その笑顔は神か悪魔か幻か 16-1

 なんと、六日も我慢した、と、快哉を叫びたい気持ち半分。
 たった六日かこの意気地なし、と、自分を殴りたい気持ち半分。
 この場合どっちがより正しい感想かは置いておくとして、とにかく俺はそういう心境だった。
 七日目の朝、こっそり逃げ出す直前の話である。

 ことあるごとに移ってこいとうるさい、もとい、熱心な部長の営業に負けた翌日。俺の気が変わる前にさっさと移動させてしまえと言わんばかりの素早さで、部長の車が俺のアパートに横付けされた。
 大物家具や家電は持ち出さないから基本的には身軽なものだ。スーツと革靴を含む衣類が一番多く、それ以外はほぼ何もない。宣言どおり一週間に一度ここに戻るなら、運び出す服は多いくらいである。
 荷物とほとんど同じ扱いで車に詰め込まれ、頭の中を流れるBGMはかの有名な牛の歌。ずっと前にも同じ歌を思い出した気がするが、あれはいつのことだったか。
 別に嫌々行くわけではないのにそういう気分になるのは、やはりビビっていたからだ。お疲れ様でした、と会社を出て飲みに行く。数件梯子してそのまま泊まる、そんなことは当たり前で、それと同じと思えばいいと分かっていたが、分かっていたって出来るとは限らない。
 容れ物や、そこに収まる家具や何かの問題でもない。
 自分のものとは違う、という違和感。そんなのはすぐに慣れるし、新しい物への愛着だって、いずれ湧く。大事にしていた古い物を捨てるときだっていつか来る。けれども、いつか放り出されたらどうしよう、という後ろ向きな考えだけは、捨てることが難しい。後悔したくないと思ったから決心したけれど、俺は何度も、決心したことを後悔した。
「……」
 携帯を見て、不在着信を確認する。思ったとおり、嘉瀬さんだ。コールバックする勇気はなかったから、見なかったことにしてポケットに突っ込んだ。
 一週間に一遍は自宅に帰ると宣言したのだ。今日は帰りますと言えばそれで済むことなのに、それすらせずに俺は逃げてきた。嘉瀬さんが眠っているうちに抜け出しコーヒーショップで朝飯を食い、無駄にうろうろ歩きまわり、巷で話題のアクション大作映画を観て、本屋で時間を潰して昼飯を食った。
 この時間だ、きっとまだ、どこで何をやってるんだと不思議に思っただけだろう。不在着信はそのうち質問のメールになり、心配する嘉瀬さんの怒りの音声メッセージが吹きこまれることになる。分かっているのにどうしようもない。人間て、なんて厄介なんだろう。本気で牛になってしまいたい。
 くだらないことを考えながら、俺はドアの横のボタンを押した。

 

「もう朝?」
「いえ、今午後二時半ですが」
 多岐川さんは寝惚けた顔をしていた。眼鏡をかけていないからよく見えないのか、元々なのか、目つきが悪い。訪問販売と勘違いされ、ドアの内と外で噛み合わない会話を交わすこと一分半、俺はようやくドアを開けてもらったところだった。
「で、何で俺んとこ来たんだっけ?」
「……部長に通報しなさそうなので」
「うん? つうほう? ああ、連絡か」
 水色の縞模様のパジャマのズボンに黄色のTシャツ。どうしようもない格好でTシャツの上から腹を掻き、多岐川さんはやたらとでかい欠伸をした。
「入れば」
「すみません、お邪魔します」
「住所教えて一週間でご訪問頂けるとはねえ」
「いやもうほんとすみません」
 多岐川さんは嘉瀬さんの大学時代の悪友である。男同士のセックスって一体どんなんだ、という子供じみた興味から一度だけ身体の関係を持ったこともあるらしい。嘉瀬さんにとっては若い頃やらかした多種多様な馬鹿のうちのひとつに過ぎず、多岐川さんにとっては消せるものなら消してしまいたい生涯最悪の汚点だそうだ。
