拍手お礼 Ver.5-8

Ver.5

 生温い風が吹くようになった近頃、民家の軒先や街路に植えられた花の蕾もほころび始めている。桜の開花宣言はとうに出て、あちらこちらで花開いた桜の木を目にするようになった。元々花を愛でる風雅な心の持ち合わせがない哲は、立ち止まってそれらに見入ることは殆どないが。
「花見に行こう」
 部屋の入り口に立った秋野が何の前置きもなしにそう言ったときは、だからすぐさま「嫌だ」と答えた。

「人混みは好きじゃねえ」
「知ってる」
 秋野は顔色一つ変えず頷くと、それでも一歩も動こうとせずほんの少し首を傾げた。
「早くしろよ」
「だからよ……」
 抗議しようと口を開きかけたが、つい面倒臭さに負けて立ち上がった。秋野は、一度こうと決めたら原則的には梃子でも動かない。必要があれば動かす努力をするのもいいが、些細なことで体力を使うのは勿体ない。何せ簡単に意志を曲げる男ではないのはよく知っている。
 放り投げてあったジャケットを掴むと、溜息を吐いて戸口に向かう。靴を履こうとするが、三和土に秋野が突っ立っている。哲は秋野を睨みつけた。
「付き合ってやるからどけ」
 秋野は薄く笑うと、ドアを開けて外に出た。

「別に人でごった返すとこで弁当広げようってんじゃない」
 ぶつくさ文句を言いながら後に続く哲を振り返り、秋野はそう言った。
「普通の家の軒先に生えてる木なんだけど、結構なもんだ。周りがいささか情緒に欠けるが、まあお前には似合いだろう」
「何だそりゃ」
 首を捻る哲に少し笑うと、秋野は黙って歩いていく。昔からあったのだろう、立ち並ぶ家々はどれも古臭い住宅街。そのなかの一軒の前で、秋野は足を止めた。

 確かに。
 中々見事な桜ではあった。
 空が白く靄ったようにも見える満開の花。ずっしりと枝をしならせるような重厚な花ではなく、どちらかと言うと今すぐ風に散りそうな儚げな花でありながら、存在感があった。
 そよぐ風に、ひらひらと数枚の花びらが散る。雪のように軽く舞い落ちるそれは、花びらと言うよりも綿毛か何かのように見えた。

 そして、木の根元には大量のスクラップがうずたかく積みあがっている。
 秋野がのんびりと言う。
「ここの爺さん、元々自転車修理工だったらしいんだな。それでパーツなんか集めたりしてるうちに結局店は畳むわ挙句耄碌するわで、こんなことになったらしい」
 確かに言われて見れば、錆びて捻じ曲がった自転車の部品がかなりの割合を占めている。
「壮観だな。ある意味桜より見応えあるんじゃねえの」
「桜の下には死体が埋まってるってよく言うだろう」
 秋野は口の端を曲げて笑いながらそう言った。
「埋まってはいないが、桜の下の死体って意味じゃあ、間違ってないよな」
 哲は秋野の薄茶色の瞳をちらりと見上げて顔をしかめた。陽光が当たって黄色く光るその瞳こそ、この世のものならぬ色合いを帯びていると思える。
「——お前は死体の上に平気で座って花見酒を飲める奴だよな」
 哲の台詞に、秋野は眉を上げて顔を振り向けた。
「俺はそこまで人でなしじゃないぞ」
「そうか?」

 一陣の風が、桜の一枝を大きく揺らす。何故かそこだけ大きくしなった枝の先から、零れ落ちるように花びらが降り注ぐ。
 黒い髪の上に、薄茶色の眼の前に、広く頑丈な肩の先に。
 踊るように舞い落ちる白に近い薄桃色の小さな欠片。
 哲は咄嗟に手を伸ばし、掌を握り込む。開いた掌には、無残に握りつぶされた花びらがべったりと張り付いていた。
「人でなしでもいいぜ、俺は別に」

