拍手お礼 Ver.9

Ver.9 数えたら両の指を超えた

 そこを通ったのは偶然に過ぎないが、もしも虫の知らせというのが本当にあるとすれば、知らせを運んだ虫に感謝しなければならないだろう。
 真っ直ぐ進めば秋野はそのまま路地を出ていたし、向かいから明らかに酔った中年親父と東欧系のホステスが歩いてこなければ間違いなくそうしていただろう。親父の助平そうな顔を見て何となくうんざりし、目の前でおっ始められてはかなわないと左に曲がった。進む暗がりでした物音が、何の音かも考えずに。

 

「痛ぇな……くそったれが」
 聞き覚えのある凄んだ声に、秋野は思わず首を捻った。この辺りはあの男の行動範囲から外れているし、どちらかというと足を踏み入れて欲しくない界隈なのだ。足を速めて路地を抜けると、案の定よく見知った姿が見えた。
 ぽっかりとそこだけ空いた取り壊された風俗店の跡地に、哲と二人の男が立っていた。男の一人が手に角材を持って哲の斜め後ろに立っており、哲は掌でこめかみを拭っている。恐らく後ろから殴られでもしたのだろう。
「哲」
「ぁあ? 何してんだこんなとこで」
 秋野の声に反応しつつ、哲は男二人から眼を離さない。男二人がこちらに顔を向け、目を瞬く。秋野は思わず舌打ちした。名前は知らないが、顔は何度か見たことがある。これは哲の、というより秋野の——しかも、昔の——領分だった。外国系マフィアの下っ端なら、拳銃のひとつやふたつ持っていてもおかしくない。例えここが治安のいい日本だろうとどこだろうと、そんなことに意味はない。
「おい哲、駄目だ、こいつらに構うな」
「るせえな、人の喧嘩に口突っ込むな」
「止せ」
「指図すんな」
 哲の眼の凶暴さに、男が後ずさりつつシャツの背中に手を回す。だぶついたシャツに隠れたジーンズの腰に一体何が挟んであるのか。流石に哲で結果を確かめるわけにもいかない。
 秋野は大股に哲に近寄ると、力いっぱい鳩尾を殴った。まさかこの状況下で秋野に殴られるとは思っていなかったに違いない。珍しくもろに打撃を食らった哲が身体を二つに折り、激しく咳き込む。襟首を捕まえて屈んだ身体を無理矢理起こし、耳の後ろに拳を叩き付けた。
 多分、一瞬意識が飛んだはずだ。がくりと後ろに倒れた哲の髪を捕まえて、立て続けに脇腹を殴りつけた。
 秋野はふらつく哲を抱えて男達を振り返る。一人は既に角材を地面に放り出していた。
「——行ってくれ。これは俺が面倒見る」
 英語で低く呟くと、男二人は何も言わずに背を向けた。

「てめぇ、ぶっ殺してやるコラ!!」
 目を開けた哲はさながら狂犬病に罹った狂犬——そんなのがいるかどうか知らないが——の如く、その迫力と言ったらヤクザでも泣き出すのではないかと思うほどだった。この場所に運んでくる前にしこたま殴りつけ、念のために縛っておいて本当によかったと秋野は胸を撫で下ろす。
「うるさい、少し落ち着け。大体あんなとこで何やってたんだ」
「お前に関係あんのか、あぁ!? 解けこのクソ虎今すぐ腹掻っ捌いてやる!!」
 秋野は怒声に眉を寄せ、足元に転がる哲を見下ろした。
 うつ伏せに、まるで荷物のように転がされた錠前屋は頭から湯気を噴き出さんばかりに激昂していて、見ている分には大層面白い。それにしてもこいつの身を案じての行動の結果が、その本人の手足を縛り上げて床に転がすことだとは、何かが間違っていやしないだろうか。些か首を捻りつつも、秋野は哲の頭の上にしゃがみこんでその顔を覗き込んだ。
「ありゃ所謂中国系マフィアだ。殴り合えば間違いなくお前が勝つが、拳銃を持ってる。撃ち殺されたかったか?」
 哲は歯噛みしながら低い唸り声を漏らすが、何も言わない。
「見た目は日本人と変わらんから分かりにくいが、俺はちょっと面識があるんでな。幾ら何でもお前の射殺死体を回収する羽目にはなりたくない」
「うるせえ、俺がどうなろうとてめえの知ったことか」
 喧嘩を止めたことも、何の説明もなく退場させられたことも、とにかく余程頭に来たのだろう。もしかしたら元々虫の居所が悪かったのかも知れない。哲は歯を軋らせ、呪詛のように悪態を垂れ流す。秋野は哲を見下ろし目を細めた。喚き、暴れる錠前屋を目の前にすると、また一頻り殴りつけてやりたくなる。
「いい加減黙れよ。余り興奮するな。襲うぞ」
「ボケてんじゃねえぞ、ジジイが。それより殴らせろ。もうてめえでも壁でも何でもいいから殴らせろ」
 地の底から響くような不吉な声で、哲はそう要求した。
 知人が営む寂れたバーのある雑居ビルは上はすべて空いていて、この階は簡単な住居スペースになっている。秋野はここを知人から借りており、たまに使うが誰を連れてきたこともない。当然ながら他には誰の気配もなく、清潔ではあるが埃っぽい。がらんとした空間に、哲の唸り声が禍々しく尾を引いた。
 秋野は哲の髪を掴んで顔を上向け、食いつくように口付けた。哲が酷く不満気な声を上げ、差し込んだ舌に思い切り齧り付く。
「ふざけんな、仕入屋。殴らせろっつってんだよ」
 哲は唸りながら身体を動かし、仰向けになった。その哲に覆い被さり知人に借りた荷造り紐で縛ったままの哲の手首に歯を立てる。
「痛ぇじゃねえか、野郎。バラされてえか、あ?」
 相変わらずぎらついた眼で秋野を睨み、哲は乱暴に吐き捨てた。
「——そういう顔しても逆効果だって言ってるのに、馬鹿だね」
「るせえ」
 両手で哲の顔を挟んで唇を食む。深く、濃い口付けに満足に呼吸が出来ず、息が詰まる。
「…………責任取れ、クソ虎」
 絡む舌の隙間から、哲がぼそりと呟いた。喧嘩で発散出来なかった責任を取れというのか。秋野は思わず喉の奥で低く笑った。唇を離し、至近距離で哲の両目を覗き込む。前髪の向こう、凶暴な色を湛えたままの瞳がひとつ瞬いて、触れんばかりの唇からしゃがれた声が微かに聞こえた。一センチにも満たない僅かな隙間を埋める声は酷く低く、不機嫌そうなその響きは、いつもとなんら変わらない。
「ほどけ」
 秋野は、ライターを取り出して火をつける。哲の手首の紐からビニールの溶ける嫌な臭いが漂った。

