拍手お礼 Ver.14-15

Ver.14 季節をみっつ数えた後の魔法

 哲がキーボードを叩く音がリズミカルに響く。
 ブラインドタッチを教えたのはもう随分前のことになる。あれから哲がキーボードを触った機会は、多分年に数度あるかないか。それでも指先で記憶したことは忘れないらしい錠前屋は、まるでハリウッド映画に出てくるハッカーのように物凄い速さで指を動かす。秋野は目の端でそれを見ながら、手に持った本の頁を捲った。
 床に座る哲の頭の上からは四月の午後の太陽が惜しみなく降り注ぎ、吐き出す煙を透かして穏やかに床の上に零れ落ちていた。秋野の裸足の指の先に当たる光の温度は、ぬるま湯程度。平和で長閑、それ以外に言い表しようのない室内の光景と手の中の難解な専門書は、眠気を誘うに十分だった。
「何打ってるんだ」
 眠気を追い払うためだけに、秋野は本を腹の上に伏せて哲に声をかけた。
 パソコンを使わせろと言って哲がここに来たのは十分ほど前のことだ。インターネットカフェで金を払い、空席を探す。その手順が面倒だという哲の気持ちはよく分かる。秋野がパソコンを手元に置いているのも、検索用の端末として、である。因みにプロバイダ契約は幾つか持っている他人名義のカード決済、ハードディスクにはメールの一通、ファイルのひとつたりとも入ってはいない。
「母親に、メール。携帯で打つの面倒でよ」
 哲はそう言って送信ボタンをクリックし、ブラウザを閉じると電源落としていいか、と訊く。頷くと手早くシャットダウンし、片膝を立てて深い息を吐いた。
「つーか、返信自体が面倒なんだけどな。電話すると長えし」
 右手でがりがりと頭を掻き、低い声で言いながら煙草を吸いつける。薄いカーテン越しの暖かな陽射しが斜め上から照らす哲の顔は、至って平静だ。特別感情の動きがないその顔を見ているうち、秋野はようやく哲が母親にメールをする理由に思い当たった。
「……お前、今日誕生日か」
「じゃなきゃメールも何もねえ」
 哲はそう言い、天井に煙を吹き上げた。
 哲の母親は、離婚に際して小学生の哲を父親のところに置いて家を出た。その後疎遠になった彼女が再婚した夫を通して哲を探し、再会したのが三年程前。彼女と新しい夫の望んだように共に暮らすことを哲は拒んだが、その理由が恨みつらみでないのは母親も納得できたらしかった。
 あれから毎年、哲の誕生日にだけ、母親は何かを送ってくるらしい。それは毎年違うごくささやかな贈り物で、近況を知らせる短い手紙がついているのだとか、前に聞いた。母親との年に一度の繋がりを、哲は喜ぶでも厭うでもなく、ただそのまま受け容れている。あまりにも哲らしいその自然さは、母親にとっては些か物足りず、他人からしてみれば冷たい態度に思えるかも知れない。だが、哲には哲の思うところがあり、何が一番いいか、それは哲以外の誰かに判断できるところではない。
「幾つになったんだ?」
 秋野の問いに、哲は初めて秋野に目を向けた。
「三十……二? いや、一」
「どっちだよ」
「多分、一」
「多分か」
「どっちでもいいじゃねえか。うるせえな」
 面倒くさそうに唸る顔は、初めて会った頃と変わったようには見えなかった。
 例えば部下が出来、昇進して責任を重ねていく当たり前のサラリーマンとは違う生活のせいもあるだろうし、家庭を持っていないせいもあるのだろう。とはいえ大方はその素質によるものと思えたが、原因はどちらでもいい。
 まったくと言っていいほど変化のない外見の中、強いて違うところを探すとすれば、更に削げ、厳しくなった顔つきくらいのものだった。二十代半ば過ぎだったあの頃より少し大人になった、その程度の微細な変化。寧ろ一層鋭くなった視線を秋野に向けたまま、哲は煙草を灰皿で揉み消した。
 秋野はソファから立ち上がり、テーブルの上、パソコンの脇の狭い隙間に重たい本を置く。哲の視線は秋野の顔から逸れず、手だけが素早く動いてずり落ちかけた本を押さえた。
 片膝を立てた哲の脚の間に腰を下ろし、頭蓋を掴むようにして頭を引き寄せた。下唇を緩く噛むと、哲が本の表紙で秋野の頭を軽く殴った。間抜けに重い音がして、痛みはないがそれなりの衝撃が頭に響く。払い除けると本がばさりと床に落ちた。
 味見をするように何度も口付けては離れ、歯列を割って舌を押し込み、哲の規則正しい呼吸を喉の奥に押し戻す。唇を、舌を、前歯を齧り、両手で頬を包んで深く口付けては解放し、また捕らえた。
 こういうのは趣味じゃない、と繰り返し聞かされた台詞。口を塞がれているから声には出さないが、睨みつける苛烈な視線で声高に叫びながら、哲は秋野を引き剥がそうと本気でもがく。
 幾ら行為そのものに慣れても、哲はいつまでも哲だった。女のように抱かれるなど以ての外、秋野が気紛れに丁重に扱えば露骨に嫌そうな顔をし、嫌がって暴れるのが常だ。女相手にすれば通報されそうな乱暴さで挑めば同じだけの乱暴さで返され、それでもぎらつく目は興奮に眇められる。
 分かっていて、それでも秋野は哲の頭を抱いて、ゆっくりと、穏やかに口付けを深くした。哲の嫌がる顔を見るのが好きなのだから、仕方がない。いかれていると思うのもいい加減慣れた。そんなことを頭の隅で考えながら、哲を壁に押し付け、体重をかけて徐々に傾け床に背をつけさせた。合わさった唇の隙間から、不穏な唸りが漏れ聞こえる。
「哲」
 しわがれた秋野の囁きを噛み千切るように、哲が歯を軋ませ不満を訴えた。