 

 乱暴に手を払い、へばりついた花びらを振り落としながら吐き出した。哲を向いた秋野の背後、桜の木は穏やかに佇んでいる。山と積まれた鋼の死体を懐に抱き、上っ面の美しさで見るものを惑わせながら。
「……俺を殺す気か」
 低くがさついた声で絞り出す秋野に、哲はわざとらしく肩を竦める。
「何のことだか」
「くたばれ」
 珍しく口汚い悪態をついた秋野に、哲は鼻を鳴らして見せた。
「うるせえ、こっちの台詞だクソ野郎」

 

 眇められた獰猛な目に指先を這い上がる何か。降り注ぐ桜の花弁のように、それは目の前を白く霞ませる。秋野の顔に徐々に浮かぶ刃物のような鋭さに、哲はうなじの毛が逆立つのを感じた。
 風もないのに、枝がざわりと揺れた気がした。桜のせいか、秋野のせいか。視界を覆う何かに、哲は攻撃的な笑みを向けた。

 

Ver.6

 こいつが自分からしたいなんて、打ち所が悪かったのか。

 半ば本気でそう考えながら、秋野は突っ立ったまま哲の顔を眺めていた。さっき道路に転がした時に頭を打ったのがいけなかったのかも知れないし、そうではなくていっそ別人だったりするかも知れない。
 そんなことを考えながら幾ら仔細に検分してもおかしな部分は見つけられず、少なくとも哲の皮をかぶった宇宙人や何かでないことだけは納得した。もしかすると人間の皮を被った獣かも知れないが、まあそれは今は置いておこう。
 手を伸ばして鼻の頭をつまんでみる。唸り声と共に手酷く噛まれたから、どうやら哲に間違いない。
「何ぼさっと口開けて突っ立ってんだよ。てめえは案山子か」
「……口は開けてないよ、失礼な奴だな」
 普段よりほんの少し目蓋が重たげな哲は、まるで秋野には一片の興味もないと言う顔をしている。別にしようがしまいがどちらでもいいが、哲から誘うという前代未聞の事態だけに、面白いと言えば面白い。そんなわけで、こいつの気が変わる前にひっくり返して乗っかるか、と身も蓋もないことを考えていたら不意に哲が踏み出した。

 

 両手で頭を固定され、キスされた。
 哲から食いついてきたことは何度もあるから、それ自体は驚くに値しない。ただ、今まではあらゆる意味で「食いついてきた」のだということを別にすれば、だが。
 だから、「キスされた」のは初めてだ、と驚きながらも冷静にそう考え、秋野は僅かに身じろぎした。
 哲が前に付き合っていたミキと言う子は、それこそ両手で数えるほどの男が居たらしく、そう考えれば哲が巧いかどうかは推して知るべしではあるのだろう。
 哲の仕掛けてきた濃厚な口付けに、それ程飲んでもいないのに、まるで酩酊したかのように目が回った。

 首筋をきつく掴んで、深く中へ入り込む。口の中は、ある意味腹の中と変わらない。執拗に、飢えた動物のように貪った。呼吸が出来ないのか、苦しげな顔の哲が秋野の首筋を掻き毟り爪が皮膚を抉ったが、その痛みが尚更飢餓感を掻き立てる。
「…………は……ぁ……っ」
 哲の口から掠れた、吐息のような喘ぎ声が漏れた。思わず手と舌と、とにかくすべての動きを止めた秋野の顔を見上げて、哲が口元をひくり、と引き攣らせる。次の瞬間爆笑した哲は、くずおれるようにマットレスに腰を下ろし、片手で俯けた頭を抱えるようにして、げらげらと笑い出した。
「鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔してんじゃねえよ、ばぁか」
「お前なあ……」
 座り込んだ哲の肩を思い切り蹴飛ばすと、哲は布団の上にうつ伏せに転がった。暫く腹を抱えて笑っていた哲は、仰向けになると、歪んだ笑いを貼り付けたまま秋野を見据えた。額に載せられた手の下の、威嚇するような凶暴な目。傍にしゃがんで覗き込むと、哲の目が眇められた。
 僅かに動いた唇から、聞き取れないほど微かに、短い言葉が零れ落ちる。哲の頬に伸ばした秋野の指は思い切り払い除けられ、秋野は思わず眉を顰めた。
「お前がどれだけ俺をイラつかせるか、知ってるか」
 秋野が呟いた言葉に、哲が禍々しい笑みを見せる。
「さあなぁ。俺の知ったことじゃねえよ」
「……泣いても俺は知らんからな、哲」
 片方の眉を上げて馬鹿にしたように頬を歪める哲の身体に、秋野はゆっくり覆い被さる。
 優しいとさえ言える手つきで髪を撫でるその手が、その後獲物をどうしたか。

