拍手お礼 Ver.11-12

Ver.11 SS 『冷気にいかづち』のつづき

 弘瀬を送って居間に戻ると、哲は立ち上がって頭からTシャツをかぶっている最中だった。居間の入り口に立ったまま眺めていると、哲は顔を秋野に向けて不機嫌な声を出す。
「何だよ」
「……何が?」
「人の顔じろじろ見んな」
「いい男だなと思って」
「口から出任せ言うな、馬鹿たれ」
 哲は眉を寄せ、呆れたように溜息を吐く。
「帰る」
 投げつけるようにそう言って、哲は秋野が塞いだままの入り口に向かって歩いてきた。秋野と戸口の隙間をすり抜けようとする哲を腕で押しとどめ、秋野は哲の眼を覗き込んだ。
「お前弘瀬に何言ったんだ」
「弘瀬に? 何で」
 向けられた視線は相変わらずの鋭さで、眉間の皺は引き留められたことに対する苛立ちを如実に物語る。そんな哲の刺々しさが好きなのだとくだらないことを考えながら、秋野は静かに語を継いだ。
「あいつ、何だか急に黙り込んで帰って行ったから」
「別に。邪魔だからさっさとどっか行けっつっただけだ」
 臆面もなくそう言い放ち、しかしその言葉とは裏腹に、哲は本当に帰りたいのだと見えて秋野の脇腹に本気で肘鉄を入れてきた。すれすれでかわし、体を掠めた肘を掴む。秋野は壁に背中をつけ、腕の中に哲を無理矢理引き寄せた。
「帰るのか」
 心底嫌そうな哲の顔がすぐそこにある。哲は密着した体勢から秋野の脛を蹴飛ばして低く唸った。
「そう言ったろうが。お前も邪魔だ。退け」
「嫌だね」
「お前の都合じゃねえ。俺が嫌なんだよ」
「哲」
 名前を呼ぶと、哲はあぁ? と語尾を上げて返事をする。下品な返答に頬を歪め、秋野は哲を抱き締め首筋に齧り付いた。
「痛っ!!」
 飛び跳ねた哲の身体を一層引き寄せ、服の上から肩を噛む。
「野郎——放せこの……」
 ドスの利いた声も、喚かれる悪態もどうでもいい。肩に、首に、耳に噛みつきながら壁沿いにずるずると腰を落とし、哲を抱いたまま床に座った。腕の中で暴れる野犬は大人しくなるどころか益々猛り狂い、自由になる膝が秋野を何度も蹴りつける。
「おい、股間は蹴ってくれるなよ」
「うるせえ、不能になっちまえこのエロジジイ」
「だからジジイって言うなってのに」
「エロはいいのか」
「否定はしない」
「——ふうん。だったらお手並み拝見と行こうじゃねえか」
 力任せに秋野の腕を振りほどいた哲の右手が秋野の首に当てられる。人差し指と中指を銃口のように秋野の顎の下に突きつけて、哲は邪悪に微笑んだ。
「弘瀬に借りとくんだったぜ」
「何に使うんだ」
「下手くそだったらてめえの息子を撃つんだよ」
「……馬鹿だね」
「悪かったな。文句あるか」
「別にない」
 食い込む指を手で除けて、哲の喉元に唇を寄せる。甘噛みすると哲は喉の奥からざらついた声を出し、秋野の髪を握り締めた。
「鍵」
「…………何?」
 しゃがれた声を出す哲の、鋭い視線を受け止めて秋野は呟く。
「鍵、掛けたからな。言っておくが」
 何か言いかけた口を手で塞ぎ、身体を入れ替えて哲を下にする。生温い空気が澱んだ玄関先、はっきりとは聞こえないが吐き出される罵声の数々を掌に感じながら、秋野は喉を鳴らして低く笑った。
「帰るのはもう少し待て」
 耳の中に囁いて、耳朶を口に含んで吸い上げる。
「今出てったら弘瀬に追いついちまうぞ」
 踵に腰を強打され、秋野は思わず哲の顔から手を離す。哲は大きく一つ息を吸い込むと、くたばりやがれ、と吐き出した。

 

