拍手お礼 Ver.19

 随分間の抜けた声だ、と思って振り返ったら、哲は鼻を押さえて呻いていた。
「何だ」
「鼻血」
 脳内で漢字に変換したが、実際に耳に届いた音は「はだじ」に近い。
「逆流する」
 低い声で文句を言いながら起き上がり、鼻に当てた手の甲を外す。鼻腔から真っ赤な血が滴り、哲の腿の上に点々と散った。
「うわ、やべ。ティッシュ取ってくれ、ティッシュ」
「別に慌てることないだろ。ちょっと待て」
 秋野は吸いかけの煙草を灰皿の縁で軽く叩き、灰を払った。掌で顔の下半分を覆った哲が忌々しげな視線を寄越す。
「汚れるだろ、そのへんが」
 籠った声がそう言ったが、そのへん、の所有者である秋野にとってそんなことはどうでもよかった。床に落ちたら拭けばいいし、布についたら洗えばいい。取れないくらいの染みになったら、捨てればいいのだ。
「取りに来れば」
「動いたら垂れるだろうが」
「じゃあ待ってろよ」
 目の前にあるティッシュの箱をぼんやり眺めながら煙を吐き出す。哲が不満げに唸ったが、おかしなところで律儀な錠前屋は、その場で大人しく鼻を押さえていた。
「何で今頃?」
 恐らく、鼻血の原因は秋野の拳だ。確かに哲の顔を殴った。言うまでもなく殴り返されたからお互い様だ。だが、少なくともあれから一時間は経っている。ついでに言えば、殴った時はまだ服を着ていた。今更切れるあたり、丈夫な毛細血管である。
「うるせえ。文句あんのか」
 鼻水を啜るような音と悪態を一緒に漏らし、哲は凄みのある目付きでこちらを睨む。
 髪は寝乱れ、素っ裸。そんな格好で鼻血を垂らす間抜けな姿だというのに、これだけ迫力のある人間も珍しい。
 秋野が一歩近寄ると、哲はベッドの上で後ずさった。
「ティッシュ」
 血に濡れていない左手を差し出し、断固とした声を出す。
「舐めんなよ」
 以前、哲の鼻血を舐めてきれいにしてやったことがある。他人の血液はそれが例え哲のものであっても正直気色悪いが、あまりに嫌がるのが面白いから、多少の不快感は無視できた。体液を飲み込むのも血液を飲み込むのも、別に秋野のしたいことリストには入っていない。だが、体液——何とは言わないが——に関してはどうでもよさそうな哲が、鼻血に関してはやたらうろたえるのが楽しくてならなかったのだ。
 そんな秋野の内心は先刻承知とばかりにこちらを一瞥し、放ってやったティッシュの箱を受け取って、哲はまとめて取り出した紙を鼻に当てた。
「くそ、むかつくな」
「何が」
「何でてめえは鼻血のひとつも出ねえんだ」
 そう言ってこちらを睨む哲の頬骨のあたりは赤く腫れている。秋野の拳が当たった痕。その痕をつけた直後、秋野の脇腹に哲の爪先が痣を残した。
「いい男に鼻血は似合わんだろう」
「抜かせ」
 鼻で笑った哲が、一瞬後に妙な顔をする。多分、勢いで血が垂れたのだろう。
「鼻血が出てるのに鼻を鳴らすな」
「うるせえなあ、いちいち!!」
 ティッシュの箱が飛んできて、秋野の剥き出しの腰に当たった。別に痛くはなかったが、紙箱の角が皮膚を擦って長くて細い引っかき傷をつける。煙の筋のようなその傷を見下ろしながら床に転がった箱を拾い、秋野は煙草を揉み消した。
「止まったか」
「多分」
 哲が赤く染まったティッシュを持ち上げ、顔をしかめる。
「あと二、三枚くれ」

 投げつけた箱を反射的に避けた哲が一瞬無防備に身を反らす。足首を掴んで思い切り引き摺り寄せたら、哲の身体の下でシーツがぐしゃりと固まった。
「てめえ!!」
 腹の底からの太い怒声と、拭き取り切れていない赤い血痕。そんなものに欲情するのは、多分頭のネジが一本飛んだ自分だけだろう。
 きれいに拭けよ、と囁いて、鼻の下に舌を這わせる。一瞬身体を強張らせた哲に圧し掛かり、乾きかけた血の汚れを舐め取った。
「止めろ! まったく、この変態が!」
 確かに少々変態的だと思わなくもないが、本気で嫌そうに身を捩られると何が何でも止めたくなくなるから仕方がない。
「秋」
 上唇の上を丹念に舐め、文句を言いさした口を右手で塞ぐ。
「————!!!」
 掌の下で哲が何か喚いている。多分、秋野を口汚く罵っているのだろう。こめかみに浮いた青筋が、ちっとも、まったく可愛くない。
 抵抗する身体の下腹と腿に散った紅い滴。もがく身体を押さえ込み、至るところに散った鼻血を丹念に舌で拭う。強張った内腿に浮き上がる太い筋が哲の憤懣を如実に表しているようで、秋野の頬に笑みが浮かんだ。
 筋を断ち切るように、がぶりと噛みつく。哲の身体が飛び跳ねて、何とか蹴りを繰り出そうと、骨ばった脚の筋肉が収縮した。
「あんまり俺好みの可愛いところを見せるなよ。食っちまうぞ」
 掌を外した瞬間、哲は下品極まりない語彙を駆使して、大声で秋野を呪う言葉を吐いた。
「お前は血の気が多すぎる。少し抜いとけ、錠前屋」
 秋野は喉の奥を鳴らして笑い、押し上げた哲の膝の裏、柔らかい肉に躊躇なく歯を埋めた。