 

 

 翌日の哲は悪魔のように不機嫌で、声は酷く嗄れていた。

 

Ver.7

「…………っ、はぁ……っ、あ……!」
 哲の息遣いが部屋の中にやけに響く。
 他に何の音もない室内に、荒い息と喉に絡んだような喘ぎだけが間断なく吐き出されていた。

 

「……こ、の……っ」
「哲——」
「おらあぁ!!」
 哲の気合とともに衝撃があって、秋野は自分の身体が床に勢いよく転がったことを遅ればせながら認識した。もろに床にぶつけた頭を抱えて流石に呻き声を上げる。
「痛いな……まったく」
「まったく、じゃ、ね…………っ!!!」
 恐ろしい形相で仁王立ちした哲の声は酷く掠れ、喋るのも辛そうだ。
 それはそうだろう。
 たった今まで、哲の首は秋野の頑丈な腕にしっかり絞められ、あわや落ちるか、と言ったところだったのだから。
「ぶっ殺す……てめえだけはマジで殺す…………」
 目が据わった哲の顔を見上げ、秋野は楽しそうに目を細めた。すっかり頭にきている哲は本当に迫力があって、見ているだけで嬉しくなる。叩き潰す相手は手応えがあるほうがいいに決まっているのだ。

 

 事の始まりは本当に些細なことだ。虫の居所が悪かった哲がつまらない冗談に腹を立てたというだけで、それ以上でも以下でもない。誰だって機嫌の悪い時くらいあるのだし、分かっていてつついた自分が一番悪いのだから。
 脳天に向けて何の躊躇もなく振り下ろされた踵を避ける。立ち上がって二歩下がると、哲の足がまた飛んできた。秋野が避けたせいで足が思いっきり壁に当たり、かなり派手な音がした。
「おい、うるせえぞ、ガキ!」
 隣の部屋の玄関が開く音と、男のだみ声がドアの外から聞こえてきた。その物言いに神経を逆撫でされたのか。哲は青筋を立てた恐ろしい顔で、振り返りかけた秋野を押し退け大股で玄関に向かった。鍵を開けると蝶番が壊れそうな勢いでドアを開ける。秋野からは、哲とドアの隙間から隣の男の青い顔が少しだけ窺えた。
「てめえが先に殺られてえか!? 俺は頭に来てんだ黙ってろ!!」
 腹の底からの凄み満点の怒声が廊下に響き、後には静寂だけが訪れた。
 ゆっくり、至極静かに、お隣さんのドアが閉まる音が秋野の耳にも聞こえてくる。隣は確かチンピラ紛いの男で、土木作業員をしていたり何もしていなかったりで、どちらにせよ夜のこの時間部屋にいるのは珍しい。それにしても不運なのは一喝されたあの男か、それとも男の隣人である自分なのかよく分からない。
「ああ、俺の近所づきあいを」
「黙れ、くそったれ」

