拍手お礼 Ver.16

Ver.16 仕入屋錠前屋×嘉瀬佐宗 1

 今日はラッキーだ。
 一瞬前までは不機嫌もいいところだったが、一転自分の幸運に感謝しつつ、哲は声の方に足を向けた。
 耳に馴染んだそれは、明らかに誰かが誰かに絡んでいる声だ。所謂因縁をつける、というやつであるが、今の哲にとっては女の囁く甘い言葉より余程魅力的だった。
 自ら面倒事に巻き込まれるのは好きではないが、喧嘩となれば話は別だ。相手が警察とかヤクザとか、または老人や女子供でない限り、三度の飯より好きだと言ってもいい。ずっと飯を食わなければ死んでしまうから最終的には飯のほうが大事だが、三日くらい食わなくたって死なないから、目の前に二つ並べられたら、取り敢えず喧嘩を取る。
 おまけにさっきまで酷く腹を立てていたから、殴る相手がいるのは大歓迎なのだ。ドアや電柱を相手にするという手もあるが、ドアは殴り返してこないからつまらない。
 人間なら全員が全員殴り返してくるわけではないとは言え、聞こえてくる品のない台詞を聞く限り、この男——複数かも知れないが、だったら尚いい——に関しては杞憂だろう。
 丸々太った獲物を前に舌なめずりする狼のような表情を浮かべ、哲は声のしてくる方へ、薄汚い路地を曲がった。

 

 まったく、どれだけついてないんだか。
 佐宗は凄む男の胸のあたりをぼんやり見ながら、盛大に溜息を吐いた。内心で。
 実際にそうしたら、男の気に入るとは思えなかったからだ。必要以上に下手に出るつもりはないが、何しろ相手は三人いるし、生意気な口を聞いたところで仕方がない。殴り合いの喧嘩など、小学生の頃以来ご無沙汰なのだから。
「どうしてくれんだよ、骨が折れてたらよ!」
「そうですね」
「だからぁ、誠意を見せろって言ってんだよ、俺はぁ」
 誠意と財布は同義かよ。まあ、それはそうか。
 一人急いで歩いていたのは、客との打ち合わせが延び、嘉瀬との待ち合わせに遅れたからだった。
 客先の担当者とお互い一歩も引かない構えでやり合って、しかし結局はこちらが折れた。金をもらう立場というのはなかなか辛い。それでも客には最大限譲歩してもらったが、鬼部長は気に入らないだろう。
 不可能を可能にしろとは決して言わない分別があるものの、それでも可能な限りの勝利を求めるのが、我らが部長。そういうところは本当に容赦がないのだ。
 嘉瀬にどうやって説明すれば一番いいか、客に提案するときより真剣に悩んでいたから、正面から歩いてくる男に気付くのが一瞬遅れた。肩先がぶつかり、地面に落ちたのは佐宗の鞄。痛え、と声を上げたのは男の一人。にやけた顔は、痛くも痒くもなさそうだった。

 

