」
「そうですか?」
「だって、まだ……」
桑島は棚の上の置時計に目を向けて、顔をしかめた。
「ほら、早えって」
「目が覚めたんで、来ちゃいました」
薮内は、カップをテーブルに置いて桑島の傍へ歩み寄った。見上げてくる顔はまだ、寝起きの顔。桑島の手から三分の一残ったカップを取ってこれもテーブルに載せ、ソファの隣に腰を下ろす。肩に手を回して引き寄せたら、桑島は不機嫌そうに眉を寄せた。
「まだ、飲んでんだけど」
身体を捩った桑島を無理に押さえつけ、顔を傾けて唇を重ねた。
飲んだばかりのコーヒーの味がする。後頭部の髪に手を差し入れ、跳ねた一房を撫でつける。桑島は僅かに抵抗し、諦めたのかすぐに力を抜いた。
半開きの唇を割って舌を押し込む。反応は鈍かったが、嫌がられていないことが分かりさえすればそんなことは別にどうでもいい。
「ん…………」
桑島は掠れた声を漏らして薮内の首に手を回した。薮内のうなじを、桑島の掌が緩く擦る。頸椎の出っ張りを撫でるもう一方の手の温かさ。桑島からは、起きたばかりの人の肌の匂いと、布団の匂いがした。
「朝っぱらから何だよ」
随分長い間貪ってから離れると、涙目になった桑島は頬を赤くして普段よりきつい視線を向けてきた。口調にも心なしか棘がある。
「——ご機嫌斜めですねえ」
「寝起き悪いの、知ってんだろ」
眉を寄せたままの桑島のTシャツの裾から手を突っ込む。
脇腹から胸へと指先を滑らせながら、体重を掛けてソファに押し倒して圧し掛かった。
「な、ちょ、薮内」
「でも、ご機嫌斜めなあんたって……すっげえかわいい」
「お前何言って——」
喉元に顔を埋め、歯と舌で愛撫すると桑島の喉から押し殺した喘ぎが漏れた。スウェットのウエストゴムから手を差し入れて、平らな尻を掴んで揉みしだきながら引き寄せる。
朝っぱらから先輩の不機嫌顔が股間に来るっていうのはどういうわけか、今更自問したって仕方がない。何より大事なこのひとがすることならば、何だって愛おしい。
「馬鹿、薮内! お前サッカー」
「まだ大分時間ありますから大丈夫。ウォーミングアップに丁度いいでしょう」
「俺とすんのはストレッチ代わりか!?」
本気で憤慨したような桑島の喚き声に、薮内は思わず声を上げて笑ってしまった。
さっきまでとは別の意味で不機嫌そうな桑島の顔を見下ろして、本当に可愛い、とまた思う。
ストレッチ運動と一緒にされていると思い込みご機嫌斜めになっているこのひとが、どうしようもなく可愛くてたまらない。啼かせて、泣かせて、それでもって甘やかして大事にしたい。そんなことを許してくれるほどに弱いひとではないけれど、思うだけなら俺の自由だ。
「そんなわけないでしょう。知ってるくせに、桑島さん」
「……馬鹿野郎」
「ほら、拗ねないでくださいよ。大体ですね、ウォーミングアップにストレッチをするってのは間違ってんですよ。あったまってない身体でやったら腱とか筋肉が痛むんです。だから寧ろ腕立てとか……あ、正に腕立てですよね、俺の姿勢」
「——もういいからするならさっさとしろっ!!」
耳まで真っ赤になった桑島がそう言って、薮内のジャージの胸元を引っ掴んでキスをした。
傷つけないように下唇を噛んでくる。引き下ろされるジャージの上着のジッパーの音に、下半身が強張った。
「かわいいなあ、やっぱり」
「うるさいよ、まったくもう」
ついに笑い出した桑島の目を見つめ、薮内は微笑んだ。
不機嫌なあんたはすごく可愛い。
だけど、そうやって幸せそうに笑ってくれたら、もっといい。