 いきなり哲に足を払われ、不覚にも膝をついた。ここぞとばかりに蹴りつけて来る足を掴んで思いっきり手前に引っ張る。哲は仰向けに転ぶかと思ったが、身体を捻って床に両手を着き、掴まれていない足の踵を思い切り蹴り上げてきた。顎を掠めた踵を紙一重で避けたと思う間もなく、今度は叩きつけるように振り下ろされた足の側面に胸板を強打された。
 哲の足首を握ったまま後ろに倒れ込むと、当然身体もついてくる。幾ら痩せているとは言え、それなりに筋肉のついた成人男性がまともに上に落ちてくると息が詰まった。
 秋野の身体をわざと踏みつけて立ち上がり、哲は一瞬前までの機嫌の悪さが嘘のようににやけた顔を振り向けた。まったく、どうしようもないのはこいつか自分か、判断つきかねるというのも困ったものだ。
 哲は立ち上がった秋野に無造作に歩み寄った。秋野の後頭部に手を当てて力いっぱい引き寄せると、鼻面に噛み付かんばかりに顔を近づけ、にたりと笑う。邪悪に歪んだ口元からは、牙が見えてもおかしくない。もっとも、ありもしない牙よりも余程鋭い視線のほうが数倍は禍々しく、秋野は薄茶の目を眇めた。
「秋野」
 哲の猫撫で声が頬をくすぐる。
 秋野の頬と頭を両手で抱え、吐息の僅かな揺らぎさえも聞こえる程近くに顔を寄せる。哲は泣く子も黙りそうな目つきで秋野を見上げ、語を継いだ。
「なあ」
「何だ」
 吊り上った口の端に浮かぶのは、慈悲の笑みとは程遠い。哲は秋野の下唇を甘く噛み、低く、掠れた声で呟いた。
「…………いいことしようぜ」

 

 抱え込んだ頭を引かれ、額のど真ん中を狙った哲の膝が突き出された。腕を割り込ませて膝を止め、自分の上に被さった哲の上体を肩に担ぎ上げて勢いで払い落とす。背中から墜落した哲が腹筋だけで跳ね起きた。反動をつけた上段の回し蹴りがガードした手首を吹っ飛ばし、目の前に星がちらつく。
「何がいいことなんだか」
「いいことじゃねえか。俺は滅茶苦茶興奮するぜ」
 笑う秋野を嘲笑い、ご機嫌な狂犬は準備運動でもするように両手をぶらぶらと胸の前で振って見せた。
「お隣さんに嫌われるよ、まったく」
「何なら二人まとめて面倒見るか?」
「言ってろ」

 しゃがれた声も、上がる息も。
 セックスの時とさして変わらないのに、その時より哲はずっと上機嫌で、危険で色気があって、手がつけられなくて面白い。
 思わず顔が緩むのを自覚しつつ、秋野は哲に正対した。

 

「ところでよ」
 床に寝転がった哲が、ぼそりと呟く。鼻を押さえたティッシュを目の前に掲げ、鼻血が止まったのを確認したのかそのまま床に放り投げた。
「ん?」
 秋野は床に座って哲を見下ろしながら、痛む左足の脛をさすった。
 哲は相手が秋野のときは、上背がない分ハイキックよりローキックを多用する。お陰で秋野の脛は今日一日で随分と痛い目に遭った。
「…………何でこうなったんだっけな?」
「…………さあ。わからんよ」
 哲が突然笑い出し、寝たまま秋野の腹を蹴飛ばした。

 

Ver.8 やさしく傷つけて

 水流か、小さな生物か。何かに掻き混ぜられた水底の泥が舞い上がるように、眠りの深い淵から浮かび上がる。未だ完全な覚醒には至らない頭と睡眠で鈍磨した感覚が、状況を把握しようと動き出すのをぼんやり感じる。
 頬に当たるざらりとした砂粒のような何か。身体の上に載せられた重たくて硬いこれは何なのか。不意にはっきり目が覚めて、哲はゆっくり目を開けた。

