その笑顔は神か悪魔か幻か 20

「一週間の在宅勤務?」
 鸚鵡返しした俺に、嘉瀬さんは頷いた。
「そうだ。つーか佐宗お前、声がひっくり返ってるぞ」
「いや、だって──」
「だっても何もねえ」
「どうやって営業すんです!」
 思わず言うと、嘉瀬さんは笑ってパソコンにプロジェクターから伸びたケーブルを突っ込み、スクリーンに資料を映した。
 嘉瀬さんが作ったものではなくて、管理部かどこかのものだろう。パワポの資料はやけに小さい字が詰め込まれていて、プレゼン慣れした俺たちからすると、言いたいことを全部書きすぎだった。が、それはまあどうでもいい。
 と思ったら、里中さんが眼鏡を持ち上げながら眉を寄せて思いっきり目を眇めた。穏やかさが身上、通称「第二営業の良心」里中さんだが、そういう顔をすると結構物騒な人に見えなくもない。
「部長、字が小さくて見えないですねえ」
「あー、確かにな。映しといて何だけど、後で送るわ」
 人相が悪くなっていた里中さんが元の穏やかヅラに戻って、沖田さんがおかしそうに口元を緩める。
「自然災害なんかが増えてるからな、BCPの一環で、社を上げて全社導入に向けて取り組むんだそうだ」
「最近多いですもんねえ。でっかい地震とか、記録的豪雨とか……」
 眉を八の字にした里中さんが答える。里中さんは子煩悩パパなので、地球温暖化が我が子二人の未来に及ぼす影響についていつも憂いている。
「そうそう、あわや帰宅難民になるところでしたよ、俺」
 とは清水さん。
「この間の大雨んとき、お客さんとこ行った帰り、道路が冠水して」
「そうなの? 俺初めて聞いたよ、それ」
「沖田は奥さんとこ行ってたもんな。清水も結果なんともなくてよかったけどよ……事業所使用不可能な事態になったら、そもそもパソコンも取りに来れねえだろうけどなあ」
 里中さん、沖田さん、清水さん、そして俺は順繰りに頷いた。
 例えばビルが倒壊したらパソコンも瓦礫の下だろうし、広域停電になったら電車も止まる。徒歩圏内ならいざ知らず──とは思うが、まあそんなことをここで言っても仕方がない。
「第一とうちは一週間交替でやるからな。テストだから外せないアポは仕方ねえけど、客にも事情を話してできるだけずらしてもらえ。最初から無理ですって言うんじゃねえぞ。どいつもこいつも無理だからできねえっつったら成り立たねえんだからな」
「はーい」
 清水さんが答え、嘉瀬さんは俺たちを順に見た。
「てことで、各自VPNの設定しとけ。分かんねえやつは清水に訊け。あと、金曜にパソコンとアダプター持って帰るから入れるもん用意、それと会社貸与のパソコン持って飲みは禁止だからな、金曜は直帰しろ。以上、終わり」
 嘉瀬さんがそう言って、週に一度のミーティングは終了した。

 

