拍手お礼 Ver1-4

Ver.1

「何でお前の部屋はこんなに寒いんだ」
 呆れたような声に、哲はうるさげに振り返った。
「うるせえなあ、いいだろう、俺の部屋なんだから。お前になんか不利益があるか?」
「今物凄く不利益を被っている」
 秋野はうんざりした顔で、上着のポケットに手を突っ込んでいる。哲はそ知らぬ顔で台所に立つ。ガスレンジの火で煙草に火をつけると、グラスを手に取った。
「大体な、お前が飲もうと」
「言ったけど、それはこんな冷え切った所でじゃなかったんだが」
 哲は無色透明な酒が入った瓶を取り出し、眺め始めた。
「何だったっけな、これ。ジンだったかウォッカだったか……いや、焼酎か?」
 秋野は溜息を吐いた。哲のバイト先の近くに用があったので寄ってみたが、間違いだった。家に帰って一人で飲んだほうがマシだ。いくら雪が降っていないとは言え、気温は低い。暖房器具なしでは幾らなんでも体が冷える。哲の体の構造がどうなっているのか知らないが、よくこんな寒さで平気でいられるものだ。
 秋野の手は既にかじかんだように冷たくなっている。
「まあ、何でもいいか、飲めりゃ。秋野」
 振り返ろうとした哲の首筋を、氷のようなものが覆った。
「ああっ?」
 流石に大声を出した哲の耳元で秋野が呟く。
「うるさい。黙れ」
 氷の正体は秋野の手だった。後ろから抱きすくめられたような格好で、秋野の手は首を絞めるような形で首筋へ回されている。
「冷てえなあ、どけろ」
「寒いんだよ。首筋って暖かいよな」
 哲が身を捩っても、流石に振りほどけない。銜えたままの煙草から灰がひらひらと床に散った。
「床に灰が落ちるだろうが」
 秋野は無言で手を伸ばす。哲の口から煙草を取ると、シンクに放り投げた。
「お前なあ」
 諦めたように呟いた哲は、手に持っていた瓶の蓋を開ける。秋野がほんの少しだけ腕を緩めた。哲は瓶を呷り、ジンか、と呟く。
 秋野の大きな手が首筋の熱を奪っていくのが目に見えるようだ。押し当てられたそれは、ほんの僅か、ぬくもりを取り戻したように思えた。
 片手が場所を変え、哲の頬から耳の辺りを覆う。
「俺が寒くなんだけど」
「知るか」
「暖房費請求するぞ」
「うるさいね、お前。ちょっと黙ってろ」
 秋野の手が温まる頃、ジンの瓶は空き、哲の体はすっかり冷え切っていた。二人が哲の家から出て、近所の居酒屋に向かったのは言うまでもない。

 

Ver.2

 哲は南の島の真っ青な海にいた。
 勤め先の居酒屋の店主が、隣にいる。
 二人とも、店でのスタイルそのままだ。ジーンズの裾を捲くり上げ、足首までぬるい水に使っている。
 親父は透き通った水に屈んで目を凝らしている。
「佐崎、いたか?」
「いや、いないっすね」
 二人は何故かイカを探している。
 イカ。イカって、烏賊か?
「今日はイカ刺しを出すからな、せめて五杯はなきゃ」
 何で南の島で、しかも真昼間に、素手でたった五杯のイカを取る気でいるのか。
 そこまで考え、哲の意識はそれが夢なのだと気付く。そうか、だから俺の視線は俯瞰しているのか、と。
 だが、いち登場人物の「哲」は、真剣な顔でイカを探している。何かが彼の足元を横切った。
「いたかっ!?」
 それは、クラゲだった。まともに掴んで刺された哲の手が痺れ、彼はそれを取り落とした。
「くそ」
「頑張れ、佐崎、次こそイカだ」
 むやみに大声を出す親父に顔をしかめながら、哲はまた水に手を突っ込んだ。
 クラゲ、クラゲ。幾ら手を動かしてもそこにはクラゲしかいない。何度も刺され、痺れに痺れた右手は感覚がない。
 感覚が——。