 見慣れたカーテンの隙間から差し込む光が、既に昼が近いことを知らせている。何もかもいつもの風景だが、眼前にある無精髭の生えたむさ苦しい顎は、出来れば朝一番で目にするのは避けたい代物には違いない。
 哲自身は、どちらかと言えば髭は薄いほうかも知れない。毎日髭をあたらなければならない職業ではないというのもあるだろう。毎日剃ると濃くなるというのは誤解で、単に切り口が目立つようになるだけだとよく聞くが、それが本当かどうか試してみたいというわけでもない。結局二日に一遍くらいしか剃らないが、それで伸びすぎたこともなかった。
 秋野も大して変わらないようだから、これだけ無精髭が伸びているということは多分一、二週間かそこらは剃っていないのだろう。

 昨日、というか今日というか、深夜にふらりと現れた仕入屋はげっそりと頬がこけた上のこの無精髭で、まるで犯罪者のようだった。もっとも事実犯罪者なので、この例えは今ひとつ面白くはないのだが。
 最近どういう仕事をしていたのか、姿を見ることが余りなかった。たまにくだらない電話を掛けてくることもあったのだが、二ヶ月ほどろくに顔を合わせていなかったように思う。
 寝ているところを叩き起こされて組み敷かれ、空が白む頃まで盛りのついた犬のように齧り合った。疲労の極にあったと思しき仕入屋は、それでも哲より先に眠った様子はなかったし、だからてっきり帰ったのだと思っていた。
 そんなことを考えながらぼんやり顔を眺めていると、突然秋野の瞼が開いた。濃く長い睫毛に縁取られた薄茶の虹彩が、カーテン越しの日光を複雑に反射する。酒のような薄い色の中に散る濃い金色の斑点が、単純な色彩として美しい。黒い瞳孔が光に窄まり、大型のネコ科動物のような印象が際立っている。
 身体の上に乗っかっていた腕を払い除け無言でその腹を蹴飛ばすと、秋野は顔をしかめて軽く咳き込み、不機嫌丸出しで睨んできた。しかし口は開かずに、疲れたように掌で顔を擦る。立ち上がりざまに肩口を思い切り蹴っ飛ばして布団を出ると、低く喉を鳴らすような唸り声が背後から微かに聞こえた。

 

 大体において、哲は誰かと朝まで一緒にいるということ自体が不得手だ。勿論経験がないわけではないし、単純に自分が心地よいかそうでないかという問題に過ぎないのだが。女ですら正直邪魔臭いと思ってしまうのに、あんなにでかくて物騒なものと爽やかな朝を迎えるなど論外というもので、お陰で寝覚めが悪いことこの上ない。
 シャワーのノズルを持った二の腕に目を落とし、そこに残る赤紫に変色した指の痕に、更に気分が悪くなった。殴られたり噛まれたりして出来た痣はいつも以上に数多く、まったく今すぐ浴室の壁に穴でも開けてやりたい気分になる。
 哲と違って、その気になれば身体に傷などまったく残すことなく相手を痛めつけられるのが仕入屋だというのは知っている。自分のやり方はあくまでもチンピラの喧嘩の域を出ないが、秋野にはそれだけでは済まない何かがある。にも関わらず哲の身体にこれだけ痕を残すのは結局わざとなのだろうし、それが尚更苛立ちと、口では言い表せない興奮を募らせる結果になるのだ。
 一箇所、シャワーの水流ですら痛む痣が肩にあって、思わず独り悪態を吐く。湯気の篭った狭い空間に、下品な単語がこだました。

 

