拍手お礼 Ver.20

 床に頬をつけていると、普段は見えないものが見える。
 小さなごみとか、床の傷とか。
「あー、ライター発見」
「ん?」
 秋野が煙草を銜えたまま、少し籠った声で返す。
「ライター落ちてる」
「どこ」
「そこの——そこだって。ソファの下」
 哲は腕を持ち上げ、ライターの転がる辺りを適当に指差した。
「ここか?」
 視界に秋野の足が登場し、指先がライターを拾い上げるのが目に入った。
「お前のだろ」
 目の前に、真っ青な百円ライターが転がった。持ち上げていた腕を下に下ろす。それだけで腕と肩に痛みが走った。
「俺の? 何で」
「この間俺にぶつけたやつだろ、それ」
「いちいち覚えてんのかよ、んなこと。つまんねえことに脳使ってんな、お前」
「使わんと勿体ないだろう。たくさん詰まってんだから」
「おーおー、重たい頭で結構ですねえ」
 ライターを摘み上げ、何の表記もないそれを眺めてみる。なんとなく自分で買ったもののような気もしたが、はっきり思い出す前に脇腹に痛みが走り、哲はひとしきり文句を垂れた。

 何がどうなってこの男にここまでいかれたのか、自分のことながら哲にはよく分からない。いかれてる、なんて表現すると惚れているみたいだが、そういうわけでもないのが我ながら面倒くさい。面倒くさいのは嫌いだから、正直それだけでその辺の誰かを殴りつけたくなるくらいだ。
 好きとか嫌いとか、必要だとか不要だとか、大事とかそうでないとか、恋愛だとか違うとか。
 その手の質問は周囲の人間にされ尽くしたし、自問自答にもとっくに飽きた。理由なんかどうでもいいし、秋野がどう思っていようとそんなことに興味はない。
 ただ、この男がこの男であることが重要なのであり、他の誰かでは代用できないということだけが事実だと思う。
「あー痛え。本気で殴っただろ、クソ虎」
「本気ならお前の頬骨は陥没してる」
 しれっと言って、秋野は床に転がる哲に煙を吐きかけた。
「くそったれが」
「褒め言葉と思っとく。起きろよ、錠前屋」
「くたばれ」
「くたばってるのはお前だろう」
 足の先でつつかれて、哲は呻きながら身体を起こした。
 服の上からいくら凝視しても、どれだけの痣ができたかは見えてはこない。見えはしないがあちらこちらで存在を主張する鈍痛から、それがどこにあるかということだけは分かったが。
「うあー、ひっさびさにボコられたな」
「俺も久し振りにそこそこ真面目に殴ったぞ」
「それ、自慢なのか」
「自慢することか?」
「知るかよ、くそ、痛えな」
 舌打ちし、頭を振る。こめかみを強打したり、後遺症が残るようなことはされていないとはいっても、やはり多少はふらふらした。
 きっかけなんてなんでもいい。
 哲は殴りたかったし、秋野は殴り返す気になった。
 数限りなく繰り返されてきたくだらない暴力行為だが、これだから、哲は秋野といることをやめられないのだ。
 被虐趣味はないし、痛いのは嫌いだ。殴るのは好きだが、殴られるのは好きじゃない。それでも、殴り、蹴り、噛みつき肘でどつき合うのは何より楽しい。暴力を振るっているときに感じる高揚感に代わるものを上げるとすればただひとつ、解錠しているときの感覚だけだ。
 自分より弱い者を殴ったところで何一つ楽しくない。その一点に限っても、秋野の存在は哲にとって貴重なのだ。
「あれ、煙草」
「そこ」
 秋野の足が煙草のパッケージを指す。多分自分が乗っかったのだろう。それは平たくなっていた。
「……吸えっかな」
「無理じゃないのか」
「折れてなけりゃ……うわ、無理」
「ほら」
 歩み寄ってきた秋野が腰を屈め、手に持っていた煙草を哲の唇に突っ込んだ。銘柄が違うと吸った気がしないとかよくいうが、哲に関して言えばニコチンなら何でも同じだ。好きな銘柄はあるが、別に絶対というわけではない。
 吐き出した煙が部屋の壁を這い上がるように上っていき、蛍光灯にまつわりつくように天井付近に溜まる。ふとフィルターを見たら血がついていた。口の中を切ったかと思ったが、痛みはない。目を上げて秋野の顔を見ると、唇に赤く腫れた傷がある。
「切れてんぞ、口」
「知ってるよ。お前だろ」
「はあ? 口殴ったっけ」
「いや。顎に頭突きされたときに噛んだ」
 しかし、目に見える傷はそこだけで、相変わらず悠然としているのに変わりはない。あれだけ暴れておいて、服には特別皺もない。さすがに前髪は乱れているが、それだってさっきまでを見ているからで、乱れている、というほどのこともなかった。
「そりゃどうも、すみませんね」
「全然感情が籠ってないよ、お前」
 秋野は笑い、哲の指から煙草を取った。新しいのを吸えばいいのに、と思って見上げると、どうやら顔で通じたらしい。パッケージを投げて寄越したが、空だった。
「しけてんな」
「まあな」
 煙草を挟んだ指が近づいてくる。秋野の吐いた煙が丁度哲の肩のあたりにわだかまり、細い糸のように絡まり合ってまた解ける。手を差し出したらやんわりと払い除けられ、隣にしゃがむ秋野が差し出す短い煙草が、唇に押し当てられた。
 一口吸いつけ、絶妙なタイミングで僅かに引いた指を避けて煙を吐く。離れていくかと思った手は、煙草と一緒にそこに留まった。哲は唇に触れるフィルターを銜え、歯の間から煙を押し出した。
「お前は吸わねえのか」
 くぐもっておかしな声が出た。黄色く見える薄茶の目が細められ、突然がしりと顎を掴まれた。
 余計なことを訊いた、と思ったがもう遅い。
 煙を吐き出しきっていない口に秋野の口が覆い被さり、すべてを喰らい尽くそうと襲い掛かる。無理矢理重ねられた唇の隙間から薄い煙が僅かに漏れた。
 もがき、圧し掛かってくる胸を押し、あちらこちらが痛む身体をおして反撃する。秋野の唇の傷に歯を立てて噛み締めたら、煙草を持っていない方の手の甲でしたたかに頬を張られた。
「痛えな!!」
「俺だって痛い」
「うるせえ、さっきさんざっぱら殴ったろうが」
「——足りないんだよ」
 そうだ。
 俺だって足りない。
 秋野が煙草を揉み消したらしく、火種が消えるごく小さな音がした。
 煙草臭い指先が頬骨の痣を強く押し、痛みと怒りに噛み締めた奥歯が軋む。力ずくで仰のかされ、強制的に舌を受け入れさせられて咳き込んだ。
 不満と満足、狂おしい程の興奮と憤懣、抗うべきだという衝動と屈してしまいたい衝動。腹の底から湧きあがるそれらは相反してもすべてが確かに存在し、眼球の裏側を痺れさせた。