 

 真っ昼間から、一体何をやっているのか。
 そう思わないでもないが、それこそ今更だ。
 腹の上に跨る哲を見上げ、秋野は思わず口元を歪めて笑った。哲が濃い煙を吐き出しながら、睨みつけるように秋野を見下ろす。銜え煙草で人の上に乗るなと何度言っても止めようとしない。
「おい、灰落とすなよ。流石に萎えるからな」
 秋野の声に眉を上げ、哲は僅かに顎を上げた。煙草を銜えたままの口元から真っ直ぐに煙が立ち上り、緩慢な哲の動きに合わせてゆらゆらと上下する。たなびくそれは春の空の絹雲のようだった。
「落としたこと、ねえだろうが」
「今まではな」
 突き上げると、哲は息を呑んで一瞬目を閉じた。眉を顰めつつ煙草を手に取り、ベッドサイドの灰皿に腕を伸ばす。掠れた息を吐きながら、それでも穂先を丁寧に灰皿の縁で擦って灰を払った。
「落とさねえよ」
「……絶対ってことはないだろう」
 銜え煙草の哲の唇の端から煙が漏れる。くぐもった小声の悪態が煙を散らして巻き上げ、額を押さえた哲は、呻きながら喉を反らした。
 灰皿に投げ入れられた煙草の先から、幻のように煙が立ち上って哲の身体を這い上がる。時間の流れが目に見えるものだとしたら、こんなふうに頼りなく、捉えどころがないのかも知れない。お前には覚悟があるかと問い質された、あれから冬が三回巡ってまた春が来た。いつの間にか重ねた時間の重みは、腹の上のこの重さと同等だろうか。
 腹筋に力を入れて身体を起こす。後ろに重心がかかった哲の首根っこを持ち上げるように掴み、引き寄せて膝の上に抱き上げた。哲の頭を抱え、髪を滅茶苦茶に乱しながら噛み付くように、ではなく実際に噛み付いて、その合間に口付ける。絡んでいるのは舌なのか、吐息なのか。水音を立てるのは粘つくローションなのか、擦れる粘膜なのか、それとも腹の底で捩れ沸き立つこの感情か。季節をみっつ数えてみたが、その後に魔法のように穏やかで美しい愛が生まれたりはしなかった。
 哲の腕が首に回り、頑丈な顎が首筋を噛む。
「絶対はない——そうは言うが、それだって確かじゃない。お前がいつまでここにいるのかも」
 聞いているのかいないのか、また一頻り毒づいた哲の心音が、胸郭に低く響いた。
「なあ、俺の錠前屋」
 後ろ髪を鷲掴みにして手荒く引く。火を噴きそうな哲の目が秋野に向いて、カーテン越しの春の陽射しを反射した。その目の中に見えるものの確かさなど判断できない。したくもない。形がどうあれ、そこにあるならそれでいいのだ。

