2018 ハロウィン

「Trick or treat!」
 ドアの向こうから完全にネイティブの発音で決まり文句が聞こえてきたので、新海はパソコンから顔を上げ、声を張り上げた。
「開いてるから勝手に入れ。つーかハロウィンは明日じゃねえのか」
 しかし、返事はない。
 あの声と発音は柚木に違いない。仕方ないなと思いながら、新海は編集中のファイルを保存して立ち上がった。
「何だ、一体。仮装でもして──」
 ドアを開けたらそこはリアルバイオハザードの世界だった。
「……!?」
 本物にしか見えないゾンビたちが咆哮を上げながら一斉に室内になだれ込み、新海の上に次から次へとのしかかる。重さに抗えず床に押し倒された新海は、後頭部を床にぶつけた。
 倒れる寸前、最後にドアを潜ったでかいのが志麻ではないかと考えたような気もしないではない。だが、作り物にはまったく見えない外見と手触りにそんなことは吹っ飛んだ。
 頭蓋から垂れ下がったまばらな頭髪が鼻先を掠め、破れ、裂けて穴が開き、今にも千切れそうになったコートの布地が首筋を擦る。
 眼前に迫った死人と目が合った。青みがかった白目は綺麗に澄んでいるが、目の周りは落ち窪み、青黒い隈で縁取られていて不健康そうだ。目が合った途端奴が歯を剥いてにやりと笑った。
 そこだけ完全に血が通ったピンク色の舌に顔をべろりと舐め上げられて、新海は思わずギャーと声を上げ、そいつの腹に膝をめり込ませた。

「いや、マジで新海の顔に吐くかと思ったわー」
 げらげら笑いながらゾンビ柚木は言って、煙草を持った右手をひらひらさせた。一緒に頭髪もひらひらする。まるで強風に煽られた後のバーコードのおじさんみたいだ。
「鳩尾直撃だからな。いやお前素質あるぜ、マリーンとは言わねえけど、どう? 管理人なんかやってねえでそっちの道に転職考えたら?」
「そっちって代表、自衛隊とかっすか?」
 こちらは豊かな金髪巻毛のゾンビに扮した渡邉が、自分のシャツを引っ張りながら訊ねた。血染めの──というか、血染めを模した──シャツを洗いたくて仕方ないらしい。職業病だ。
「自衛隊じゃなくて民間とかさあ」
「民間って、アレっすか?」
「うん、PMC」
「いや、ねえから。営業職の転職先がPMCとかねえから」
 新海は素早く突っ込み、自分のコーヒーを啜った。
「それよりお前らいつまでそのナリでうろうろする気だ」
 用事があって不在だという岡本を除くユズキクリーンサービスは、全員ゾンビの仮装中だ。
 しかし、仮装とはいえあまりの完成度の高さにぞっとさせられる。喫茶店スペースがゾンビに占拠されている絵面は、中の奴らをを知っている新海からしても不気味としかいいようがない。
「これから知り合いの店のハロウィンイベントにバイトで出演してくるんだわ。それから落としてもらう」
「バイト……」
「だってこれ完成までに五時間かかってんだぜ? あんたを驚かせて終わったら勿体ねえじゃん」
 柚木は言って煙草を揉み消した。
「元々ハリウッドで特殊メイクやってて、今は殺し屋の変装とかメインで請け負ってる奴がいてさあ、そいつに頼んだんだよな。見ての通り腕はいいんだけど、鎮痛剤の依存症で、薬切れるとカリカリすっから面倒くせえんだよなー。それが原因で会社辞めて、何でか知らんけど日本に流れてきたの」
 下手な漫画の設定としか思えないような台詞は聞き流すことにして、新海はコーヒーカップを濯いで洗い籠に置いた。
「その辺はどうでもいい。何だ、じゃあ主目的は俺を驚かすことだったのか」
「うん」
 それだけのために五時間。
 無邪気に頷いた柚木に呆れ顔を向けた新海を見て、渡邉が「代表が新海さんのためにやるってきかねえんですよー」と笑い、石津が「でもお前も乗り気だったじゃん」といい、堀田が「頭が痒くなってきた!」と喚いて志麻は相変わらず黙っていた。
「さーて、そんじゃそろそろ行くかなあ」
 柚木が立ち上がって伸びをした。だが、見た目は全身が土気色のゾンビ姿。そのままか、と思ったが、まあ街中も既にハロウィン一色だから、せいぜい子供が泣き出すくらいで通報されたりはしないだろう。
「じゃあ後でな」
 禍々しい笑顔を新海に向け、今にも抜け落ちそうな髪をなびかせた柚木が颯爽とドアを潜る。続く面々が「いってきまーす」と言いながら元気に店を飛び出して行く。
 最後尾の志麻が扉を閉める直前に不運な通行人の悲鳴が響き、閉まったドアに阻まれてぷつりと途絶えた。

