浴衣

 その日は季節外れの真夏日だった。暦の上では秋だというのに、ここ二日ほどはまるで季節が戻ったように気温が高い。温暖化の影響なのか、台風のせいかなのかは分からない。
 そんな日に限って現場は全面ガラス張り。西日がもろに射し込む建物で、おまけにクーラーが故障していたと車に戻るなり訴えてきたのは渡邉だ。
「新海さーん、クーラー温度下げてぇ俺死んじゃうっす!」
「ああ、今下げた。効いてくるまでちょっと待て」
「死ぬ……マジで死ぬ……」
「石津、水飲め、水!」
「久々に臭いで吐くかと思ったけど途中から暑くて臭いわかんなくなった、俺」
「うっそ、堀田の鼻壊れてんじゃない? 俺ずっと臭かったよ」
「岡本さん俺と違って繊細っすもんね。なんか、綿にミントとか染み込ませてつっぺしとけばよかったんじゃねえっすか?」
「え、渡邉、自分で俺と違って繊細とか言う?」
「暑いーっ!! 新海さんクーラーにもっと働けって言ってー!」
「あー、うっせえお前ら!! 無駄に騒ぐな! 余計暑いだろうが!」
「渡邉がうるせえから代表がキレだぞ」
「だって、暑いじゃん! 石津だって暑いだろ!」
「でもさ、一番うるさいけど一番元気だよね、渡邉」
「そっすか岡本さん、そっすかね? 元気っすか俺? 元気ですけど! あー、なんか涼しくなることないっすかねー、ね、代表!」
「──ケツ出せ渡邉、三百メートル向こうからホローポイント弾尻の穴に撃ち込んでやっから」
「何それ代表こわい!」
「お前がギャーギャーうっせえからだ!」
「えーっ代表顔がマジでこわいっすよう! 涼しくない! 寒い!」
「え、待って志麻生きてる? そのデカいの死体じゃなくて志麻だよね!? 声しないけど!」
 珍しく後部座席で大騒ぎしている奴らを乗せ、新海の運転するワンボックスはのんびりと発車した。

 