 噛み殺してしまいたい。脳髄が爛れるような強烈な衝動そのままに、押し倒した身体に突き入れ、感情も、重ねていくはずの時間も季節もすべて本能の陰へ追いやった。暴れる手足を押さえつけ、咆哮が喘ぎに、罵詈雑言が悲鳴混じりの懇願になるまで容赦なく。
 声を張り上げて秋野を呪い、乱れる哲を抱きながら、秋野はゆっくり薄茶の目を閉じた。

 

Ver.15 残り香が消える頃

「じゃあ、お先に失礼します」
「おー、お疲れさん。帰り際に悪かったな」
「いえ」
 哲は店主に頭を下げて店を出た。引き戸を閉めると途端に店内のざわめきが遠くなる。
 最近、服部が就職活動で勤務日数を減らしている。その代わり新しいバイトが二人入って回すようになったのだが、そのうち一人はどこかの料理人だったという壮年の男で、かなり頼りになる。お陰で哲も最後までいなくて済む日が若干増えた。バイト代は減るが、元々本業でないからそれは構わないし、拘束時間が減るのは歓迎だった。
 今日はその早上がりの日だが、出がけに店が混んだので、ほんの少し手伝った。お陰で、掌からやたらといい匂いがする。風のせいで鼻先に香りが運ばれてくるのか、歩いていても妙に香る。
 生温い風が、Tシャツから出た腕を撫でていく。湿った風はじっとりと皮膚と衣服に纏わりつくが、今日は日中曇っていたせいか、気温が下がっているからまだマシだ。
 哲はゆっくり歩きながら、自宅とは違う方角へ足を向けた。頼まれ事があって、レイとかいう男が所長の調査会社の事務所に行くのだ。別に用事もないし、晩飯一回分にしては簡単すぎるお使いだ。
 人混みを避け、顔見知りのキャッチに手を上げて歩調を速めた。湿気を含んだ風は爽快とは言いかねる。さっさと済ませ、部屋に帰って眠りたかった。

 

