仕入屋錠前屋20 その手で引き金を 4

 秋野が使う業者には色々いて、稲盛のように普通の商売をしていながらも便利なやつから、上から下まで怪しげなやつもいる。それらの業者や依頼人、単なる知り合いまで。人脈を駆使した秋野は、難なく岡本伸一に関する話を集めてきた。敏史のほうは稲盛が大学の友人から聞いた話以外には特に何も出てこなかったものの、兄は後ろ暗いこともそれなりにあったらしい。
 とはいえ、基本的に自分から何かをやらかすタイプではなく、常に誰かと行動を共にしていたようだ。ここ何年かは、山城《やましろ》時雄《ときお》というチンピラとつるんでいて、どうやらこれがあのゴルフウェア男らしかった。
「その山城ってやつと、あの学生の兄貴が仲間割れしたってわけか?」
 秋野からの電話で呼び出された哲は、不本意ながらも秋野が指定した店にいた。バイトの上がりを見計らったようにかかってきた電話に──毎度のことだが──慄いたせいもあるし、秋野の声が不機嫌だったせいもある。
 目立たない看板の電気が消えかけて更に目立たなくなったバーの中は、客はおろかバーテンダーの姿もなかった。がらんとした店内はBGMもなく静まり返っている。秋野の知り合いの店らしく、気を利かせたのか、知り合い当人の姿はどこにも見えなかった。
「そうらしいな。山城本人が轢き殺したんじゃないかと専らの噂らしい」
 秋野は耀司の電話のせいで寝不足だとかで、不機嫌そうな顔をしていた。寝入りばなを起こされたのだそうだ。それでもこれだけきちんとして見えるのだから、寝起きでも仕入屋はご立派だ。
「ふうん。じゃあ稲盛の学校のあいつは、やっぱり兄貴の復讐ってやつか」
 哲が煙を吐き出すと、秋野は億劫そうに頷いた。
「真面目な大学生が、危なっかしいったらないな」
「真面目な大学生だから、なんじゃねえの」
 つき合いが浅いうちなら分からなかったかもしれないが、秋野は半分眠ったような顔をしていた。終電で眠り込む酔っ払いのように哲の肩に頭を凭せかけてきたので、哲の頬に秋野の髪が触れる。
「哲」
「ああ?」
「——見て見ぬ振りってのはどうだ」
「お前がそうしたいんならそうしろよ」
 予告なしに肩を引いたら秋野の頭ががくりと落ちる。哲は垂れた頭を肩で小突いた。
「そんな気もねえくせに。よしとけ、悪人ぶるのは」
「何が気に入らないって、この世で一番お前が気に入らないよ」
「嘘吐け、お気に入りのくせに」
「今この瞬間は嘘じゃない」
 憮然として立ち上がった秋野に向かって、哲は思い切り煙を吐きかけた。

 

 敏史が連れて行かれたのは、古びたビルの隣、シャッターの閉まった倉庫だった。消えかけた青い文字で「西」「航空貨物」と書いてある。西のあとの文字は判読不可能になっており、長い間放置されている様子が窺えた。
 敏史に銃を売った男は、倉庫が見えたところで背を向けた。じゃあねー、と場違いに明るい挨拶をして手を振りながら来た道をひとりで戻っていく。敏史はからからに乾いた喉で何とか唾を飲み込むと、倉庫に向けて歩き出した。
 復讐なんて考えたこともなかった。
 兄と違ってごく普通の──ありきたりの学生生活しか知らない敏史にとって、兄の生活や銃の密売なんてものはあまりにも遠すぎた。
 小説や映画ではないのだ。海外ではどうか知らないけれど、少なくとも敏史の周囲にそんな現実はおいそれと転がっていなかった。もしかしたら見えていないだけかもしれない。しかし、見えなければ存在しないのと変わらない。少なくとも、敏史にとっては。
 だから、いくら兄の死因を疑ってみたところで、それがいきなり山城と言う男への報復行為に繋がるようなことはなかった。しかしそれならなぜ、小さな黒い鉄の塊を握り締め、自分はここに立っているのだろうか。
 決心したのは何がきっかけだったか、もう覚えていない。真理恵の泣き顔かもしれないし、急激に老いた父の背中かもしれないし、どれでもないのかもしれない。ただ、銃が原因で兄が死んだなら、銃で山城を傷つけてやりたいと漠然と思っただけだった。
 殺したいとまでは思えず、殺人という言葉に憧れも実感もない。それが自分の限界なのかもしれなかったが、それならそれで構わなかった。自暴自棄といっていいほどの気分で、そんな自分の指を見つめる。敏史は、埃で煤けたシャッターに、震える指をそっと伸ばした。