 薄く目を開けると、暗かった。咄嗟に、どこにいて何をしているのかわからなくなった。
 夢か。
 寝ぼけた頭でそう考え、夢のまま感覚がない右腕にゆるゆると注意を向けた。やけに重い。感覚はないのに、妙な重さ。
 哲の手は、秋野の背中の下敷きになっていた。
 何でこいつがここにいるのかと、覚醒しない頭で必死に考える。飲んだのかも。そうだ、昨日店から貰った酒と、他にも何かを二人で空けたような記憶がある。
 見上げた天井は、秋野の部屋だった。
 そういえば、年末だから、と店の親父がアルバイトに酒を寄越した。
 それは店で仕入れた物の残りで、ある者は焼酎、ある者はウィスキーと、適当に配られたのだ。哲が渡されたそれは、何故かウォッカの大瓶だった。
 それを秋野の家に持ち込んで、男二人、むさ苦しい面を付き合わせながら飲んだのだった。
 それにしても、秋野が床に転がっているのは珍しい。大抵哲をそのままに、自分だけベッドで安眠しているのがパターンだ。
 それでも一応電気だけは消したようで、部屋の中は暗かった。
 昨日は空きっ腹に深酒したせいか、二人ともいつも以上に酔いが早かったようだ。

 その辺まで考えていると、少しだけ頭がはっきりしてきた。
 そうなると、右手の上の重石が腹立たしい。なんとなく嫌な夢を見ていたような気がするのは、きっとこいつのせいに違いない。
 哲は秋野の下から腕を引っ張り出そうとしたが、感覚がなくて力が入らない。最早何も感じないほど痺れてしまっているのだ。
 左手で自分の右腕を掴むと、勢い良く引き抜いた。秋野が小さく、んー、ともぐー、ともつかない呻き声を上げて身動きする。
 哲は仰向けになって持ち上げた腕を見た。
 何ともいえない気持ち悪さが徐々に広がりつつある。あと一分もしないうちに、哲の右腕は猛烈に痺れだすだろう。
 まだ半分以上寝惚けていながらも、その痛みを思って哲は眉を寄せる。
 寝ている時に腕を体の下にしてしまったことは、それこそ数え切れない程ある。
 あれは、なんとも言えない不快感だ。正座して足が痺れる痛みの、何倍くらいか。目が覚めるときは既に限界まで血が止まっているときだから、正座とは比べ物にならない
 秋野が寝返りを打ち、こちらを向いた。何気に目をやると、目がしっかり開いている。
「どうした?」
 ちょっと掠れた声でそう訊かれ、お前のせいだ、とむかっ腹が立った。
「お前が俺の腕を敷いて寝やがるから、痺れたんだよ」
「痺れた?」
「正座して痺れんのと同じだ、馬鹿」
 秋野が、暗い中でも分かるほど、口の端を曲げて笑った。

 寝惚けてさえいなければ、先に蹴飛ばすか、少なくとも避けるくらいはできたのだろうが。

 秋野は大きな手できつく、がっしりと哲の腕を掴んだ。
「——―っ!!!」
 強烈な痺れが走って、声も出なかった。痺れと言おうか痛みと言おうか、痛痒いと言おうか。とにかく気持ちが悪いことこの上ない。
「離せこのくそったれ!!」
 喚いて腕を振りほどこうとしたが、力がまるで入らない。と言うか、暴れると尚更痛む。
 秋野は楽しそうににやにやし、哲の掌を甘噛みした。
 びりびりと、痛みと気持ち悪さと血液が流れる感じがいっしょくたになってそこに集中した。
 うつ伏せになって哲の右腕を抱え込んだ秋野は、楽しそうに言った。
「足が痺れたら、歩くか手で揉むかしたら直りが早いぞ。知ってるか?」
「うるせえっ。痛えから止めろ、馬鹿たれ!!」
 秋野は知らん顔をして、哲のひとさし指を噛み始めた。
「この、秋野、いい加減に」
 噛まれるたびに電気が走ったように痛み、もう何がなんだかとにかく腹が立った。
 反動をつけて、左手で秋野の横っ面を殴り飛ばす。
 秋野が歯を食いしばったので、その時噛まれていた中指に別の激痛が走った。踏んだり蹴ったりとはこのことだ。
 秋野は哲の手を放すと、げらげら笑い出した。何て奴だ。死ね。今すぐ死ね、くそ野郎。

 やっと笑いが収まった秋野は、横っ腹を押さえながら立ち上がった。
「あー笑った」
「お前、人間として何かが間違ってるんじゃねえか」
 憮然として腕をさする哲に、秋野は物騒な笑みを向けた。
「知らなかったわけじゃないだろうに、馬鹿だね」
 哲は鼻を鳴らしてその場に転がった。
 向こうの部屋に行った秋野が枕と掛け布団を投げて寄越す。
 頭に当たった枕に悪態をつきながら、哲は再び目を閉じた。

