その笑顔は神か悪魔か幻か 15-2

 バスタオルで頭を拭きながら戻ってきた嘉瀬さんは、ネクタイと上着以外の昨日の衣服を身に着けた。泊まったのだから当然だが、俺は何となく後ろめたくて、寛げられた襟元から目を逸らした。
 嘉瀬さんの家には、ほんの少しではあるけれど、俺の私物が置いてある。
 もっとも、好きで持ち込んだわけではない。嘉瀬さんにうまく言いくるめられたりして、結果的に置いて来ることになっただけだ。
 ワイシャツ数枚、ネクタイ数本、それから、ほんの少しばかりの下着と洗面道具。平日の夜に泊まっても、出勤するのに差し支えないだけのささやかな準備。
 俺は、それさえこのひとに許していない。
「何だその面?」
 部長は眉を寄せ、ソファに腰掛けて湿った前髪を掻き上げた。束になったそれがばらばらと目にかかる。
「生まれつきです」
「またそういう——可愛くねえなあ、お前はほんとに」
「今更でしょうが」
「まあな」
 煙草を銜え、火を点ける。ゆっくりと吐き出す煙。寄せられた眉と伏せた睫毛。嘉瀬さんの、煙草を吸う仕草ひとつひとつが、とても好きだ。
「昨日は可愛かったのによ」
 俺は咄嗟にポジの件を思い出して顔をしかめた。
 嘉瀬さんは俺を怒鳴りつけ、俺は米つきバッタ並みに頭を下げた。あれを可愛いというのなら、このひとの感覚は思っていた以上に歪んでいる。
「あれがですか」
「ああ」
「そんなに俺が謝ってるとこを見たいんですかあんたは?」
「謝ってるとこ?」
「だって」
「あ? ああ、昨日のあれか? そうじゃねぇだろ、誰が可愛いと思うって、あんなクソ馬鹿らしいミスでみっともなく青くなってる部下」
 ごもっともでございます。
「そうじゃなくて、夜だよ、夜」
 俺は腰骨までずり下がったジャージに首回りがよれて色褪せたTシャツ、寝癖がついた髪、そして多分呆けた顔で片手に牛乳の入ったグラスを持って突っ立ったまま、嘉瀬さんを眺めていた。可愛いなんて日本語とは、多分かなり離れた立ち位置で。
「夜って何です」
「……覚えてねえんだもんな、お前」
 そう言って煙に目を細め、嘉瀬さんは少しだけ笑った。煙草を灰皿に置き、嘉瀬さんは俺を手招いた。勿論、俺が——会社では別だが——呼ばれたからといって素直に従わないことをこのひとは知っている。そして、いずれ根負けした俺が、歯噛みしながら近寄るのも。
 灰皿の上で煙草が半分灰になった頃、俺はようやく諦めて嘉瀬さんの前に立った。
「泊まるつもりじゃなかった。お前が嫌がんの、分かってるからな」
「……別に嫌じゃないです」
「いいよ、別に」
 物分かりよく、部長は言う。本当はいい、なんて思っていないくせに。
 受け入れられるかどうかは別にして自分の意向はきちんと主張する嘉瀬さんが、こういうときは決してそれを表に出さない。覚悟が足りない俺に対する思いやり——要するに嘉瀬さんが大人だということなのだろうが、俺はその度居心地が悪くなる。
「けど、思わずタクシー帰しちまった」
「——嘉瀬さん、俺、別に嫌なんじゃなくて」
 言い訳に聞こえるのは分かっている。だから、俺は自分の足の爪を凝視して、ぼそぼそと呟いた。
「そんなふうには思ってません。そうじゃなく——急に色々変わると、俺」
「なあ、俺んとこ来いよ」
 酷く優しく、嘉瀬さんは言った。
 俺を怒鳴りつけていたときの迫力はどこにもない。強制も、懇願も。ただ、穏やかに部長は言う。
「よく考えたら、お前の言う通りだと思う。同じ会社に勤めてんのに、同じとこに住むわけにいかねえよな。住宅手当だって関わってくるし、そうすりゃ住民票だって出すんだしよ。だから、一緒に暮らそうとは言わねえから」
 顎に嘉瀬さんの指が触れた。指が持ち上げるまま顔を上げ、いつもと違って下にある目を覗き込む。
 目を見たらすべてが分かるなんて、そんなの嘘だ。少なくとも、俺にはさっぱり分からない。嘘を吐かれているとは思わない。だけど、嘉瀬さんの真意なんてちっとも読めはしなかった。
「週の半分でいい。三日でも、二日でも」
 俺が何か言う前に、嘉瀬さんは続けた。
「一人になりたい時はここに戻れよ。お前の場所に入り込んだりしねえから」
 目の前に嘉瀬さんの顔がある。嘉瀬さんの匂いがする。
 ここは、俺の部屋だというのに。
 喉が詰まって何も言えなかった。
 このひとはどう考えているのだろう。
 多分、誤解しているのだろう。俺は、自分だけの空間が欲しいわけじゃない。この部屋に、自分の場所に嘉瀬さんが侵入したと感じているわけでもない。
 ただ、彼のすべてがそこに、手の届くところにあることに、息が止まりそうになるというそれだけだ。
 午前中の光の中で、嘉瀬さんの整った顔は妙に作り物めいて見える。表情を抑えているせいかもしれない。
「荷物半分持って、俺んとこ来いよ、佐宗」
 薄いカーテン越しに差し込む陽射しが嘉瀬さんの睫毛を白っぽく光らせた。一本一本がはっきり見える。