 山城は広い倉庫に積み上げられた古いダンボール箱の山のひとつに腰掛けていた。頭にネットとガーゼが当ててある。どこか痛むのか不自然に前屈みになっていて、機嫌が悪そうだった。
「お前、オカモトってあの岡本の身内か? 伸一の?」
 刺々しい声音に、胃がこわばり捩れたように痛みが走る。激しく打ち始めた心臓の鼓動を無視しようと努めながら頷いた。
 緊張が過ぎて表情には出なかった──出せなかったが、山城の顔を見た敏史はひどく驚いていた。数日前に稲盛と訪れた居酒屋で暴れた男だったからだ。知らなかったこととはいえ、山城を目の前にして呑気に飯など食っていたあの日の自分に少し腹が立つ。
「あー、そういや弟がいるっつってたな。お前がそうか」
 そう言って、山城は敏史の右手に握られた二十二口径の銃を忌々しげに見やった。
「何だよ、それ。復讐でもしようってか? ああ? 大体な、自業自得だったんだよ、あの薄ら馬鹿はよ」
 苛々と貧乏揺すりをしながら、山城はそのきつい顔立ちを歪ませて立ち上がった。敏史の右手に油断なく目をやりながらも、じりじりと近寄ってくる。
「銃なんかよくない、なんてすっとぼけたこと言い出しやがってよ。じゃあ最初から断れっつーの。挙句の果てには自首するとか何とか。てめえが自首したってなあ、警察だって喜びゃしねえよ、何も知らねえ下っ端が」
 いきなり山城の手が伸びて、手の中の銃を叩き落された。半分力が抜けたようになっていたのか、呆気なく弾き飛ばされた鉄塊は、敏史の手が届かないシャッターの方へ滑っていく。山城が残忍そうな笑みを浮かべた。
「おら、俺に復讐しいんだったらしてみろよ、ガキ」
 ぎこちなく振り上げた拳を腕で払いのけられてバランスを崩す。見上げた山城の唇が歪み、先の尖った革靴が敏史の顔面に迫ってきた。
 
「おー、子供相手だと随分と威勢がいいじゃねえか」
 ガラガラとシャッターが上がる音の後から、どこかで耳にしたような声が聞こえてきた。今まで頭の上にあった山城の足の重みがなくなったので、顔を持ち上げてみた。床に横たわったまま顔を向けると、見たことのある男と、もう一人、知らない男がシャッターを潜って倉庫の中に入ってきたところだった。
 一人は稲盛が連れて行ってくれた居酒屋で山城を殴りつけた店員だった。稲盛の知り合いだ。山城もそれに気付いたのか、てめえ、とドスのきいた声を出した。
 あとの一人はやけに薄い色の目をした長身の男で、あからさまではないものの、どこか不機嫌そうな顔をしている。男は足元に落ちていた銃を拾い、つまらなさそうな顔で手の中の黒い物体を眺めていた。
 あちこち殴られ痛む身体を無理矢理起こす。敏史が立ち上がった途端、その男が拳銃を放ってきた。咄嗟に受け止めた敏史に向かい、男は感情を窺わせない声で言った。
「さあ、やれよ」
 その声は、敏史に銃を持たせないと言った男──仕入屋という男の声だった。

 