 

Ver.3

 深夜の訪問者は心臓に悪い。
 誰か知り合いに不幸でもあったか、そうでなければ仕事で恨みを買った何者かの襲撃か。寝惚けた頭に悪いことばかりが浮かんでは、覚醒とともに端から消えていく。
 暗い中で頭を振ると、秋野はベッドから抜け出した。暖かい布団から出るのはかなりの勇気を必要とする。そのくらい底冷えする夜だった。恐らく二度鳴ったチャイムは今は沈黙していて、ドアの向こうに人がいるのかどうかわからない。覗き穴から確認すると、人影は見当たらなかった。
 乱れた頭を掻きながら、念のためドアを開けると、何かが倒れてきた。
「……よう、秋野」
 玄関の三和土に仰向けに転がったまま、哲は青い顔でそう言った。

「哲?」
「多分な」
 玄関に立ったまま訳が分からず見下ろすと、百八十五センチプラス玄関の高さ分だけ下の哲は面白くもなさそうに言う。どことなく顔色が悪いが、他にはこれと言って変わったところはない。吐く息からアルコールが臭うから飲んではいたのだろうが、それ程酔っているふうにも見えない。
「どうしたんだ」
「さあ。朝からちょっと調子悪かったのは悪かったんだけどな」
 何でもないような顔をして、しかし哲は依然として転がったままだ。
「それで久し振りに深酒したせいか、なんか歩けねえ」
 それでよくここまで階段を上がってきたものだ。歩けないどころか起き上がることも出来ない様子の哲を見下ろして、秋野は溜息を吐いた。外はまだ、そして今夜は特に寒い。どこかで行き倒れて凍死でもされなくてよかった、と安堵する。玄関にしゃがむと、哲の顔が近くなった。白熱灯のオレンジの光の下で見ても、顔色が悪いのが分かる。指で頬に触れると、冷たかった。
「悪ぃんだけど、泊めてくれ」
「起きられないか?」
「ああ、もうここでいい、ここで。外でなけりゃどこでもいいんだ」
 哲は億劫そうに首を振ると、体を横向きにした。放っておけば本気でここで寝る気だろう。しかしそれではさすがに気になって秋野のほうが眠れなくなってしまう。朝目覚めたら玄関に死体など、洒落にならない。
「せめて起き上がれよ。冷たいだろうに」
 秋野が言うと、哲は押し出すように呻き声をあげながらようやく体を起こした。正座する形になったのも束の間、体を支えられないと見えてがくりと体を折り曲げ、両肘をコンクリートの床についてしまう。
「くそったれ」
 馴染みの悪態は、今回ばかりは秋野ではなく自分に向けられたもののようだった。秋野はちょっと笑うと、哲の脇の下に両手を入れて持ち上げ、素早く手を換えると横抱きにした。世の中ではお姫様抱っことか言うやつで、花嫁が憧れるあれだ。
 しかし秋野の腕の中の哲はお姫様どころか盗賊も驚くほどの剣呑な目つきで、すぐ上にある秋野の顔を睨んでいる。その視線で人が殺せるなら、秋野はこの短時間に二回程死んでいたに違いない。
「おい、降ろせ。俺は荷物じゃねえ」
「わかってるわかってる。こんな物騒な荷物があってたまるか」
 秋野はそういいながら正に荷物のように哲を抱えて寝室に入った。立てないほど具合が悪いくせに十分喧嘩腰の哲の口から、不本意だ、と言わんばかりの唸り声が漏れる。
「最悪だ」
「何が」
「全部だ、畜生」
 哲は見下ろす秋野を憤懣やるかたないと言った様子でねめつけている。
「介護されてる爺の気分だな」
 低い声で吐き捨てるが、暴れはしない。余程気分が悪いのだろう。本来なら手なり足なり飛んでくるところで、それがないと寂しく感じる自分は末期だ、と秋野はしみじみ思ったりした。落とさないようにベッドに横たえるとしかめ面がますますしかめられた。赤ん坊を風呂に入れるように頭を支えて枕の位置をずらすと、さすがに手を払いのけられる。
「自分で出来るからやめろ、ガキじゃあるまいし」
「いいだろう。たまにはこういうこともやってみたいね、俺は」
「俺はされたくねえ」
「少し黙れ、哲」
 秋野の手で頬を撫でられ、煩そうにしながらも哲は息を吐いた。秋野がついさっきまで寝ていたから、まだ十分暖かいはずだ。ずっと前に風邪をひいた秋野のところに哲が来たことがある。そのことを何とはなしに思い出し、秋野は頬を緩めた。あの時秋野は自分で立って歩けたから、状況はまったく同じとは言えないが。
「俺がここで寝たらお前どうすんだ」
 哲が辛そうに掌で顔を覆いながら訊いてくる。
「ソファで寝るさ。それとも添い寝して欲しいか?」
「勘弁してくれ……。ますます具合が悪くなる」
「折角お前がこんなに弱ってるんだから、どうにかしてやりたいのは山々だがね」
 秋野がにやりと笑うと、哲はうんざりしたような顔をした。
「死ね」
「死にそうなのはお前だろうに、馬鹿だね」
「お前のところになんか来るんじゃなかった」
「まあそう言うな」
 哲の唇は冷たく、酒と煙草の臭いがした。弱々しく、それでもしっかりと殴られ、秋野は思わず笑った。
「くそったれ」
 今度こそ紛れもなく自分に向けられた悪態に、秋野は目を細める。
 煙草を一本吸って水を飲み、様子を見に戻ると哲は眠っていた。眉を寄せ、苦しそうにしていながらも呼吸は深く、規則正しい。
 どんなに弱っていても助けてくれと言わないのは意地ではなくて、ただ単に哲はそういう人間だということだろう。この先どれくらいの時間を過ごすのかまるで分からないが、哲の口から助けを求める言葉が出ることはきっとないに違いない。お前のためにできることなら何でもしてやるのに、勿体ない話だよ、まったく。秋野は一人、薄く笑った。
 目の下の血管が青く浮いたような哲の顔をじっと眺める。秋野は屈み込んでその煙草臭い髪に口付け、部屋を出た。

