2017-2018 年末年始仕入屋錠前屋

 正月はゆっくり温泉にでも浸かりてえよなあ。
 と。
 確かに言った。
 年末の忘年会時期はいつも目が回る忙しさだというのに、今年は輪をかけて酷かった。だからつい口にしただけで——別に温泉は嫌いじゃないが——本当に行くつもりも、特別行きたいという気持ちもなかったと言っていい。
 そんなのちゃんと理解しているはずの仕入屋に、哲はまたしてもうっかり拉致された。しかも、松の内はとうに終わって正月ですらないというのに。
「またかよ!」
「ぎゃあぎゃあ喚くなよ、うるさい奴だな」
 おかしそうに笑い、秋野は窓の外に顎をしゃくった。
「アクション映画ばりに飛び降りてもいいぞ」
「新幹線からどうやって飛び降りろっつーんだよ! 窓ぶち破れってか? ああ?」
 哲が歯を剥いて唸ると秋野はますます笑った。
 バイト先の居酒屋は四日から営業していたが、田舎に帰省しているバイトが数人いた。そいつらとシフトを交代したから、哲は今日と明日が休みだった。喧嘩と錠前以外は無趣味と言っていいし、独身男の独り暮らしではたいしてやるべき家事もない。どうせやることがないのは確かだが、だからと言って男同士連れだって温泉宿に行く趣味もない。
「つってんのにてめえは!」
「今日はよく吼えるな」
 秋野は発車前に哲が逃げ出さないよう通路側に陣取ったまま、相変わらず座席のスペースに収まりきらない長い脚を通路に投げ出していた。正月休みも三連休もとっくに終わった平日のど真ん中、車内は閑散としていて、通路を通る乗客も滅多にいない。
「また二時間も吸えねえんだぞ」
 青筋を立てた哲に片眉を上げて見せ、秋野は呆れた溜息を吐いた。
「そこなのか」
「何で車にしねえんだよ、車に!」
「——お前ね、三時間以上かかるんだよ、高速使って」
「それがどうした」
「それは我慢できるのか」
「禁煙タクシーじゃなきゃな!」
 行かなければいけない場所に行って二時間煙草を我慢することには問題ないのに、意志に反して連れてこられたと思うとやたらと辛い。前回は駅弁を食って眠っていたからすぐに着いたが、今回は何故かちっとも眠くならずに難儀した。秋野は目を閉じていて長い睫毛も動かない。眠っているなら脇腹でもつついてやるかと指を伸ばしたら逆に手首を掴まれ掌をやたら濃厚な舌使いで舐められたので、もう構わないで放っておいた。
 この後また在来線に乗り換えて一時間だというのは前回来たから知っている。うんざりしながら秋野の後についていくと、何故か駅ビルの外に出た。
「……こないだんとこじゃねえのか」
「いや、あそこだよ」
 そう言って秋野は電話を取り出しどこかに連絡し始めた。新幹線の中で連絡済みだったらしく、通話を終えた秋野の向こう、道路の向かい側からジーンズにパーカーという何の変哲もない格好の若い男が手を振っている。
「ちょっと待ってろ」
 言って秋野はさっさと男に近づいて行く。ぼんやり様子を見ていると、秋野は二言三言交わした後男から何か受け取った。男は秋野に手を上げて、あっという間にいなくなった。戻ってきた秋野は何も言わずに歩き出す。いちいち訊くのも面倒で黙ってついていくと、秋野は路上駐車してあったRV車の前で立ち止まった。

「今回は何だよ」
 立て続けに二本吸ってようやく落ち着いた哲が訊ねると、ハンドルを握る秋野は横目で哲を一瞥した。
「何が?」
「前回は仕事があったろ、中牧さんに頼まれたやつ。今回は何で俺が行かなきゃなんねえんだ」
「別に。温泉に浸かりたいって言ったろ」
「本気じゃねえし、とっくに正月じゃねえし」
「正月は混む」
「あのな」
 それ以上何も言う気がないらしいので哲も黙った。
 どうせ、中牧のばあさんか母親か誰かに呼び出されでもして、一人で行くのが億劫だったに決まっている。そこに哲が不用意な一言を吐いたから、付き合わされたということだ。そうは言ってもそっちの事情に絡ませる気は多分ないのだろう。どうせまた哲を置いてどこかで誰かと気が進まないながらも顔を合わせて、普段通りを装った疲れた顔で帰ってくるに違いない。
「——出先で車使うときくらい、普通にレンタカー借りりゃいいじゃねえか」
 どうでもいい話題を振ったら、諸々理解したらしい男は、数秒黙った後言った。
「わナンバーなんか乗れるか」
「はあ? 何だその意味分かんねえ拘り」
 ひっくり返った哲の声がおかしかったのか、秋野は薄茶の目を細め、声を上げて笑った。
「なあ、おい」
「うん?」
「部屋は別なんだろうな」
「どう思う?」
 ウインカーを上げた秋野は前を向いたまま口の端を曲げて笑う。
「別に……どっちでもいい」
 一瞬、目だけ動かしてこちらを見た秋野と視線がぶつかる。すぐに前方にもどったそれを何となく追いかけ、哲はだらしなく尻をずらしてダッシュボードに膝を押し付けた。
 どっちにしたって、どうせ捕まり、貪り食われる。
 湯の匂いと、背中に当たる濡れた木の床の感触を思い出しながら、今頃訪れた眠気に哲はゆっくり目を閉じた。