「遅いですね」
「遅いな」
「遅い」
 騒々しい中、ごく近い距離で声が重なった。

 小さな丸テーブルは男なら三人座ればいっぱいである。狭くてうるさい店内は酷く混み合っていて、客の殆どは男同士だ。ほんの何組か女性のグループがいるが、カップルは目につかない。大きなスクリーンに映っているのがボクシングの試合だからだろう。
 ここは所謂スポーツバーとかスポーツカフェとか呼ばれる店だが、ベルギービールで売っている店でもある。それに加えてスクリーンに大写しになる種目が日によってまったく違うせいで、客層も日毎に変わる。サッカーの国際試合か何かの時には店内の半分くらいが女性になるが、酒を飲みながら殴り合いを見ようというのは圧倒的に男が多いし、おまけにこの階級には、バラエティ番組に呼ばれるようなスター選手はいなかった。
「遅いですね」と発言したのはこの店の店員である。彼は、彼の同級生であるところの佐崎哲を待っている男に話しかけた。佐崎とは高校時代一緒に悪さをした仲間で、ものすごく親しい、というほどではないが、年に一回しか会わないというほど疎遠でもない。彼自身は専門学校を出てSEになったが、性に合わなくてすぐに辞めた。それ以来色々な職に就いていたが、ここ数年はこのバーに居ついている。何と言ってもオーナーが従兄弟なのだから居心地がいい。
 それはともかく、彼の目の前の男は、佐崎と一緒に何度か店に来ていたから、今日も佐崎を待っているのか訊いてみた。そうだというので何となく気にしていたのだが、約束の時間を過ぎても佐崎は一向に姿を表さない。一旦喧嘩が始まればとんでもなく凶暴になるが、そうでないときの佐崎は案外真っ当で、約束をしたら時間を守る。勿論、喜び勇んでやってくることはまずないが。
「遅いな」
 だから、男がイラつくでもなくゆったりと言った時、同時に聞こえた声につい反応してしまった。
「遅い」
 それは完全に独り言だったが、隣のテーブルだったのでよく聞こえた。
 彼は佐崎の知人と同時にそちらに目を向けた。
 独り言の主は視線に気づいたのか、腕時計から目を上げた。独り言が少々大きめの音量だったことに思い至ったのか、苦笑して会釈を寄越す。
「そちらも待たされてらっしゃるんですか」
 佐崎の知人が礼儀正しく声をかける。
「ああ、まあ。そんなに長いこと待ってるわけじゃないんですが、仕事の結果を持ってくるんで気が急いて」
 明らかに仕事帰りのサラリーマンだが、身に着けているものから中身まで、女が涎を垂らしそうだ。この二人が同じテーブルについていたらさぞかし女どもの目を引くだろうと思ったが、店内は男ばかりで、誰もこちらに注目はしていなかった。
 二人とも憎らしいくらいいい男だが、残念ながらこの店に座っている限り、熱い視線をその身に受けることはなさそうだ。

 

 いずれ財布を出さねばならないのは分かりきっていた。
 しかし、タイミングというものがある気がして、佐宗は男たちがごちゃごちゃいうのに付き合った。肩を小突かれ、そろそろ大人しく金を出すかと思った時、その男が現れた。
「あーあ、三人がかりでみっともねえなあ」
 正義の味方気取りの人間は嫌いだ。嫌いだが、今の状況を考えると歓迎すべきなのは間違いない。だが、残念ながら彼は間違っても正義感からこの場に現れたのではなさそうだった。
「なあ、お兄さんたち、俺と遊ぼうぜ」
 煙草を銜えた口元がにいっとつり上がって笑みを浮かべる。
 正直、三人の男に連れて逃げてくれと頼みたくなるような顔だった。本気で怒った嘉瀬も迫力があり、テキ屋を泣かせたというのも頷ける。だが、これはそういうのとは次元が違う——テキ屋が泣きながら命乞いをする顔だ。
 カツアゲ男三人組は血のめぐりが悪いのか、男の台詞にどっと笑った。それとも目が悪いのか。
 銜えた煙草を上下にゆっくりと揺らしながら、男は佐宗を上から下まで眺め、興味なさそうに目を逸らした。多分、年齢は同じくらいだろう。細身のカーゴパンツに紺のパーカーという格好だから一見若いが、その眼付は何故かやたらと老成して見えた。
 三人組のありきたりな威嚇に男が低く、小さく笑う。携帯灰皿を取り出し煙草をねじ込む男の手元。手の甲に浮いた太い血管が、表通りから漏れるネオンに青く浮き上がって見えた。
 何が起こったか今一つ把握できず、佐宗は口を開けて突っ立っていた。三人がそれぞれ男に向かって行った。三対一なのに数を恃んでいるのは明らかだ。その結果三人が男に倒されたのは理解できたが——一人残らず大の字になって、地面に転がっているのだから——その詳細がよく分からない。
「ああ、畜生、手ごたえがねえったら」
 紺のパーカーの男は至極残念そうに言って、首を振った。
「これじゃドアと変わんねえっての」
 意味の分からないことを言い、突っ立つ佐宗に顔を向ける。先ほどまでの怖いほどの迫力はどこかに消え、そこにはつまらなさそうな表情があるだけだった。
「横から手ぇ出して悪いね」
「……そんな。ありがとうございます」
「いや、純然たる楽しみのためにやっただけで、あんたのことなんかどうでもいい。勿体ねえから、礼なんて言わないほうがいいんじゃねえの」
 そう言って、男はさっさと踵を返し、視界から消えた。足元には三人のチンピラ。佐宗は無意識に耳の後ろを掻き、溜息を吐いてその場を後にした。