 夜になっても下がらない気温、こもる湿気に肌が汗ばむ。ようやく弘瀬の闖入前と同じところまでたどり着き、同じように喚く哲の顎の裏を舐めていた秋野はふと顔を上げた。
「——なあ、哲」
「ああ?」
「お前、邪魔が入らなかったら」
「うるせえ、ぐだぐだ言ってねえでやるなら早く終わらせろ」
「あのなあ」
 言いさした秋野のジーンズのポケットで、携帯電話が鳴り出した。驟雨の前、生温い空気をにわかに切り裂く夏の雷のように、電子音が大袈裟に鳴り響く。
 一瞬の間の後で哲がゆっくりと身を起こし、秋野の尻に手を伸ばした。携帯をポケットから抜き、見もしないで居間の方へ放り投げる。秋野が何か言う前に、哲は秋野の唇に食らいついた。

 その着信が悪戯心を起こした弘瀬からであったことに気付いたのは、床の上で汗だくになり、シャワーを浴びに行った筈の風呂場で再度事に及び、不機嫌な哲に蹴り出された後だった。着信の他に、メールが一件届いていた。秋野は文面を読んで頬を歪め、濡れた頭を振って煙草を銜える。

『鍵は掛けたか? 大事なら錠前屋も鍵掛けてしまっとけ』

「それじゃあ意味がないんだよ。分かってないねえ」
 メールにそう呟いて、秋野は指先を動かした。あえなく削除されたメールと一緒に、弘瀬のことも頭の中から追いやった。
 足が震えてよろけでもしたか、風呂場から水音のほかに、秋野を罵りながら壁を思い切り蹴飛ばす音が聞こえてくる。思わず吹き出し喉の奥で笑いながら、秋野は煙を部屋の温い空気の中に、ゆっくりと吐き出した。

 

Ver.12

 錠前屋に合鍵など無用だから、渡そうと思ったこともない。入りたければ勝手に開けて入ればいいのだ。しかし、実際に哲が秋野の留守に部屋に入ることは殆どない。いなければわざわざ待っているほど秋野に会いたいわけではないらしい。それが哲という人間だった。

 そういうわけで、鍵を開けて部屋に入ったら、電気も点いていない暗がりに哲がいたから驚いた。自分の部屋は幾ら言っても施錠しないこの男がきちんと鍵をかけている。
 他人の部屋は他人の部屋。だから自分のルールは適用しない。
 哲らしい、潔くもおかしな律儀さだ。一緒に来れば、鍵など知った事かという顔をする。家主がいるなら家主が責任を持てと、どうやらそういうことらしい。
 珍しく一人でここに入った哲は、寝息を立てていた。

 明かりを点けてカーテンを引いても、哲は身じろぎしなかった。片方の膝を立てて床に座りテーブルに突っ伏す哲に近寄って、覗きこむ。
 腕に乗せられた顔は横に向いており、いつものように不機嫌そうだった。
 寄せられた眉、眉間の皺。口元はしっかりと結ばれ、案外口の中で歯も食いしばっているかもしれない。
 安らかとか、穏やかとかいう言葉からは遠い寝顔は、寝ている時も警戒を怠らない動物のように思える。安穏とした生活を送ることが出来ない、それがこいつの特性だということが、寝顔にさえも顕著な気がした。
 濃くはないが案外長い睫毛が目の下の薄い皮膚に細い灰色の影を落とす。その影の形すら鋭い哲の近寄るなと言わんばかりの雰囲気に、秋野は我知らず一瞬口元に笑みを浮かべた。
 静かに手を伸ばして髪に触れる。少しばかり触ったくらいでは目覚めない程度に熟睡しているらしい。柔らかくも硬くもない髪に指を通して梳いてみる。それでもほんの僅かに肩が動いただけで、眼を覚ますには至らなかった。

 