「机と椅子買うか……」
 晩飯を食いながらちょっとぼんやりしていた嘉瀬さんが不意にそう言って、俺を見た。
「お前、欲しいのあるか?」
「はい?」
 大根おろしであっさり和風の嘉瀬さんお手製煮込みハンバーグをもぐもぐしながら、俺は嘉瀬さんの顔を見返した。会社から帰って飯を作る前にシャワーを浴びた嘉瀬さんは前髪が下りている。男前っぷりは相変わらずの鬼部長は、俺が口の中のものを飲み下すのを待って口を開いた。
「だから、机と椅子で欲しいの、こういうのがいいとか、希望あるか? 椅子はヘッドレストついてるのがいいとか、メッシュがいいとか革張りがいいとか」
「何で机と椅子がいるんです? ありますよね」
 皿の載ったダイニングテーブルは程々にモダンなデザインで、大きさも十分ある。多少の傷はあるが綺麗だし、買い替えの必要があるとは思えなかった。
「あ? ああ、これじゃねえよ。お前が使う分」
「俺が?」
「在宅の一週間、どこで仕事すんだよ」
 俺はあわや、眉を寄せながらほうれん草のお浸しを口にする嘉瀬さんに向かって味噌汁を吹き出すところだった。
「っ、はぁ!? 何ですって?」
「何って、俺のデスクは一人用だし……ここで向かい合ってやりてえか?」
「いやそうじゃなくて、帰りますって!」
 俺は自分の部屋に戻るつもりで、嘉瀬さんだってそう思っていると思っていたから、だからわざわざそんな話はしていなかった。
「帰るって、自分とこにか」
「当然でしょう!」
「一週間だぞ」
 食い終えた嘉瀬さんは立ち上がってキッチンに行き、グラスに水を注いで戻ってきた。俺の前にもグラスが置かれる。嘉瀬さんがグラスの縁から僅かに眇めた目で俺を見た。
「そうですけど──だって、今だってたまにあっち戻ってるじゃないですか」
 俺も数ヶ月前のように嘉瀬さんから逃げ出したりはしていない。だが、あまり留守にすると孤独死したと思われるかもしれないから、郵便物のチェックやら何やらのために定期的に部屋には戻っている。確かにそれは一日二日のことではあるものの、嘉瀬さんと一時も離れていないなんてことはない。
「だな」
「じゃあ、それと何が違うんですか」
「そんときは会社で会えるだろ」
「まあ、そうですけど──」
 そうだけど。俺だって別に進んで帰りたくはなかったけど。
「……でも、帰りますよ、俺」
 ここにいたいなんて言えなかった。たまにネットニュースなんかで見たことがある。在宅勤務していた人の背後に何かが映り込んでしまった動画。子供たちのいたずらとか、ペットとか、彼女がオンラインミーティングの最中にシャワーから出てきてしまったパンイチの彼氏とか。
 本人たちはどうであれ、見ているこっちは和むし笑わせてもらえるけれど、嘉瀬さんの後ろに俺が映り込むなんて、絶対駄目だ。
 俺だって、それから嘉瀬さんだって、世間体は大事だった。
 今の時代、みんながダイバーシティーだインクルージョンだとかいうけれど、誰しも急に寛容にはなれないものだ。他人のことには鷹揚でも、知人のこととなれば話は変わる。
 俺だって、差別や偏見を持ちたくないと思っている。だけど、身近な人に関して完全にそうであれるかは分からない。そうありたい、だけど、分からない。
 もし嘉瀬さんが、俺の不注意でその対象になりでもしたら。嘉瀬さんがそんなことで潰れる人ではないと分かっていても、自分のできる範囲で迷惑をかけないようにしたかった。
「何考えてるかは分かってる」
 グラスを掴んだ指の形。その関節の硬さも、皮膚の感触もよく知っている。宥めるように低く響く声の、その奥の誠実さも、優しさも。
「今回は練習だし、一週間だからな。俺だって我慢できないわけじゃねえぞ。まあ、お前のことになると堪え性がなくなるのは自覚してるけど」
 箸を置いた俺の手の上に嘉瀬さんの指先が伸びてきた。何も嵌っていない薬指を、指先が何度も辿る。
 手の甲を丹念に辿られただけで何かが腹の底で頭をもたげ、背筋をそろそろと這い上がった。
「けど、もし本当に災害が起きたり、感染症が流行したりしたら? そのままお前と物理的に分断されたら?」
「そんなの」
「起こるわけがねえか? 離れてる間にそうならねえって断言できる奴がいるのかよ。いねえだろうが」
「そりゃそうですけど……」
 嘉瀬さんの指が袖から中に潜り込み、俺の手首の骨の存在を確かめるかのように、何度もそこを往復した。
「お前がいなくなったら不安で不眠になるぞ。そしたらストレスで禿げるかもしんねえ」
「……十円禿げですか? 油性マジックで塗りゃいいでしょ」
「いや、薄毛になる」
「一週間で?」
「薄毛になったら俺を捨てるか?」
「弊社お勧めの植毛か鬘をご提案させて頂きます」
「取り扱ってねえし」
 嘉瀬さんは持ち上げた俺の手の甲に、笑いながらキスをした。
「何でもいいからここにいろって。いいな?」
 返事をしようと思ったのに、立ち上がった嘉瀬さんが俺の傍に寄ってきて、キスが別の場所に雨あられと降り注いだものだから、反論することはできなかった。

 

 