「やー、堀田じゃねえけど痒かったわ」
 挨拶もなくドアを開けて入って来た柚木を見て思わずがっちり抱き締めたら、柚木は新海の脛を思い切り蹴っ飛ばした。
「何だ一体! 苦しい! 離せ!」
 構わず鼻先を髪に突っ込み、微かに残るシャンプーの匂いを嗅ぐ。言われなくても解放しようと思っていたのに、我慢の利かない柚木が唸り出し、ボディブローを食らわされた。
「……!! おま……手加減──!」
「してるに決まってんだろうが! 俺がマジで殴ったらそれこそ吐くぞあんた」
 柚木は鼻息も荒く宣って、悶絶している新海の横を擦り抜けソファに向かった。
「──まったく……」
「あんた俺よりでかいんだから、あんなぎゅうぎゅうされたら息が詰まるじゃねえかよ。俺は抱き枕じゃねえんだっつーの」
 憤然とした様子で言い、柚木は手に持っていた紙袋をテーブルにどんと置いた。新海はそんなものを持っていたことすら気づかずにいたのだが。
「いや、悪い……お前にちゃんと髪の毛があると思ったら嬉しくて」
「ああ? ああ、あれなあ。中々衝撃的だったな。つーかさ、コスプレすっと燃えるって言わねえ? 喜ぶかと思ったのに」
「あれで燃えたら俺は人間失格だと思う」
 しみじみと言った新海の台詞を聞いていたのかいないのか、柚木は鼻歌を歌いながら紙袋の中身をごそごそと取り出し始めた。
「はい、おみやげ」
 新海は本日二度目のギャーを発した。
「なんだこりゃ! 呪いのマスクか!? それともSF映画の雑魚キャラのマスクか!?」
「えーそういうこと言う? わざわざあのアメリカ的カボチャジャックじゃなくて、伝統的な蕪のジャック・オ・ランタンを模してもらったのに! 大根だけど」
 柚木が取り出したのは白くて丸いブツだった。確かに、素材は蕪ではなくて丸大根に見える。そこに半月形の目と、同じ形の口がついている。有名なカボチャのランタンは可愛らしいが、これにはもう、怨念しか感じない。
 モデルになった伝統的な何たらはそうではないのかもしれないが、幸か不幸か、新海は本物を目にしたことがなかった。
「つーか、わざわざ作ってもらった……?」
「そう、あんたのハロウィンのお供に」
 柚木はさっきのゾンビより余程禍々しい代物を大事そうに撫で回した。
「ハロウィンってここ数年お祭り騒ぎだろ? そんで、それに紛れての仕事ってのが多くなって、こっちの世界では新たな書入れ時になってんだよな。そんなんでウチも明日は忙しいし、おまけにお祭り騒ぎは夜中だから、あんたを運転手で駆り出すのは控えるだろ。そしたらほら、一緒にハロウィンパーティーってわけにもいかねえしな」
 だから昼間のあれってわけだ、と嬉しそうに種明かしをする柚木を見て、新海は密かに我と我が身を呪った。
 こいつは馬鹿か。それともこれがアメリカ人の感覚か。
 どっちにしてもどうしようもなく新海とはズレている。どうしてこんな奴を──と嘆きつつ、同時にかわいい、とか思っているのだから処置なしだった。

「……ちょ、待て、待てって──しん、か、ぁあ!」
 やわらかくほどけた粘膜を探り、硬くしこった部分を見つけ出す。先端でそこを突き、ゆっくり擦り上げるように押し込むと、柚木は悲鳴を上げて仰け反った。
 新海の下で柚木が身体をくねらせ、声を上げる。
 照明を消した室内は、しかし月明りのせいで明るかった。ブラインドから差し込む弱い光が柚木の身体をまだらに照らし、胸の猛禽が、まるで今にも飛び立ちそうにざわざわと蠢いて見えた。
 仮装なんかいらない。
 ゾンビは論外だが、そうでなくても、どんなコスチュームも必要ない。何も身に着けていない柚木の身体が欲しい。余分な肉も脂肪もない、極限まで引き締まった強靭でしなやかな身体が、新海を受け入れ飲み込んで蕩ける様が見たかった。
「柚木」
 髪を撫でながら名前を呼ぶ。
 身体を二つに折り畳むように圧し掛かる。奥を突かれ、甘い声で喘ぐ柚木をこのまま小さく畳んで仕舞い込みたいと馬鹿なことを考える。
 ハロウィンの起源は死者が家族に会いに来る、日本のお盆のようなものだと本で読んだことがある。合っているのかどうかは知らないし、別にどうでもいい。
 ただ、誰の目にも、死者の目にも触れないように。
 柚木が片付けてきた死者たちが、罷り間違ってもまた会いたいなんて思ったりしないように。
「ん、あ……あっ」
 掠れた声を聞きながら、今だけは、他の誰も見ていない、と考えて満足した。
 今、ここにいて涙を滲ませ身悶えている柚木は俺のものだ。

 そう、蕪のランタンも、きちんと紙袋の中に片付けた。