その笑顔は神か悪魔か幻か 19

 トイレットペーパーを抱えててもいい男だから頭にくる。
 俺に睨みつけられた嘉瀬さんは、俺の渾身のガン付けに何故かだらしなくにやにやした。
「何笑ってんですか」
「いや、何でもねえよ」
 片手にトイレットペーパーのパックをぶら下げた嘉瀬さんとすれ違った女性が肩越しに振り返る。俺が持っていたら生活感しか出せない小道具も、嘉瀬さんが持ったら別物だ。
「佐宗、お前、そういうのへたくそだよなあ」
「何がです?」
「──何でもねえ」
 くっ、と喉を鳴らすようにして笑い、嘉瀬さんは鮮魚コーナーの前で立ち止まった。
「ああ、おい、ちょっと待て佐宗。鮃が安い」
「じゃあ俺卵取って戻ってきますから、選んでてください」
「分かった」
 頷く嘉瀬さんに背を向けて、俺は足早に売り場から遠ざかった。冗談じゃない。あんなきらきらした人と日曜──しかも連休のど真ん中──の混みあうスーパーで仲良く魚を選ぶとか、恥ずかしくて死んでしまう。

 

 近場とは言え普段は行かないスーパーまでわざわざ車で出かけたのは、今週は土日月の三連休だったからだ。どこかに行くかと訊かれたが、俺は謹んで辞退した。出かけるのは嫌いじゃないが、最近二人とも仕事が忙しくて、あまりゆっくり過ごしていなかった。
「明日はいい食材を仕入れに行こう」
 嘉瀬さんは土曜の夜、ベッドで俺を組み敷きながらそう呟いた。
「え──? あ……」
「なあ? たまにはいいもん食わせてやるよ、佐宗」
「別に、いつも……、ちょっ──話し、てんのに、やめ」
「話してんのは俺だろうが」
「そ、ん──ぁ」
「まあ、今もいいもん食ってると言や──」
「っ、この、クソ、エロ、オヤジっ!」
 結局文句を言いながらも腹いっぱい食わされ理性も意識も飛ばしかけた恥ずかしい話はさておき、とにかく嘉瀬さんは俺にまともな飯を作ってやるというプランがお気に召したようだった。
 嘉瀬さんのところに移って数ヶ月、食事はほとんど嘉瀬さんが作っている。当番なんかは特に決まっていないが俺が作れるものには限りがあるし、そもそも嘉瀬さんは料理が好きだ。普段作ってくれる飯はどれも美味い。俺にしてみれば文句のつけようがない飯なのに、一体何が足りないというのだろう。
「そりゃあお前、保奈美に作ってやったときみたいに何から何まで作ってねえから」
「何言ってんです、料理人にでもなるつもりですか」
「向いてねえよ。不特定多数向けの料理は職業だろうが」
 嘉瀬さんは玄関の鍵を開けながら俺を振り返った。
「誰かのために作るから楽しいんじゃねえか」
 にっと少年みたいに笑って、嘉瀬さんは鼻歌混じりに靴を脱いだ。どうして歌っているのがガンズアンドローゼズの曲のイントロなのかはよく分からない。
「楽しそうで何よりです。今度N社に持ってく提案書も俺のために作成くださいませんかね、部長」
「馬鹿野郎お前、俺が作った眩しい提案書を持たせたら先方は無条件降伏で、そしたら部下が育たねえじゃねえか」
「お優しいことで」
 鼻歌のイントロから英語の歌詞に曲が移る。何という曲だったか気になってスマホを取り出した俺にキッチンに直行した嘉瀬さんが声をかけた。
「佐宗」
「はい?」
「悪ぃけど、それ片付けといてくれ」
「──はい」
「おい? 大丈夫か、佐宗? いやトイレじゃなくてあっちの」
 トイレットペーパーのパックを抱きしめた俺はリビングを逃げ出した。トイレに飛び込み腹具合がいまいちだとかなんとか言って、しばらくそこで籠城したのは、嘉瀬さんの歌が何という曲か思い出したから。そして、初めて歌詞を見たからだ。
 スイートチャイルドオーマイン。
 泣いたらどうしてくれるんだ、まったくもう。

 