 先週、多岐川さんが仕事の件で会社にやってきた。彼の会社は直接の取引先ではないが、大きなイベントで今後関わりが出来るらしく、挨拶がてら寄ったのだ、と言っていた。
 とにかくその日、嘉瀬さんと俺、多岐川さんの三人で酒を飲んだ。話をするのは初めてではないが、以前の対面のときはお互い猫をかぶっていた。多岐川さんは頭の回転が速くて話が面白かったが、住所を含む連絡先を聞いたのは純粋に後の仕事のためであって、まさか突然訪ねることになるとは、俺も予想外だった。
「ええと、何かご予定が——」
「あったらドア開けてないし部屋に入れてないよ。シャワー浴びてくるから、勝手に冷蔵庫開けてなんか飲んでて」
 眠そうな半眼でそう言い、ふらふらと寝室らしき部屋へ戻って行く。少し経って出てきた多岐川さんの消えた方から、シャワーの水音がし始めた。
 家主がいいと言っても勝手に冷蔵庫を覗くのは気が引ける。俺はソファに腰掛けて、座ったまま部屋を見回した。
 嘉瀬さんのマンションはかなり広いが、ここはお世辞にも広いとは言い難い。独身者用の賃貸1LDK。オートロックもなかったし、築年数もそれなりだろう。
 二度会っただけだが多岐川さんはかなりお洒落だし、もっと広くて新しいところに住んでいるだろうと思っていたから意外だった。雑誌に載っているようなものを漠然と想像していたインテリアは、こちらも予想外にありきたりで、言ってしまえば殺風景。家具もファブリックも、量販店のものだろう。
 洒落た雑貨の代わりに至るところに放置されているのは分厚い本で、パソコンがノートとデスクトップ取り混ぜて四台もある。生活感はそれなりにあるものの、まるで何かの事務所のような部屋だった。
 手持無沙汰で、足元に落ちていた本を拾って捲ってみる。古い本独特の黴臭さが鼻をついた。角が黄ばんだ紙にインクが擦れた僅かに不揃いな文字。おまけに旧仮名が目に入り、俺は溜息を吐いて元の場所に本を戻した。
 テーブルの上に吸殻の入った灰皿があったので、煙草を取り出す。何故かソファの向かい側に置いてあるダイニングチェアに移動して一本灰にし、ぼんやりと壁を見つめていたら多岐川さんが現れた。
「何か飲んでてよかったのに」
「ああ、いえ。その——」
「嘉瀬んとこと違って何もないけどさ。お茶? 水? オレンジジュースもあるよ。賞味期限一週間前に切れてるけど」
 前髪から滴を垂らしながらにやにや笑い、多岐川さんは俺が答える前にペットボトルのお茶を放ってきた。パジャマのズボンに上半身裸で、首からタオル。これでビールの缶を持ったら休日のお父さんだが、多岐川さんは自分もお茶のボトルを手に取り冷蔵庫を足で閉めた。
「嘉瀬と喧嘩でもした?」
「いえ——」
 さっきまで俺が座っていたソファに腰掛け、タオルで頭を拭きながら俺を見る。嘉瀬さんは一体どこまでこのひとに話しているのだろう。そう思ったのが顔に出たのか、多岐川さんは少し笑った。
「同居してるんでしょ? この間無理矢理聞き出したからそこまでは知ってるよ。あいつの恋愛に常に興味津々とは言えないけど、今までで一番、決定的に重症だから」
 ペットボトルを置き、煙草のパッケージに手を伸ばす。一本銜えて火を点け、多岐川さんはソファに凭れて煙を吐いた。その眼は完全に俺に焦点が合っている。何故か違和感を覚えたが、何がおかしいのか分からず多岐川さんの顔を観察した。多岐川さんは首を傾げて俺を見返し、数秒後にああ、と言って肩を竦めた。