「おい」
 ドアが何度かノックされ、情けない音を立てた。曇りガラスを模した安っぽいプラスチックを透かして、秋野が立っている影が見える。
「あ?」
「髭剃り貸してくれ」
「そこに……あ、こっちか」
 湯を出したままシャワーを壁のフックに掛け、三枚刃の剃刀片手にドアを開けると秋野が仏頂面で立っていた。他人に機嫌の悪いところを見せたがらない男だが、どういうわけか哲に対してはそこのところも惜しげなく披露するのが常だった。もっとも、だからと言って嬉しくもないし得した気分になるわけでもない。意地の悪い喜びは覚えるが、結局後から返ってくる報復を思えば、弄り過ぎるのも考え物だ。
「剃ってやろうか」
 そう思いつつも減らず口を叩くのもまた性格であるから仕方ない。
「嫌だね」
 流れ出る湯気に眉を寄せつつ、秋野は低い声で短く返した。
「人が珍しく親切に申し出てやってんだから有難がれよ」
「気違いに刃物って日本語知ってるか、お前」
 普段のこいつなら鼻で笑ってもう少し気の利いたことを言いそうなものだ。しかし余程疲れているのか、風呂場の段差のせいで同じ高さにある目にはユーモアの欠片もない。それどころか、見つめられるだけで身震いしそうな獰猛な光を湛えている。
 哲は素早く手を伸ばし、通常であればなかなか掴めない襟首を掴むと力任せに秋野の身体を引っ張り上げた。降り注ぐ湯が黒いTシャツに跳ねかかり、秋野は薄茶の目を眇める。
「おい」
 濡れるだろう、と呟く声の響きにうなじの毛が一気に逆立つ。秋野は手を伸ばして蛇口を閉めたが、長い前髪を伝った湯が唇の上に落ち、無精髭の生えた顎を通って床にぱたぱたと滴った。

 秋野の右手がゆっくり伸びて、哲の手の中の剃刀を取り上げた。哲の鼻先に剃刀の刃を突きつけながら顔を寄せ、耳を噛む。
「俺は疲れてるし腹も減ったし機嫌も悪い。大人しくしてないと鼻を落とすぞ、錠前屋」
 柔らかく深い声で囁かれる脅迫、耳を舐める舌の熱さ、剃刀の冷たい感触。そのどれもがばらばらで、それでいてまるでひとつのもののようだ。
「——上等じゃねえか。落としてみろよ、代わりに目玉抉り出してやる」
「目玉ひとつで手に入るなら悪くない」
「ひとつ? 俺はそんなに安くねえぞ」
 秋野の横をすり抜けようと踏み出すと、よりにもよって一番酷く痛む肩の痣を掴まれた。激痛に思わず呻き声が上がる。万力のような馬鹿力で哲の肩を締め上げながら、秋野は相変わらず指先で弄んでいた剃刀を哲の顎に優しく当てた。
 分かってやっているのは知っている。
 どうすればこの男が、素直に刃を引くのかも。
 優しく、壊れ物のように愛されるなど死んでもご免だ。例え誰が相手でも、考えただけで虫唾が走る。どうせなら、傷つけられたほうがいい。優しくでも、酷くでも、どちらでも。剃刀の刃が皮膚を裂くように。

 自分の髭も、面の皮にさえ、大した意味など見出せない。ちくりと感じた切り傷の痛みも、どうせすぐに消えてなくなる。滲んだ血液を舐め取る舌と触れる髭のざらついた感触が不快に神経を刺激して、哲は濡れた頭を犬がするようにぶるりと振った。
「髭を剃れ髭を。痛えんだよ、あちこち擦れて」
 押し退けた身体はすんなりと道を譲り、哲は浴室を出てタオルを掴む。
「哲」
「ああ?」
「剃ってくれるんじゃなかったのか」
 仕入屋は、痩せた虎のようににたりと笑う。
「気が変わった。自分で剃んな」
 吐き捨てて、哲は秋野に背を向けた。浴室に低く響く、喉の奥で笑う声。優しげな響きの奥底でうねる凶暴な本性と衝動の刃。それで傷つけられるのならそれもいい。ただ、黙って傷つけられているばかりと思ったら大間違いだ。
 やさしく傷つけてみればいい。
 お前がつけた傷が頬に残る切り傷なら、俺は致命傷を与えてやろう。
 やさしく、深く。