 それから数時間後。
 空調の効いた管理人室で書類仕事をしていた新海の前に、何とも言い難い光景が広がっていた。ユズキクリーンサービスご一行六名様が浴衣と甚平を着て勢揃いしているのだ。
 新海はぞろぞろと入って来た奴らを眺め、暫し無言で考えた後、口を開いた。
「──なあ、言っていいか?」
「なんすか、なんすか」
「面通し……?」
 横一列にずらりと並んだ野郎どもは、どう間違ってもアイドルグループには見えない。和装のせいで、まるで賭場に遊びに来た反社会的勢力のメンバーに見える。
「新海さんひでえ!」
「はいはい、見せたから行くよー」
 岡本が渡邉の首根っこを捕まえ、引率の先生と言った風情で園児ならぬ野郎どもに合図し、渡邉以外もぞろぞろと後を追う。後には柚木だけが残った。
「何だったんだ一体?」
「なあなあ、甚平姿の渡邉ってさ、地元の神社の祭で騒ぐ暴走族そのものじゃねえ?」
「やめてくれ」
 思わず吹き出した新海の横を通って柚木がソファに腰を下ろした。
「やっぱそう思うだろ、あんたも」
「お前見たことないだろ、向こうで育ったんだから」
 柚木の両親は日本人だが、海外赴任中にアメリカで生まれ育った柚木はアメリカ人なのだそうだ。産まれた時は二重国籍だったが、長じてアメリカ国籍を選択したのだとか。
「うん、でも完全にじゃねえよ。途切れ途切れにだけど、学生時代にこっちに住んでたこともあんの」
「ああ、そうなのか」
 納得して改めて腰を下ろした柚木を眺める。柚木は紺色の地味な浴衣だ。柚木は紺がよく似合うし、静止画ならいいかもしれない。しかし所作が完全に洋服着用時と変わらないので、動いているとまったく似合っていなかった。しかも大きく組んだ脚のせいで浴衣の裾が完全に開いてしまって、スキニーデニムを穿いた脚が露出している。ちなみに足元はレザースニーカー。
「しかしこの時季に浴衣姿を拝むことになろうとは思わなかったな」
「石津の女がケイコっつーんだけど、スタイリストなんだよな」
「へえ……」
 石津は坊主頭のいかつい顔の男だ。作業着と胴長を着込むと志麻以外の五人は区別がつかなくなるくらいだからそこまで身体は大きくない。だが、細身ですべて削ぎ落されたような柚木と違って、石津の身体には硬い筋肉が盛り上がっている。スタイリストの彼女よりアスリートの彼女がいそうだと思っていたが、それは新海の勝手なイメージだったようだ。
「そのケイコが仕事で近く来るって連絡きて、なんか石津が暑いとかなんとか言ったら、撮影で使ったまま預けててちょうど今日引き取って来た浴衣があるとかないとか」
「ふうん。何だか知らんが、まあ楽しそうで涼しくて何よりじゃねえか」
「涼しくねえよ、Tシャツ着てデニム穿いたままだし」
「つーかTシャツは分かるけど何で下穿いてんだ?」
「え!? 穿くだろ、普通!」
「いや、穿かねえだろ」
「ええっ」
 柚木はなぜかソファの上に脚を引き上げ、自分の身体を抱きしめるようにして尻で後ろにいざった。
「何だよ」
「や、だって、お前新海、デニム脱いだらパンツだぞ!」
「はあ? そりゃそうだろ、普通浴衣着るのにデニムは穿かねえ」
「でも!」
「何照れてんだ」
「いや、照れてはいねえけど」
「じゃあ何だよ。別にパンツ見せて歩くわけじゃあるまいし──」
 何を言っているんだと思ったが、柚木は本気で慄いた顔をしている。
「だけどそれじゃスカートだよな!?」
「……元海兵隊ってのはやっぱりそういうのにこだわるのか? 男らしさとか……」
「はあ? 何言ってんの? スカート穿きたきゃ野郎でも好きに穿きゃいいけどそうじゃねえ!」
「じゃあ何だよ」
「んなもん穿いてたらお前、有事に百パーセント力を発揮できねえじゃねえか!」
「有事」
 必死な顔がおかしくて、新海はつい笑ってしまった。
 着衣の柚木は強靭な筋肉が見えないせいか、実際よりは華奢に見える。整った顔も、女性的では決してないが石津のようにいかつい感じはまったくない。石津よりよほどスタイリストとかファッションとかいうのが似合っている。それでもこいつの頭の中は、多分一生、ライフルを抱え迷彩服を着た兵士のままなのだ。
「……確かに」
「だろ!?」
「でも、今は平時だし」
「──そりゃまあそうだけどよ」
「何事も経験じゃねえのか?」
「何、経験って」
 新海は立ち上がってドアの鍵をかけ、ソファまで取って返した。見上げてくる柚木に屈み込み、デニムに包まれた細い脚に指を這わせる。
「浴衣とか着物ってのはな、脱がせやすいのがいいとこなんだよ」
「……嘘吐いてるだろ、新海」
「嘘じゃねえよ」
「いやだって、昔は老若男女みんな着物じゃねか! じじいの着物脱がせてどうすんだよ!」
「俺はお前がじじいになっても脱がせたい」
 柚木は何かいいかけて口をぱくぱくさせた。その隙に屈みこんで浴衣をはだけ、Tシャツを捲りあげる。
「腹舐めんな! くすぐってえ!」
 柚木が笑いながら新海の髪に手を突っ込んだ。押しやろうとしたのかもしれないが、いつの間にか掌は引き寄せるように新海の後頭部を包んでいた。
 細い脚に張り付くようなスキニーデニムをゆっくりと引き下ろす。柚木は剥き方がエロいだなんだと文句を垂れていたが、剥き出しの脚を晒す頃にはおとなしくなっていた。
 借り物の浴衣を汚すわけにはいかないからさっさと剥ぎ取り遠くに抛った。下着とTシャツだけの柚木は浴衣に比べて若干情緒に欠けたが、そもそも新海にしてみれば、中身が柚木であればなんでもいいのだ。
「今度、買ってやるよ」
「え──?」
「浴衣」
「いらねえって……ていうか、あんたそんなに浴衣好きなの?」
「いや、別に。そうじゃねえけど、お前に浴衣着せて花火でも見に行こうかと」
「って……」
「夏祭りの縁日とかな」
 柚木が目を細めて微かに笑い、新海の頬に指先でそっと触れた。
「──渡邉が出そうなやつ?」
 指の先を捕まえ、手の甲の傷跡に口づける。舌先で傷を辿ると柚木が掠れた声を漏らした。
「そう。来年の夏祭り」
「来年のな」
「一緒に来てくれるか?」
「いいよ」
「手も繋ぐ?」
「……いいよ」

 暦の上では秋だけれど、夏祭りの話をしよう。
 浴衣を着た柚木を連れて、手を繋いで、迫撃砲の火花じゃなくて花火を見よう。
 来年も、その先も。
 ずっと一緒に。