 ドアを思い切り蹴りつけようと足を上げた途端、まるで見えていたかのようにドアが開いて哲はつんのめりかけて踏ん張った。
「ノックは手でしろ、手で」
 眉を寄せた秋野がそう言って顔を出す。
「まだ何もしてねえんだけど」
 秋野の横をすり抜け、靴を脱いで部屋に上がる。秋野が施錠する音を背中で聞き、哲はポケットから小さな箱を取り出した。
「ほら」
 振り返り、部屋に戻ってきた秋野に箱を放り投げた。放物線を描ききらないうちに空中でそれを受け止めた秋野は、僅かに頬を緩めて哲に視線を戻した。
 出かけてはいなかったと見え、ジーンズにタンクトップ、その上に八分袖の白シャツを重ねただけの適当な格好だった。とはいえ、麻混らしきシャツの仕立ての良さ、ジーンズに通した白いメッシュベルトがいちいち秋野らしいと思う。
「悪いな、ガキの使いみたいなことさせて」
「あっちに用事あったし、俺は別にいいけどよ。何で自分で行かねえんだ」
「行っても構わないんだが、レイがちょっとな。俺に会うのが嫌らしい」
「別に元々仲良くねえんだろうが」
「そうだが、それとは別だ。あいつも屈折しててね」
 秋野が箱を開けると、そこには緑色の石で出来たブローチのようなものが入っていた。哲が仕事帰りに秋野の知人の事務所に寄って預かってきたのだが、事務所の所長であるレイは翡翠の帯留め、とかなんとか言っていた。秋野を介して複製品を作ってもらうのだそうだ。
 翡翠というのが緑色の石だということくらいは何となく知っていたが、本物なのか違うのか、哲にはよく分からない。秋野は数秒それを眺めた後、元通り箱に戻す。何となく突っ立ったまま、哲は腕を組んで秋野を眺めた。
「……」
 箱から目を上げた秋野が首を傾げ、訝しげにこちらを見る。薄茶の目でまじまじと見つめられると睨み返したくなるのはいつものことだ。哲が欲求に逆らわず薄い色の虹彩を睨みつけると、秋野は片方の眉を上げた。
「見てんじゃねえよ。何か文句あんのか」
「睨むなよ」
「うるせえな、俺の勝手だろうが」
「何か、柑橘類の匂いがする。香水か?」
「香水? ああ、違う違う。グレープフルーツの匂いだろ。出掛けに山ほどグレープフルーツ搾ってきたからな。生搾りサワーとかいうやつ、最近店で始めたから」
「ああ、それでか」
「なんかすげえ注文が重なっててよ。帰りがけで着替えてたから厨房手伝うのもなんだったし」
 客に搾らせる趣向の店も多くあるが、哲のバイト先では厨房の中で搾って出す。いちいち皮を回収しにいくのが面倒だからだ。グレープフルーツの半分といえば結構な大きさだし、どうせテーブルが狭いから持って行ってくれと言われるのがオチだ、という店主の読みも、あながち外れてはいないだろう。
「ふうん」
 秋野は気のない返事を返すと寝室に向かった。どこかの細工師に渡すまで仕舞っておくのだろう。
「レイはどうしてた」
 寝室から声だけ聞こえる。
「どうしてたって……俺が巨乳秘書に案内されて部屋に入ったら、ケーキ食ってた」
「ケーキ?」
「なんか、誕生日に食うみたいなショートケーキ。口の周りにクリーム付けて」
「ガキか、あいつは……」
 また現れた秋野はすっかり呆れた顔をしている。
「んで、巨乳秘書にハンカチで拭いて貰ってデレデレしてたぜ。まあ屈折してるっちゃ屈折してっか、あれは」
「そういう意味じゃないよ、馬鹿だね」
「分ってるっつの」
 哲は部屋に充満していた甘い香りを思い出して鼻に皺を寄せた。別に不快な匂いではなかったが、好きかと訊ねられたら首を横に振る。
「ケーキの匂いと女の香水の匂い、どっちも甘ったるくて胸やけしそうだったぜ。甘やかされてるガキみてえ」
「甘やかされたいんだろう。あいつにしてみれば災難続きだったからな。そんなとこに俺が行けば食ったケーキも戻したかも知れん」
「あの匂いだけで俺は戻しそう。ってか、お前が悪いんだろ、どうせ」
 秋野は前髪の間から哲を見て、そう思うか、と呟いた。眇められた目に何故か獰猛な色が閃いたが、口から出てしまった言葉は撤回できない。背筋に何か寒気を覚えつつ、口を開いた。
「お前とあいつなら、お前が絶対的に強者だろうが」
「……グレープフルーツってのは、結構香りが残るもんなのかね」
 まったく違う返事に一瞬戸惑ったが、進んで藪をつつくほど物好きではない。
「洗ったんだけどな」