「全員いるか?」
「映ってますかあー?」
「里中さん、見えてますよー」
「俺もオッケーです。部長も見えてますよ。あれ、清水、佐宗は?」
「オンラインにはなってますね。多分カメラをまだ──あ、佐宗」
「すみません、オンになってますかね。あ、みなさんは見えてます」
「こっちも見えてる。里中、チビたちは参加しねえのか」
「えっ、呼んでいいですか!」
「駄目とは言えねえなあ」
 嘉瀬さんが笑いながら言い、画面の向こうでメンバーも笑顔になる。
 休みではないが、家にいるのにスーツを着るわけもなく、だからと言って部屋着でもない。一時間後に何が何でもという客に呼ばれている沖田さんだけは、まだノーネクタイのワイシャツ姿だ。
「何着るか悩みましたよー」
 そう言う清水さんは綺麗めのシャツにパーカーを羽織っている。
「休みじゃないし、だからって家でスーツもつらいし」
「分かるよ。それに、家にいい椅子ないのがきついよ」
 沖田さんが頷き、服装、それから家の中のどこで仕事をするか、なんて話題について、暫し雑談が続いた。
 俺は結局嘉瀬さんのマンション内の自室にそれなりの机と椅子を買ってもらった。自室と言っても普段はほとんど使っていないから、どこか落ち着かないが、仕方がない。
 背景には壁しか映り込まない位置に机を置いたので、どこにいるかは分からない。道路の音が丸聴こえな俺の部屋とは違って、背後に同じ救急車のサイレンが……なんて心配も、窓さえ開けなきゃ多分無用だ。
 嘉瀬さんは元々あるホームオフィスに陣取っていて、声も聞こえないし姿も当然見えない。何食わぬ顔で画面の向こうで喋っているが、俺はなんだか落ち着かなくて、会議の間も尻の据わりが悪かった。
「佐宗」
 画面とマイクを切っていくらも経たないうちにドアが開き、嘉瀬さんが顔を覗かせた。
「うわっ!」
「何驚いてんだよ」
「いや、だって! あんたがいきなり顔出すからでしょうが!」
「もう映んねえんだからいいだろ。それよりお前、この間俺に送ってきたW社の件、資料プリントアウトしてるか?」
「あー、いえ。してないっすね」
「だよなあ……ページ数結構あったよな」
「八十かそのくらいだったと思います。概要だけなら十ページくらいかな」
「あー、じゃあやっぱPDF画面で見るか。了解、どうもな」
 嘉瀬さんはそう言ってさっさとドアを閉め、それからは、昼を食おうと呼びに来るまで、そしてその後は、部屋には入って来なかった。

 