 優しくしたいとも、笑顔を見たいと思ったことも一度もないが、それがどこか歪んでいるのだという自覚だけはいつもあった。
 気が狂いそうな執着の挙句秋野が一方的に押しつける言動は、確かに一見強硬に思えるかも知れない。だが、哲には拒否する権利があるのだし、取捨選択は常に哲に預けてきた。
 言い訳がましく聞こえるのかも知れないが、本当の意味で何かを強要したことは、出会ってからかつて一度もない。
「——無防備すぎるんだよ、お前は」
 寝顔にこぼし、秋野は哲の髪から手を退けた。
 無防備という言葉から受けるイメージは、確かに哲には不似合いだ。だが、ただ有りの儘在る哲は、自分を隠すものも守るものも持とうとしない。そういう意味で、この男がどこまでも無防備なのは事実だった。
 そこにつけ込んだはずが気づけばこじ開けられているのは強固なはずの自分の骨組で、いつの間にか内臓を引っ張り出されているのだと後で気づく。無防備イコールか弱いというのは間違いだ。分かっているつもりでいても、気づいた時には喉笛に食らいつかれて引き剥がすには手遅れだった。
「おい」
 両膝をつき、背後から覆い被さった。首筋に顔を寄せ、鼻先で襟足の髪をかき分ける。掌で押さえつけた頭が動き、寝起きで掠れた不機嫌な呻きが漏れた。意味不明のそれはとにかく、嬉しくないのだということだけははっきりと主張する。
「そんな格好で眠ったら顔に袖の痕がつくぞ、哲」
「——余計なお世話だ」
 うなじに犬のように鼻を擦りつけ、首の付け根に浮き出た頸椎をあま噛みした。眠っていた人間の肌の匂いが何かを酷く揺さぶって、どこか心許無い気分になる。
「重てえよ、退け」
 眠そうな、ぼんやりとした声音で哲が言う。
「何でこんなところで寝てるんだ」
「昨日飲み過ぎて寝不足。家まで持たねえと思ったから悪いけど入った」
 話しながら首筋にじゃれつく秋野を、哲が煩そうに手で払う。秋野は追われる蝿の気分になりつつも、哲の耳の後ろに舌を這わせた。
「そんなのは別に構わないが。ベッドでもソファでもいいから横になりゃいいだろう」
「寝煙草はまずいだろうが」
 言われてみれば、哲が伏していたテーブルの端に、吸殻が一本入った灰皿がある。吸殻の銘柄は秋野のものではなく哲のものだ。睡魔と煙草、取り敢えず煙草を取って一口吸ったが、そのまま力尽きたらしい。
「向こう行って布団で寝ろよ。俺はまだ起きてるから」
 身体を離し、テーブルの上の頭を一つ叩いて立ち上がる。反応の鈍い哲はうう、と呻きとも返事ともつかないような声を出してよろよろと立ち上がった。
「悪ぃな。お前が寝る時は起こせよ、帰るから」
「俺の前で無防備に寝こけてたら、いつ起こして襲うか分からんぞ」
「つまんねえ冗談」
 哲はうんざりした顔をして鼻を鳴らし、足を引き摺るようにして寝室へ消えた。倒れこむようにベッドに乗る音、僅かに聞こえる身動きの音。

 寝室の入り口に立って哲の不機嫌な寝顔を眺めてみた。秋野の気配に気付いたのか、寝入っていなかったらしい哲はゆっくり眼を開けた。重たそうな瞼の下で眼球が動き、秋野の顔をじっと見る。哲はゆっくりと一度瞬きし、低い声でつまらなさそうに呟いた。
「……せめて三時間は眠らせろ」
 哲はあっというまに微かな寝息を立て始めた。相変わらず機嫌の悪そうな顔をして。

 哲は確かに無防備だが。
 攻撃は最大の防御という言葉もある。守る前に仕掛けてくる、だから哲は厄介だ。
「朝までゆっくり眠れ、錠前屋」
 秋野は苦笑し、踵を返した。居間に戻り、哲が座っていた場所に腰を下ろす。灰皿の中の、まだ長い哲の吸殻を指先で弄び、結局銜えて火を点けた。
 哲が秋野の部屋だから施錠をしたというのなら、自分も今はこの内心に蓋をしよう、と何とはなしに考えた。寝不足で疲れ切った錠前屋を組み伏せて怒り狂わせるというのはかなりそそるが、流石に俺はそこまで鬼じゃない。

 

 明け方、誰かが動き回る気配を感じてうっすらと意識が戻った。
 煙草の匂い、水道の音、裸足が床を踏む音ともいえないような音。ほんの短い時間、こちらに向けられた強い視線。
 秋野が眼を覚ましたとき、哲は既に部屋にはいなかった。