2018-2019 年末年始仕入屋錠前屋

 大晦日と言っても、特段変わったことはない。
 休みになる企業や店も多いのだろうが、秋野の取引先には定休日などないから、秋野にとっては普段どおりの日だ。
 仕事を終えて外で飯を食い、部屋に戻って数時間。そろそろ寝るかと思ったところで、中二階のドアをガンガン蹴っ飛ばす音がした。
 大晦日だろうが正月だろうが、そういうことをするのは、秋野が危ない消費者金融で借金でもしない限り一人だけだ。
「よお、仕入屋ぁ」
「酒臭い」
 秋野は一旦開けたドアを勢いよく閉めた。
「……ああ……?」
 ドアの向こうで不穏な唸り声がする。
「おい、閉めてんじゃねえぞ!!」
 腹の底からの怒声とともにすごい勢いでドアが蹴飛ばされ、恐らく錯覚なのだろうが、秋野にはドアが枠ごとしなったように見えた。
「開けろコラァ!!」
 まるで借金の取立屋だ。居酒屋を辞めたらそっちに就職したらいいんじゃないか。
「お前ね、ドアが壊れるだろう」
 溜息を吐いてドアを開けると、錠前屋が倒れ込んで来た。予想外だったので危うく受け止め損ねたが、まあ、落っことしたところでどうせ石頭だから大事はない。
「お前、一体どれだけ飲んだんだ……」
「分かんねー」
 だらしなく語尾を伸ばした哲が真っ直ぐ立とうともがき、勢いよく身体を起こしたのであわや顎に頭突きを食らいそうになった。
 まったく、勘弁してくれと思いながら手を伸ばしてドアを施錠し、哲を引きずるようにして移動する。
「自分で歩ける!」
「ああ、そうだな」
「何だてめえそのガキをあしらうようなそれ、ああ?」
「はいはい、何だよ、珍しい酔い方してるな」
「うるせえもう、シャワー浴びるから離せ!」
「シャワーな、承知しましたよ」
 ほとんど丸太みたいな状態の錠前屋を脱衣所に押し込んだ。服くらい自分で脱げると言うので、とりあえずコートだけ預かった。
 大丈夫だと思うが、念のため煙草を一本吸って様子を見に行ったらちゃんとシャワーの水音がする。バスルームのドアを透かしてぼんやりとシルエットが見え、立って動いているのが確認できたので部屋に戻った。後は好きにするだろう。
 ベッドで寝ろと言ったってどうせ聞かないのだから、哲を待っている意味はない。秋野は照明を一段落としてさっさとベッドに潜り込んだ。

 あたたかい感触に目を覚ますと、哲が秋野の顎の下に潜り込むようにして眠っていた。
 照明はさっき秋野がいじったまま、全灯ではないがそれなりの明るさのままだったので、哲の顔ははっきり見えた。
 哲がベッドに入ってくるのも稀なことだが、こんなふうにくっついてくることも普段はない。可愛いとか嬉しいとか思うのが当然なのかもしれないが、それよりも、もしかしてシェイプシフターか何かではないのかと疑ってしまう。
「……哲?」
 上体を起こして覗き込んでみる。不機嫌そうな寝顔は間違いなく哲のものだ。もっとも、哲の皮を被っているなら顔が違うはずはないが。
 一旦ベッドを抜け出して用を足し、戻ってきたら哲が目を開けていた。
「大丈夫か?」
 哲は若干酔いが残っているような、そうでもないような顔をしていた。もしかすると酔っ払っていたせいでうっかりベッドに入ってしまったのかもしれないが、脱け出そうという素振りは見せなかった。
「今日は高校の同級生と忘年会だったよな?」
 哲の目にかかった前髪に手を伸ばしたら、歯を剥いて唸られた。ようやく本物の錠前屋だと実感して、馬鹿みたいだが安堵する。
「……ああ」
 哲の声は酒のせいか酷く掠れていた。
「そう、高校んときの奴らと──」
「ただ飲み過ぎただけだっていうならそれでいいが」
 秋野ほどではないが哲はかなり酒に強い。だから滅多に酔っ払わず、酔ってもあまり変わらない。度を超すと腰が立たなくなったりはするが、あんなふうになるのはあまり見たことがなかった。
 飲んだ酒が悪かったのか、気持ちの問題なのか。
 哲は普段どおりの剣呑な目つきで秋野を見ていたが、ふと視線を逸らして手を伸ばした。秋野の手を取り、掌に頬を寄せ甘える猫のように擦りつけた。
「──どうした?」
「別に」
「別にじゃないだろう」
「久しぶりにこっち戻って来た奴が、安田の動画……懐かしいからみんなで見ようってな」
 掌に哲の吐息が触れる。声はまだ低く掠れていて、落とした照明のせいか違うのか、哲が包まる掛布団の中に吸い込まれて行くように頼りなかった。
 安田というのは哲が高校時代につるんでいた友人で、数年前に自殺した。その時の哲のことを、秋野は今でも思い出せる。
 悲しみよりも悔しさで蒼白になっていた哲。死んだ友人の額の温度を忘れたくて、秋野に縋りついてきた。
「安田が死ぬ前の正月に帰省したときにそいつの実家に何人か集まって撮ったやつなんだってよ。安田は酔っ払って、鏡餅の水引とか頭につけて、阿保みてえにはしゃいでた。すげえ楽しそうに笑って」
「そうか」
「俺は別に──」
 哲はそこまで言って口を噤み、秋野の手を押しやった。仰向けになって天井を眺めながら、また続ける。
「すげえ悲しいとか……いつも思い出すとかそんなんじゃねえんだ」
 右手を顔の前にかざし、自分の掌をじっと見つめる。あれから何年も経って、それでもまだ、そこに友人の体温が残っているかのように。
「大晦日とか正月なんて何するんでもねえし、いつもと変わらねえ日常だよな。けど──そこにいる奴といねえ奴がいて……何言ってっかわかんねえな」
 掌を握って拳にすると、哲はそれを額に当てて目を閉じた。
 手を伸ばし、肩を掴んで抱き寄せる。哲はおとなしく身体の向きを変えた。そうして秋野の首筋に鼻先を擦りつけていたかと思ったら、唐突に思い切り噛みついてきた。
 力強い顎が秋野の肉を銜え、ぎりぎりと歯が食い込む。腹を空かせた野犬みたいな錠前屋の熱い息で肌が湿った。
 痛みはあるが、どうでもよかった。首筋に食いつく獣みたいな男の頭を抱えて頭のてっぺんに口づける。洗い髪はシャンプーが微かに香って、ふわふわしていた。
 哲の掌が、秋野の背に回って縋りつくように抱いてくる。泣けないなら、泣く事ではないが辛いというなら、そうやって吐き出せばいい。
 そうしていつの間にか眠っていた哲を抱き締めたまま、秋野は小さく微笑んだ。
 大晦日、正月。何と呼ばれようが続いていく時間には変わりがない。腕の中で眠る男が、継続するその時の中に存在すればそれでいい。
 何年何月何日何曜日、例えいつであっても。
「……来年もよろしくな、俺の錠前屋」
 答えるはずもない男を抱え直し、秋野はそっと目を閉じた。