 リビングのドアを開けて覗いてみたら、家の主はソファにいた。
「お疲れさまでした」
「ん。終わったか?」
 隣に腰を下ろした俺の髪に嘉瀬さんの手がさっと触れてすぐに離れる。
「はい。定時で止めようと思ったんですけど、川島さんから電話来ちゃいました」
「あー、あのオヤジ必ず終業間際に電話かけてくんだよな」
「別にいいんですけどね。それで在宅勤務の話になったら興味あるみたいで長くなって」
「そうか」
「うちがどこのシステム使ってるかって話とか、それで」
「うん」
 頷きながら、嘉瀬さんは煙草を灰皿に押し付けて、俺のうなじに手を回した。
「取引先の──って、部長、ですから」
「うん?」
「ちょ、部長、俺今話して」
「聞いてるから話せよ」
「って、顔が近──」
 口を塞がれたら話せないじゃないですか、と言いたかったが無理だった。開けっ放しだったところに舌が潜り込んできて、口蓋を舐められたら力が抜けてしまった。
 いつの間にかソファの上に押し倒され口の中を余さず探られて、ほとんど訳が分からないまま嘉瀬さんのニットを掴んで握り締める。
 綿のニットの少しだけ硬い手触りと、腿に押し付けられた少しどころではない硬い感触に、目を閉じたままぐるぐると目が回った。
「ま、」
「ん?」
「待っ……!」
「何でだよ」
「だってまだ仕事おわ」
「終わってんじゃねえか」
「そうですけどっ」
 無理矢理手を突っ張って押しのけたら、嘉瀬さんはちょっと驚いた顔をした。嫌がっているわけではないのは伝わったらしく俺の上から退けようとはしなかったものの、距離を詰めようとはしてこない。とはいえ、顔は十分近かったが。
「何だ、なんか気になることでもあんのか」
 出かけないから下ろしたままにした前髪。スーツを着ているときには見られないから、どうしても家にいるときの嘉瀬さんだ、と思ってしまう。
 部長だけど部長じゃない。甘ったるい声で俺の名前を呼んで、身体中に触れてくる嘉瀬さんだ、と。
「気になることがあるっていうわけじゃなくて、けど」
「けど?」
「だって仕事終わってすぐそんなことしませんよね普段!?」
「いや、そりゃお前……」
 嘉瀬さんは少しだけびっくりした顔をした。
 勿論、嫌なわけじゃない。全然そういうことではないけれど、普段なら退社して、駅まで歩いて、電車に乗る。何ならスーパーで買い物をして、その間にリセットできるのだ。
 もし境目がなくなったら、俺は一日中嘉瀬さんでいっぱいになってしまうに違いない。
 嘉瀬さんは、部長はそんなのは嫌がるだろう。仕事は仕事だ。俺だって、嘉瀬さんのようにきちんとしなければいつまで経っても追いつけない。
「そりゃあお前、会社にいたら何もしねえけど、でもそれは単に場所の問題だろ。仕事終わってんだから関係ねえよな?」
「でも!」
「いやいや海外ドラマじゃあるまいし、仕事中に会議室でやろうとか言わねえぞ俺は」
「はあ!?」
「いや、妄想くらいは……」
「ええっ!?」
「仕方ねえじゃねえか、会社だって家だってお前が目の前にいりゃ今すぐ押し倒して可愛がりてえって思うだろ!」
「……」
 ぽかんと口を開けた俺を見て少し笑い、嘉瀬さんは低い声で繰り返した。
「会社だろうが、うちのベッドだろうが、居酒屋だろうがどこだろうがいっつもお前のことばっかり考えてる、佐宗」
「嘘ばっか──」
「何でだよ」
「だって、仕事は……」
 嘉瀬さんはようやく腑に落ちた顔をした。俺が何を考えているかなんて、悔しいことに、大抵は丸わかりなのだろう。
「真剣に仕事してても、頭の中の別の場所で考えてる。不機嫌ヅラでパソコン睨んでるお前の作る資料がどんだけしょぼいかなあ、って心配しながら、ああクソめちゃくちゃ可愛いなあ、ってな」
「……馬鹿ですかっ」
「馬鹿なんですよ。だからな」
 嘉瀬さんが俺に覆い被さり、喉仏に歯を立てた。やわらかく噛まれただけなのに、痺れるような感覚が頭のてっぺんまで駆け上がる。
「仕事が終わったら即切り替える」
「いや、だから俺は、何かこう合図みたいなものを!」
「駄目だ」
 俺の脚の間に嘉瀬さんの脚が割り込んでくる。
「終わってもプラス通勤時間は仕事モードなんて、認めねえぞ」
「嘉瀬さ──」
 腰を押し付けられ、着衣のまま揺すられてうっかり物欲しげな声が出た。嘉瀬さんの唇が俺の口角に触れ、唇を優しくついばんだ。
 腹のあたりで嘉瀬さんの手が動き、ベルトが外される音がする。布越しに指先で引っ掻かれているだけなのにどうしようもなくなって、重なった唇をほとんど無意識に貪った。
「佐宗」
 俺の舌を舐めとりながら、もう仕事じゃないと言いながら。
 それでも部長の顔をして、嘉瀬さんは低く甘い声で囁いた。
「オフラインになったら、その瞬間からお前は俺のものだ」
 嘉瀬さんはそう言いつつ俺の手を取り、自分のニットの裾を掴ませた。
「とはいえ、納得できねえ、まだプラス通勤時間が経過してねえから仕事してえっていうなら手伝え、高橋」
「え?」
 嘉瀬さんは悪魔みたいな笑みを浮かべた。
「脱がせて」
「──」
「──な?」
「……っ、もういいです!!」
「なんだよ、諦めが早えなあ。耳まで赤いぞ、お前」
「も、うるさいなあんたは……っ」
 嬉しそうに笑う嘉瀬さんの長い指に直に掴まれ、思わず上げた俺の声は濡れていた。
「あ──、ぁ」
「佐宗」
「……あ、や──っ」
「佐宗──」
 あたたかい掌が、まるでシールを剥がすように、俺から、仕事モードの俺を剥がしていく。

 本当は、オンラインでもオフラインでも。
 俺はいつでもあんたのものだけど。