 床に頬をつけていると、普段は見えないものが見える。
 小さなごみとか、床の傷とか。
 目の前に落ちている自分の血の滴だとか。
「お前は本当に懲りない奴だな」
 反抗して暴れた挙句最後にはまた殴り倒されて床を眺める羽目になり、哲はうう、と低く唸った。
「うるせえな」
 舌を噛んでしまったせいで、口の中が金気くさい。唾を飲み込み、掌で床に垂れた小さな滴を拭い、どうせ秋野の部屋なのだから拭いてやることなどなかったと思って後悔した。
 シャツの袖で口元を拭いながら身体を起こす。さっき同じことをした時に比べ、痛む箇所が格段に増えていた。
「駄目だ、痛え」
 呻きながらもう一度倒れ込み、床の上に転がった。仰向けになり、溜息を吐く。煙草をくれと言いかけたが、秋野の手持ちもなくなったことを思い出して溜息を吐いた。
「煙草吸いてえ。腹減った」
 秋野の笑い声がして、高いところに顔が現れた。地面から眺めるそれはやたらめったら遠くに見える。
「起きろよ。飯食いに行こう」
「無理」
「そうか、俺に抱きかかえられて行きたいんだな」
「腰痛めるぞ、おじいちゃん」
「減らず口ばっかり叩いてると買ってきてやらんぞ」
 笑い声とともに秋野の顔が視界から消え、ドアが閉まる音がした。
 煙草と飯を調達しに行ったのか。本当に抱えて連れ出されるとは思っていないが、相手は仕入屋、油断は禁物だから正直ほっとした。
 痛む身体に鞭打って身体を横にし、殴られて熱を持つ頬を床に押し付けた。鈍い痛みを僅かに和らげるフローリングの感触に、思わず小さな溜息が漏れる。そのままぼんやり辺りを見ていると、いつ手から離したのか、またもやソファの下に入りこんでしまった真っ青なライターが目に入った。哲は少し考えて、ライターから目を逸らした。
 ライターなんてどれでも同じだ。そのへんのコンビニで買った青いライター、愛着もなければ惜しくもない。代わりのきかないものなんてそうそうない。少なくとも自分にとっては。
 ぎしぎし音を立てそうな身体を叱咤して、ジーンズのポケットに手を伸ばす。鎖骨の辺りが悲鳴を上げたが、どうにかこうにか携帯を取り出した。
「どうした」
 この声のせいもあるかも知れない。
 どうでもいいことを考えながら目を閉じる。
「哲?」
 それから、あの薄茶の目と。
「ライターも」
「はいはい」
 さっきのはどうしたと問われることもなく通話は切れ、哲は携帯を閉じて床に放り出した。
「あー腹減った。煙草吸いてえ」
 呟き、仰向けになって嘆息する。
 まったく、どうしようもないなと思いながら。

 早く秋野が戻ってくればいいと思いながら。