 

 押さえつけた哲の身体を更に深くシーツに沈めた。枠がない、マットレスだけのベッドに狂犬をひっくり返し、開かせた脚の間を指で探る。
「…………っ…………この……!」
 哲の背が反り、踵が秋野の尻を蹴飛ばした。本気ではないながらもそれなりに強烈な蹴りに尻が痛い。
 過度の興奮状態だったせいか欲求不満をぶつけているせいか、哲はいつもの不感症っぷりはどこへやら、刺激に素直に反応した。だからと言ってしおらしくなるというわけでもなく、ましてや女のように高い声でイイとか何とかいうわけでもなかったが。
 吐き出されるしゃがれたそれは殆ど呼吸の音に近い。しかし上がる息の狭間に掠れた声で悪態を吐き、快感に涙の滲んだ眼で死ねとばかりに睨まれると秋野も頭に血が上った。
 常識的な見地からは色っぽいとは口が裂けても言えない哲にうっかり理性が飛びそうな自分は完全にいかれていると、赤熱する頭の隅に我ながら半ば諦め気味のコメントが浮かんでは消える。
 指の動きを止めて見下ろすと、哲がしかめ面を秋野に向けた。
「……何だよ」
「——不感症かと思ってたよ」
 半ば冗談、半ば本気でそう言ってみる。本気で哲が不感症と思っているわけではないが、いつもの反応が反応だけに、まったく可能性がないとも言い難い。哲は本気で呆れたような顔をして、はぁ? と下品に語尾を跳ね上げた。
「馬鹿か、てめえは。んなわけねえだろうが。相手を選んでんだよ、俺の快楽中枢は」
「そんなもの持ってなさそうに見えるがね」
「……試してみるか?」
 にたりと笑った哲の顔は、酷く男臭かった。指を引き抜き口付ける。唇が離れた途端、何が可笑しいのか哲はげらげら笑い出した。

 

「ん…………っ」
 秋野の鎖骨の窪みに押し付けられた哲の頭が、動きに合わせて緩やかに揺れる。
「————あ」
「哲」
 秋野に跨った哲は上体を倒し、接合部を擦り付けるように腰を動かす。秋野の身体の横に突いた腕には血管と筋肉の束が浮き、歯軋りと掠れた吐息に時折低い喘ぎが混じった。哲の呼吸の淫靡な響きは埃と一緒くたに空間に散る。
 手を伸ばし、髪を掴んで顔を引っ張り上げた。眼の縁を野犬のように赤くして、哲は唸る。今にも歯を剥きかねない表情には、それでも普段は感じられない快楽の色が濃く、盛った獣を見ているようだ。
 身体を起こして哲のうなじを強く掴んだ。唇を合わせようと顔を寄せたが哲はふいと顔を逸らし、秋野の頚動脈に歯を立てた。
「哲——?」
 睨み殺されそうな、眼光の苛烈さはそのままに。
 悪態も罵声も封じ込め、哲はただ感覚を追うように身体を動かし眼を眇める。押し込むように突き上げると、哲は眼を閉じて仰け反った。
「…………あ、……んっ……」
「哲」
 秋野は哲の名前を呼ぶ。
 この期に及んで愛しさも、切なさも感じはせず、止めてくれと懇願するまで犯してやろうか、しかしこいつは死んでもそんなことは言わないだろうとくだらない考えばかりが頭をよぎる。
 喉笛に齧り付いた獣を抱きながら名前を呼んで、途中から意識の隅で呼んだ回数を数えたら、両の指を超えていた。

 

 自分の吐き出したものと哲の内臓が、抜き差しするたび考えようによっては酷く卑猥な音を立てる。しかし秋野には、それがどうしても滴る血の音に聞こえた。腹を裂かれた自分の姿が瞼に浮かび、粘つく音を意識から締め出した。

 身体の中心にすべてが吸い込まれていくような、独特の感覚。反り返る哲の背、濁った呻き声、手の中の哲の硬さ。
 何度目かの絶頂の一歩手前、背中の肉を爪の先で抉りながら、哲が低く「秋野」、と言った。