 自分の右手に視線を落とす。人の気配が一歩近づく。視界に秋野の長い指が入ってきて、哲の右手を持ち上げた。そのまま秋野の鼻先に持っていかれた右手をまるで他人のもののように感じて、哲はゆっくり一度瞬きした。
 舌がぞろりと掌を這う。生温かい濡れた感触に、哲は思い切り顔をしかめた。
「勝手に舐めんじゃねえ、人の手を」
「匂いだけじゃなくて味も残ってるぞ。洗っても落ち難いんだな、グレープフルーツって」
 まだ、秋野の台詞の最後の部分は終わっていなかったように思う。
 物凄い勢いで掴んだ手を振り回され、壁に頭をぶつけられた。背中にかかった体重が額を壁に押し付けてくる。激突の衝撃が治まると、痛みが突如、実体を持った。
「野郎……!」
「俺が悪い、確かにそうだ。チハルも俺も寄ってたかってレイを脅した」
 耳に押し込まれる低い声音は、今までと変わりがない。変わりがないように聞こえるが、確かに何かが違うのだと確信した。低く深い声のその底に、見てはならない何かがある。見てしまえば捕らわれる、何となくそんな気がして身が竦む。
「チハルにお前を売ったのはレイだ。チハルに脚を折られて渋々って経緯があるが」
 先日のことを言っているのだろう。秋野の昔の知り合いに拉致されたのがレイのせいだとは知らなかった。だが、済んだことだし哲にとっては別にどうでもいいことだ。
 頭の上に纏められた両手首が物凄い力で握られて鈍く痛んだ。骨が軋む音が聞こえる気さえする。
「脚を折られても何も言うな、なんて言う権利は俺にはないけどな」
「離しやがれ、くそったれ……それが何だって」
「なあ、哲」
 秋野の声は、普段より甘く、低く、語尾が微かに掠れるように消えていく。秋野がこういう声を出す時はろくなことがない。本能的に逃れようとしてもがく哲の背に更に身体を密着させて、秋野は優しく囁いた。
「チハルはお前の指を潰すって俺を脅した。錠前屋なんだから、さぞかし指が大事だろうってな」
 それは知ってる、と言いかけて口を噤む。
「——よりによって、指を潰す、だ」
 秋野の舌が、右手の甲に浮いた筋を辿る。水音がやけに響き、食われているような錯覚に奥歯をきつく噛み締めた。
「レイに腹を立てるのは筋違いだろうな。元はと言えば俺のせいだし、そう思ったから自制もしたさ。もしかすると、レイに謝って機嫌を取るべきなのかも知れん。けどな、俺だって感情がないわけじゃない。いつも冷静でいられるわけじゃないんだよ、錠前屋」
 柔らかく、その実冷たい声音で囁きながら中指の付け根を甘く噛まれて思わず呻き声が出た。指の間を舌が這う。手首を締め付ける秋野の指に、また一層力が籠った。
 秋野に濡らされた右手から、グレープフルーツの香りが再びふわりと立ち上る。秋野の首筋から僅かに香る香水にも、確か柑橘系の香りが入っていたはずだ。背後から圧し掛かる身体の存在感と、混じり合う香りに眩暈がする。
「誰が悪かろうが、誰が気分を害そうが、俺の知ったことか」
「おい、そこ噛むなって……くそ!」
「俺は、お前以外はどうでもいいんだ。知ってるか」
 知らねえよ、と喚く声が引き攣り途切れた。
 裏返され、背中を壁につけた身体を磔にする広い胸から鼓動が伝わる。拘束されたままの手首の痛みが哲の理性を嬲るように徐々に強くなり、箍が外れかけた衝動が、喉の奥から這いずり出ようと軋むような呻きを漏らした。
 合わさった胸と腹から、縛められた両手から。
 身体を繋げているかのように深く入り込み、音を立てて絡む舌から。
 秋野の香りが、布地を通り、皮膚の中に染み込む気がする。果実の清涼なそれよりも、更に濃く、更に消え難く、臓物の中に硬いものを捻じ込むように突き刺さる。
「……離せってんだろうがっ!!」
 力任せに腕を振りほどき、怒鳴りながら秋野の脚を蹴りつけた。打撃をうまく逃がされたのは分かったが、重要なのは食い込んだ牙から逃れたことだ。
「退け」
 哲が凄むと、秋野はあっさり避けて道を開けた。
 濡れた唇を手の甲でゆっくり拭い、腹を空かせた虎のように、秋野はにたりと笑って見せた。
 叩きつけるようにドアを閉め、煙草を銜えながら階段を降りる。湿った夜気が煙草の煙と、身体に残る男の匂いを揺らめかせた。

 

 あのクソ野郎の残り香が消える頃、俺はどこに立っているのだろう。
 ふとそんなことを思い浮かべ、哲は顔をしかめて首を振った。くだらないことを考えても仕方がない。先の事など、考えるだけ労力の無駄に決まっている。
 あのタチの悪い男の残り香が、そう簡単に消えるはずはないのだから。