 

Ver.16 仕入屋錠前屋×嘉瀬佐宗 2

「どうもありがとう」
 秋野は店員から新しいグラスを受け取り、寄せた丸テーブルにはす向かいに座る男に注意を戻した。スーツを着込んでいるし、似合っているからサラリーマンに間違いない。秋野より数センチ背が低い。映画俳優か何かのような男っぷりで、美形と言ってもいいだろう。
 店員が、テーブルを寄せたらどうですか、と言ったのは、単なる気遣いなのだろう。
 別に一人で待っているからと言って寂しくはないし他人と一緒にいたくもないが、何となく断るのも面倒臭くて頷いた。相手の男も同じようなことを考えたらしいのが、こちらを見る目の表情に浮かんでいた。
「お仕事なんて、大変ですね。こんな時間なのに」
 秋野が言うと、男は一瞬腕時計に目を落とした。
「そうですね。客の都合に合わせなきゃいけない時もありますし。でも、いつもこんな時間まで働いてるわけじゃないですよ」
「でも、実際今は働いてらっしゃる」
「まあ、そうですが。忙しいのは僕だけじゃありませんから」
 礼儀正しさと愛想のよさは、育ちのよさと同義に近い、と秋野は思う。育ちのよさとは、この場合は金の有る無しという意味ではない。羨ましいな、と何となく思い、秋野は唇の端に笑みを浮かべた。
「控え目な方ほど実は誰より働いてるって」
 言い終えないうちに、店内が歓声に包まれた。挑戦者がチャンピオンからダウンを奪ったと、悲鳴のような実況中継が繰り返し告げる。画面の中の観客の声、実際店の中に座る男たちの声。耳を塞ぎたくなる音に顔をしかめた秋野は、不意に背中に衝撃を受けた。何とかテーブルに両手をつき、顔面をぶつけることは免れた。
「……っ!」
「大丈夫ですか!?」
 スーツの男が身を乗り出し、秋野の背後を見て目を瞠った。誰がいるかは推して知るべし。
「遅れた上に蹴るのか……」
 唸るように言うと、もう一発蹴飛ばされた。
 丸テーブルは普通のテーブルよりも少々高い。つまり、テーブルに合うスツールに腰かけている秋野の背中も高いところにある。わざわざ足を高く上げての前蹴りに、サラリーマンが驚いても無理はなかった。
「てめえが寄越した仕事のせいで俺はご機嫌斜めなんだよ! 大体なあ」
 言葉がそこで切れたことで、哲が男の存在に気がついたことが知れる。アナウンサーが解説者に意見を求め、画面で件のシーンがスローモーション再生されている。チャンピオンが殴られ、頬の肉が歪んで汗が飛び散る。チャンピオンがゆっくりと尻もちをつくまで、哲は語を継がなかった。
「——どうも」
 驚くほど冷静な哲の声が、男に向かってそう言った。秋野が肩越しに振り返ると、パーカーにカーゴパンツという格好の哲が、いつもと変わらない顔で立っていた。
「……すごい挨拶ですね」
 意外にも、男が笑いを堪えるような声で言う。哲は軽く肩を竦め、何でもないような顔をして、今度は秋野が座るスツールを蹴っ飛ばした。哲の同級生の店員がこちらを見て何か言いかけ、哲に睨まれて溜息を吐いて口を閉じる。
「こいつが、俺に蹴られるのが何より好きだって言うもんですから。おら、てめえいつまで座ってんだ、さっさとその重てえケツ上げろ」
「俺のケツは重くないよ、失礼な。じゃあ、お先に」
「背中、お大事に」
 男がついに吹き出し、笑いながら手を振って寄こす。秋野は軽く頭を下げ、前を歩く哲の尻を力いっぱい蹴り飛ばした。

 