「眼鏡は伊達」
「あ! あー、眼鏡……そうなんですか」
 違和感の正体がわかってなんとなくほっとする。俺の顔を見て少し考えるような表情を浮かべ、多岐川さんは口を開いた。
「行くところならたくさんあるのに俺のところに来たってことは、嘉瀬のことで話でも?」
 煙を吐き出しながら首にかけたタオルでごしごしと髪を拭く。
「……突然押し掛けて、本当にすみません」
「君に時間割きたくなかったら部屋に入れたりしてないって言ったでしょ。嘉瀬に聞いてもなかなか詳しく話さないから、高橋君が話してくれるなら楽しく聞くよ? そういう意味ではお互い様。野次馬根性丸出しでごめんね」
 にっこり笑った多岐川さんはさらっと言った。多分本気なのだろう。何せ部長の悪友だ。
「でも、悪いけどアドバイスは出来ないよ。見ての通り、独り者でね」
「彼女いないんですか?」
「いるよ。いるけど、他人と一緒に住むのが苦手でね。彼女とは長いし、結婚しようかなって何年も前から思ってはいるんだけど、同居するのに腰が引けちゃって。そんな俺からは何も助言することないよ」
「そうですか……」
 改めて見回すと、確かに女性の影がない部屋だった。彼女の私物は本が邪魔で置けないのかもしれない。
「アドバイスが欲しいとかそういうんじゃないんですけど」
 正直言って、何故多岐川さんのところへ来てしまったのか、俺も分かっていなかった。
「まあ、誰にでも話せる悩みじゃないだろうしね。ところで、俺の他に誰が知ってんの?」
「えーと、同じ部の同僚二人と、嘉瀬さんのお母さん」
「笑っていいのかなー、そのメンバー微妙」
「俺もそう思います」
「それと俺か。それだけ? そりゃまた、高橋くんもきついね」
 多岐川さんは目を細めてちょっと笑い、煙草を灰皿に押し付けた。
「誰か話せるような友達いないの? 聞いても友達やめたりしないような」
「——それは、いますけど」
 俺は煙草のパッケージを引っ張り出した。俺にだって、所謂親友とか幼馴染とかがいないわけじゃない。嘉瀬さんしかいないわけじゃない。そんなこと多岐川さんはどうでもいいのだろうが言い訳したくなる。
「聞いてくれそうな友達はいますけど、言いたくないんです」
「何で?」
 何でって。
「だって俺が……えーと、その、逆ならまだあれなんですけど……」
 多岐川さんは暫し黙って俺の顔を見つめていた。眼鏡をしていない彼の視線は妙に鋭くて、なんとなく居心地が悪くなった。もしかしたら伊達眼鏡をかけている理由はこの射るような視線のせいかも知れない。
「あー、そうか」
 突如パジャマの膝を掌でばしんと叩き、多岐川さんは頷いた。
「高橋くんだって男だもんなあ。そりゃ自尊心傷つくよな」
 はっきり言われてへこんだが、多岐川さんが言う通りだ。抱かれる方だ、なんて絶対誰にも言いたくない。
「じゃあやっちゃえば」
「はあ?」
「いや、それが原因で言えないなら、嘉瀬をやっちゃえばいいんじゃない」
 どうでもいいような顔で何て事を言うのだろう。俺の凝視に数秒耐え、多岐川さんは吹き出した。
「なんつー顔すんの、高橋くん! 冗談に決まってるでしょうよ。絵面として想像できないよ、そもそも!」
 さすがは嘉瀬さんの悪友だ。俺はすっかり機嫌を損ね、多岐川さんはいつまでも脇腹を押さえて笑っている。渡されたペットボトルの蓋を捻ってひとくち飲む。ようやく気が済んだらしい多岐川さんがまだ笑みを浮かべながら煙草を揉み消し、あーあ、と息を吐いた。
「おかしかった」
「そんなに笑わなくても……」
 俺の抗議をものともせずにまた笑い、多岐川さんは煙を吐いた。