 穏やかに微笑む嘉瀬さんの顔が光の中で目に眩しい。物分かりがよくて優しくて甘い嘉瀬さんなんか好きじゃない。それなのに、どうしてこんなに息苦しい。
 俺は、牛乳のどこか温かみを感じさせる白に目を向けた。まろやかな水面が光を反射してゆらゆら揺れる。俺の手が震えているのだ。
 ああ、そうか。
 俺は、どんな嘉瀬さんもすべて欲しいのか。

「……何ですかそれ」
 必要以上に冷たい声に、嘉瀬さんがちょっとたじろいだのが俺にも分かった。
 俺の憎まれ口はほとんど条件反射だし、この場合、照れ隠しも手伝って普段よりさらに素っ気ない声が出た。
「半分だけ来い? 意味が分かんないんですけど」
 嘉瀬さんの唇が引き結ばれ、窺うように眼を眇める。
「生活を半分に分けられるわけないでしょうが。半分こっちで半分あっちなんて、俺は通いの家政婦かなんかですか。分けられないものはどうすんです? 二つ買って両方に置く? そんな無駄遣い俺はしたくありませんよ、冗談じゃない」
「……そうか。分かった」
 硬い声が俺を遮る。牛乳の入ったグラスをテーブルに置き、俺は嘉瀬さんが続けようとした言葉を遮った。
「お互いの時間が無駄になることはしたくないんです俺は。あんただってそうでしょう」
「分かったって言ってんだろうが」
 低く吐き出す嘉瀬さんの顔を見つめ、俺の好きな鬼部長が戻ってきたことに——決してマゾヒストではないのだが——思わず込み上げた笑いを必死で噛み締めた。
 笑っちゃ駄目だ。だけど俺はやっぱりこういう嘉瀬さんのほうが、好きなのだ。
「だから、あんたんとこ、行きます」
 俺が告げると、嘉瀬さんの顔が固まった。
「一週間に一回は戻ります。郵便、転送とかしたくないですし。あれって一年経ったら差出人に戻っちゃいますから」
「佐宗?」
「一年後にどうしてるかなんて分からないですし」
 何か言いかけた嘉瀬さんは、俺の顔を見て口を閉じた。
「……だから、あんたんとこ行くことにします。一年後に、行っておけばよかったって後悔したくないですから。来なきゃよかったって後悔、してるかも知れませんけど」
「——うん」
 目を瞠ったまま子供のように頷く嘉瀬さんに、俺はゆっくり手を伸ばした。
 まだ湿っている前髪を掴み、指先で掻き分ける。露わになった額と形のいい眉に指を這わせた。
「言っときますけど、俺、一緒に住んで楽しい相手じゃないですよ」
「それは俺が決めることじゃねえのか」
 じっと見つめてくる嘉瀬さんの視線に耐えられず、俺は一歩下がって目を逸らした。嘉瀬さんの手が動く。俺は更に三歩下がって、嘉瀬さんの長い腕が届かない場所まで撤退した。
「……この場面で逃げんなよ。おら、こっち来い馬鹿」
「嫌です」
「あんなに可愛かったのはどこの誰だ、え? 佐宗。昨日みたいに素直に言えよ」
 脅すような低い声を出しながら、嘉瀬さんの目は笑っていた。
 そういえば、さっきもそんなことを言っていた。セックスもしなかったというのに、一体俺の何が可愛かったというのだろう。
「さっきから何の話です? 謝罪記者会見並みに頭下げた俺じゃないってんなら何がそんなにあんたの気に入ったんですか」
「帰らないでくれ、一緒にいてくれって言ったじゃねえか」
「は?」
 嘉瀬さんは、悪魔のようににやりと笑う。それだけで俺の膝はこっそり震えた。
「玄関んとこで、俺の背広の裾掴んで」
 頬がかっと熱くなった。
 知らない。
「そんなことは言ってません」
 というか、覚えていない。
「……それ、俺じゃないんじゃないですか」
「俺とお前以外、誰がここにいるんだよ、え?」
「…………フレッド君が」
 嘉瀬さんは、台所で微笑むキャラクターのスパイスボトルに目をやり、鼻を鳴らした。
「フレッド君じゃねえよ。お前が言った」
「言ってません」
「佐宗」
 部長は、ゆっくりと立ち上がって俺の名前を呼ぶ。仕事の指示を与えるときのようなその言い方。
 優しくもなく、傲慢ささえ感じるその口調。
 嘉瀬さんは、いつもと変わらない笑みを浮かべて俺を見下ろす。
 遥か高みから、俺にない何かを持った傲慢な君主は御旗の下に号令を下す。
 俺を見ろ、手を差し伸べて求めろと。
 思うとおりになると思うな。
 そう思い続けているけれど、結局俺は籠絡される。彼の上着の裾を掴んで、行かないでくれと乞う羽目になる。
「嘉瀬さん、帰るんですか」
「え?」
「……帰らないでくださいって言ったら、いてくれますか」
「佐宗?」
「帰らないでください。一緒にいたい」
 突然蘇った記憶に舌打ちしつつ、俺は誓いを新たにした。
 結果的にこのひとの思い通りになるにせよ、素直にそうなってやる気はない。散々手こずり、怒鳴り、地団太踏んで俺を欲しがってくれればいい。俺があんたを欲しいと思うくらい。せめてその半分くらいでも。
「佐宗。何回呼ばせんだよ」
「……六百八十二回」
「馬鹿」
 さっさと来い、高橋。
 苦笑を浮かべ、怒ってもいないくせにそう言って、嘉瀬さんは俺に手を差し伸べた。