「お前、面白いもん見逃したな」
 顔を見るなり言うと、佐宗は目を瞬いてはあ? と声を上げた。
 結局チャンピオンはKO負けで三度目の防衛戦を失意のうちに終えた。興奮したアナウンサーの叫びがあまりに店員の癇に障ったのか、今は音量が絞られ、BGMが聞こえるようになっている。だから佐宗の間の抜けた声も、小さいながらしっかりと嘉瀬の耳に届いた。
「ボクシングですか?」
「いや、違う。似たようなもんだけど」
 名前も知らない二人の男のどつき合いはなかなかの見ものだった。どう見ても仲がいいとは思えなかったが、憎み合っているというふうでもない。両方とも風呂にでも入っているようにリラックスしているのに、今にも相手に飛びかかろうとしているような緊張感も確かにあった。
 薄い色の目をした男は金のかかった格好に長身、モデルときいても驚かないが、身のこなしがなんとなくその手合いとは違う気がした。
 後から現れた方は普通の格好の普通の男。どこかで見た気がするのは今時の若者にはよくある外見だからだろうが、眼付の鋭さは先の男といい勝負だったように思う。大画面のボクシングより余程面白かったと言ったなら、あの二人は笑うか、肩を竦めるかするのだろう。
「そうですか。別にどっちでもいいですが」
「ボクシングは嫌いか」
「嫌いってわけじゃないですけど、進んで観る気にはなりませんね」
「ふうん」
「殴り合いなんて面白くもない。そう言えば、殴られるとこでした」
「何?」
 低く掠れた声が出た。歪んでいるであろう顔をじっと見て、何故か佐宗が目元を緩める。きつい顔つきが一瞬で柔らかく変わる。それだけで指の先が痺れるように熱くなって、嘉瀬はテーブルの縁をきつく掴んだ。
「——何だよ」
「いえ。やっぱりあんたのほうがまともだと思って」
「俺のほうって、誰と比べてんだ」
 佐宗は鞄を隣のスツールに載せ——さっきまであの男が座っていた椅子だ——手を上げて店員を呼んだ。
「チンピラに因縁つけられたんですが、通りすがりの人がのしてくれちゃいまして。なんか変わった人でしたよ。野生動物かなんかみたいな」
「……」
「何です」
「紺色に黄色いロゴのパーカーに、カーキの細いカーゴパンツか? お前よりちょっと背が高くて、男臭い感じの」
「……何で知ってんです」
「あ、それ佐崎ですね」
 店員が佐宗に細長いメニューを差し出しながらにっこり笑った。
「さっき連れの背中どついてたやつでしょ? あいつ俺の友達なんです」
「はあ」
「あんなんでよく客商売やってますよねぇ。いや、悪いやつじゃないんですよ」
 店員は一人勝手に頷きながら行ってしまった。何となく黙り込んだ嘉瀬をちらりと見上げ、佐宗はメニューを広げて目を落とした。じっと見つめていると視線に気づき、怪訝そうに眉を上げる。
「何ですか」
「別に」
「……心配しなくても、俺は野生動物よりお行儀のいい犬が好きです」
「……俺はチワワ?」
「チワワって図体ですか」
 佐宗は笑い、メニューで嘉瀬の腕を叩いた。
「一杯飲んだらどっか飯食いに行きましょうよ。腹減った」
「その前に仕事の報告しろよ、どうせ譲歩したんだろうけど」
「……忘れてなかったんですか」
「忘れるわけねぇだろうが」
 言いながら、どこへ行こうかと頭の中のリストを捲る。
 お連れさん、帰りましたよ。
 リストの居酒屋の部分をなぞっているうち、愛想のない声が突然耳の中に甦り、嘉瀬は数秒そのまま固まった。
「嘉瀬さん?」
「あ? ああ、いや、何でもない」
 そうか、あの店にいた店員だ。佐宗が先に帰ったと、さも興味がなさそうに事実だけを伝えた男。先ほど挨拶してくる前に随分長い間が空いたのは、向こうがこちらの顔を思い出したせいかもしれなかった。佐宗と彼は直接言葉を交わしていないから、多分気付かなかったのだろう。
 にやにやする嘉瀬を気味悪そうに横目で見ながら、佐宗はメニューに目を落とす。斜め上から当たるライトが頬骨を浮き上がらせ、光と影のコントラストで佐宗の輪郭を露わにした。
「佐宗」
「はい?」
「ほんと可愛いなあ、お前」
「相変わらず違う世界の住人ですね」
「結婚しようぜ」
「鼻からビール飲ませますよ」
 顔色一つ変えずに言ってのけ、佐宗は手を上げて店員を呼び、あんたの奢りですからね、という顔をしてみせた。