「フレンチでも出てくんのかと思ってました」
 嘉瀬さんがちゃんと作ってくれた飯は美味かった。
 鮃をどうするのかと訊ねたらムニエルなんて言われたからどうしようかと思ったが、味は和風と洋風の中間くらいで、他のおかずともよく合った。
 切干大根とベーコンの炒め物、豆とカッテージチーズのサラダ、ごま油と塩のネギだれがかかったおぼろ豆腐。そんな前菜で始まって、あれもこれもとまるで居酒屋なのが楽しかった。
 ほろ酔いの嘉瀬さんが熱っぽい目で俺を見ても、やめてくださいよ、と牽制しなくていいのも少し──本当に少しだ、本当に──嬉しい。
 嘉瀬さんは世間にカミングアウトする気はないし、俺だってそうだ。今からそうすると言われたら俺はどうしていいか分からない。だから嘉瀬さんが人前で必要以上にべたべたしてくることなんかそもそもなかった。されても困るから、それでいいのだけれど。
 自分で困るとか言いながら、時々無性に歯がゆくなる。きれいな女性が嘉瀬さんに微笑む度、そのひとは俺のだ連れて行かないでくださいと声を上げてしまいたくなる。嫉妬なんかしていない。強がりではなくて、できないのだ。俺は彼女たちとは同じ土俵には立てないから、同じものを嘉瀬さんにあげられないから。
「嘉瀬さん──俺、何もできないですよね」
 横に立って食器を拭きながら思わず呟いた俺を見て、嘉瀬さんはスポンジを動かしていた手を止めた。
「あ? 手伝わなくていいって言ったのはできねえからって意味じゃねえぞ」
「違います、今日のことじゃなく、いつも」
「掃除とか洗濯してるじゃねえか。たまに飯も作るだろ。普段やってねえのは単に俺が好きでやることが多いってだけで、お前に強制されてるからじゃねえし」
「そういうことでも……」
 洗いかごに立てられた皿から筋になって水が流れ、そしてすぐに水滴になる。規則正しく落ちていく水が、時が過ぎていくことを実感させた。こんなに傍に立っている、その時間は気づかないうちに進んでいる。いつ終わるかなんて誰にも分からない砂時計。俺はこのままでいいのだろうか。
「お前はそのままでいい」
 心臓をひっ掴まれたみたいにどきりとした。心を読まれたようだと束の間思い、続いた嘉瀬さんの言葉を聞いてそうではないと安堵する。
「どっちが何を担当したっていいだろ、どっちにしたって俺もお前も性別は一緒だし、揉めるとこでもねえ……って、あれだぞ、なんか女性蔑視的なもんじゃねえからな」
「分かってます、すみません」
 俺は無理矢理笑って見せた。勿論、無理矢理とは分からないように──分からないだろうという期待のもとに、なるべく自然に。少しだけ首を傾げるようにして俺を見つめていた嘉瀬さんは、また食器を洗い始めた。
「何ですか、その間は」
「お前は無理に表情作んのが下手なんだよ」
「……」
「睨むのも、普段のは応える。お前が本気で俺に怒ってるときとかはな。でもさっきみたいなアレは、かわいいなあってなるだけだし」
 だし、と切ったくせに嘉瀬さんはそれ以上何も言わず、黙って皿洗いを片付けた。食洗器を使えばいいのに、とぼんやり思いながら俺は上の空で布巾を動かした。
 嘉瀬さんはシンクの中と排水口をきれいにして、手を拭って煙草を銜えた。こんなにきれいなマンションだ。室内で煙草を吸ったら壁紙がヤニで汚れそうだがいいのだろうか、と今更なことを考えた。
 自分で吸っているときは煙なんか気にならない。それなのに、嘉瀬さんが吐き出すそれはなぜか違って見えた。重くたゆたい、とどまり、気が付いたら消えている。俺の時間もあんなふうに重く流れていけばいいのに。陶磁器の肌を流れる水のような速さでなければいいのに、とふと考えた。
「お前の、本当は結構感情の振れ幅でけえところを見んのが楽しいし、好きだし、美味いですって笑ってくれたらめちゃくちゃ得した気分になる。すげえかわいい」
 唐突な嘉瀬さんの台詞に俺は反射的に憎まれ口をきいた。
「俺はかわいくなんかないですよ、何言ってんです」
「かわいくないところもひっくるめて、頭のてっぺんから爪先まで舐め回したいくらいかわいいんだ、馬鹿」
 伸びてきた指が俺の髪を梳き、頭を掴み引き寄せた。俺は別にか弱くない。標準的なでかさの成人男性で、もうすぐ三十路で、それでも嘉瀬さんの腕に抱かれて泣き出しそうになるくらいには弱くて子供なのかもしれない。
「変わらなくていい、どこも、ひとつも」
 恐る恐る抱き返すと、嘉瀬さんは低く笑った。
「料理もしなくていい、生意気なこと言って、たまに笑って、それから夜にはめちゃくちゃに乱れてエロい顔で喘いでくれりゃあそれでいい」
「夜って、あんた、そればっかりですか」
「そればっかりですよ。愛してるからな」

 嘉瀬さんは俺を抱きしめたまま鼻歌を歌い出した。低く、さっきとは全然違う声で、同じ曲を繰り返した。俺の身体に沁み込ませるように、何度も。
 何度も。