 

Ver.4

 名前を呼ばれるのは好きだ。
 腕に抱いた女に呼ばれるのはいい。やたらでかい声で喘がれたりイクとか何とか連発されると鬱陶しくて興ざめだが、掠れる吐息に自分の名前が絡むのは悪くない。

 苗字で呼ばれると、教師の顔ばかり思い浮かぶ。殆ど交流はなかったが、怒鳴られることは多かった。もっとも大抵は、こっちの手が届かない遠くから、ではあったが。
 父親や祖父が呼ぶ名前も、好きだった。大して優しくもなく飲んだくれだった親父でも、虐められたことはないし結局いつまでも親は親だ。祖父は随分と可愛がってくれたし、悪い思い出は別にない。

 二つの音で事足りる名前のせいか、殆どの人間が彼を名前で「哲」と呼ぶ。
 自分の名前は嫌いではない。取り立てて愛着があるというわけでもないが、ないとも言えない。産まれてこの方ずっとそうだったのだから、当たり前と言えば当たり前だ。

 低い、柔らかい声が名前を呼ぶ。それは時に脅すように、確かめるように囁かれる。

「哲」

 ゆっくりと、たった二つの音が酷く丁寧に発音される。
 普段はごく普通に呼ぶくせに、時折思い出したように呟くその口調。掠れたように、それでいて耳に響く独特の声。
 心地よさに身を委ねたりはしない。そう思わせる声ではない。
 優しささえ感じさせる柔らかな口調に、構えてしまうのは必然だ。その本性は優しさとは程遠く、眇められた薄茶の眼は寒気すら覚えさせる。

「哲」

 耳朶を噛みながら、睦言のように囁かれても。

「哲」

 吐き出す息に混じる名前がどれほど柔らかく聞こえても。

「——哲」

 それらは結局まやかしでしかない。湧き上がる欲望は愛欲ではなく食欲にも似て、必要であるから求めるだけの、だからこそ飢餓感を伴う強い衝動。

 もう一度呼べ、と。
 口には出さずに呟いてみる。
 そんな呼び方ではなくて、唸りと呻きと咆哮の中に俺を呼べ。
 剥き出した牙の隙間から、軋る奥歯の間から、しゃがれた声で俺を呼べ。
 そうでなければ、応える気すら失せていく。

 名前を呼ばれるのは好きだ。
 秋野が、獰猛な本性そのままに、絞り出すように呼ぶならば。