「その手で引き金を引け」
 哲の背後に立つ秋野の低い声が、建物の中に不吉に響いた。
「そのつもりで手に取ったなら、自分の手で終わらせろ」
 岡本という学生は、銃を握った手を細かく震わせていた。山城に散々やられたのだろう、目のまわりが赤黒く腫れている。顔以外も痛むのか、軸が斜めになったように不自然に身体が傾いでいた。
 山城は哲をちらりと見た後、銃を持って秋野を見つめる岡本から数歩後ずさった。哲は肩越しに秋野を見たが、秋野は岡本に目を向けたままだ。岡本は何かを決意したように、突然銃を両手で構え、山城に向けた。
「お、おい、やめろよ、危ねえだろ」
 山城が引き攣った笑いを浮かべ、降参だというように両手を上げて見せる。岡本は無表情のまま、腕を激しく震わせながらも山城から目を離そうとしなかった。
 秋野は錆の浮いたシャッターに凭れて身じろぎもしない。半眼になった目はしかし、岡本の一挙手一投足をも見逃さないというように光っている。山城もまた時間が止まってしまったように動かず、岡本の腕以外はすべてが静止していた。
 まるで出来の悪い芝居でも見ているような気分になった。もっとも、哲自身は劇場に足を運んだことなどなかったが。
 山城の酷薄そうな顔を見ていると、わけもなく腹が立つ。ぶちのめされた岡本に同情も共感もしないが、素人の子供を痛めつける山城は気に食わなかった。ふつふつと湧き上がる苛立ちが、どこかに滲み出たのだろう。できればこの前より徹底的に——椅子など使わず素手で——殴りつけてやりたかったが、秋野に目で制されて肩を竦めた。
 そんなふうに睨まれなくても、俺の喧嘩じゃないってことくらい分かってる。
「——できないなら、それを置け」
 かなり長い時間が経って、秋野が静かにそう言った。
 岡本は青白い顔を秋野に振り向けた。同時に銃口が山城から僅かに秋野のほうに動く。哲は思わず一歩前に出た。真っ青な顔に細かい汗の粒を浮かべた山城は、固まってしまったように動かない。
「でも、俺は」
「お前はまだ何もしてない」
 秋野の柔らかな声に、岡本は糸が切れたように腕を垂らした。
「何もなかったふりをしろ」
「そんな——! そんなのは、卑怯で嫌だ!」
「だからそうしろと言ってるんだ」
 打って変わって低くなった秋野の声に、岡本の顔が一段と強張った。獣の如く光る秋野の目に怖気づいたように、銃を持ったまま半歩後ずさる。
 山城にぶつかりかけ、飛び退った山城に驚いたように立ち止まって地面に目をやり、また秋野に視線を戻す。そうして、自分の握る拳銃をまるで未知の物体を見るような目で凝視した。
「ここまでして山城を撃てなかった、傷つけることができなかった。ずっとそう思いながら真っ当に生きていけ」
 秋野は、岡本に向かって一歩踏み出した。右手を差し出し、岡本の目を見つめる。
「寄越せ」
 呆けたように目を見開いたまま、岡本は秋野に拳銃を差し出した。銃口を秋野に向けたままだ。哲は思わず舌打ちしたが、黒光りする鉄の塊は無事に手から手へと移った。
「哲」
 ハリウッド映画でよくやるようにデニムの腰に拳銃を挟んだ秋野が、哲を呼んだ。岡本はその場に突っ立ったまま、ぼんやりと山城を見つめている。
「ナカジマさんに電話して、こいつを引き取ってもらえ」
「ああ」
 哲は岡本と山城の間に立った。岡本からの視線を遮られた山城が我に返ったように哲を見た。
「つーか、なんでお前は俺がおっさんの連絡先知ってんの知ってんだよ」
「何でも知ってるんだよ」
「むかつく……あれ、なんて名前で登録したんだっけな──」
「ナカジマだろ、ナカジマって苗字なんだから。それとも北沢のナカジマにしたとか」
 北沢のナカジマと聞いて、それまで固まっていた山城が青い顔を土気色に変えて目を瞠った。
「あ、あった。これだ」
「おい、待てよ! 北沢の中嶋って……何なんだてめえら、いきなり出てきて、なんで」
「うるせえな、聞こえねえだろ」
 喚く山城を睨みつけて、哲はナカジマの携帯を呼び出した。
「てめえ──!」
 呼び出し音を聞きながら、肩を掴んできた手を力いっぱい払いのけた。よろめいた山城の胸倉を掴んで引き寄せ、その眼前で歯を剥き出す。
「大人しくそこに座ってお迎え待ってろ」
 床に突き飛ばされた山城は、蹲って頭を抱えた。

 山城と、秋野が丁寧に指紋を拭った岡本の拳銃は、ほくほく顔のナカジマに熨斗をつけて引き渡した。山城は呆けたような顔をして、ナカジマが連れてきた若いヤクザに引き立てられて出ていった。
 ヤクザを誤魔化して儲けようとした山城がどんな目に遭うのかは知りたくもなかったので、秋野と哲は早々に退散し、岡本を実家の前まで送っていった。一人で帰しても良かったけれど、ぼんやりした岡本が車に轢かれでもしたらそれこそ冗談にもならないと思ったのだ。
 一人暮らしのアパートの場所を訊ねようとした哲を遮り、秋野は岡本を実家に連れて行くと言った。事前に実家の住所は調べていたらしい。岡本は特に抵抗しなかったけれど、抵抗したところで秋野は思うとおりにしただろう。
 岡本家は寝静まっていた。勿論、同居だったとしても息子の夜遊びに親が付き合うわけもない。もっとも今回はいささか危険すぎる夜遊びだったが。
 家の前に着いた岡本は暫くそのまま佇んでいた。見つめる部屋の窓は、もしかするとかつて兄の部屋であったところなのかもしれないなと何となく思う。思うが、そんなのは他人の勝手な想像でしかない。窓は窓。それだけだ。
 岡本は振り向き、蒼白な顔で秋野を見上げてお辞儀をした。育ちのよい、よく躾けられた平凡な大学生。岡本本来の姿は、そこにあるのだ。子供っぽさが今尚残る顔を歪めると、岡本は秋野と哲の顔を見ずに呟いた。
「ありがとうございます。すみませんでした——」
 地面に落ちた涙が見えなかったように、秋野はただ頷いた。

 秋野はひどく不機嫌だった。寝起きの不機嫌さはとうに消えていておかしくないので、何か理由があるのだろう。岡本の行動や、涙や、とにかく哲には分からない何かに。
 どちらにしても自分のせいではないから不機嫌に睨まれても痛くも痒くもない。自分のせいだったとしても大して心は痛くはないだろうが。
 照明も点けずいきなり壁に押し付けられた。そのくせ一言もなく、動きもしない秋野に、哲は思いつくままに訊ねた。
「お前、銃を扱ったことあんのか」
「ああ」
 秋野は低く、間近でもほとんど聞き取れないような声で答えた。哲の首筋に顔を埋めているので、声がくぐもっている。岡本から受け取った銃を慣れた手つきで扱っていた秋野を見て、何となく思ったのだ。哲は本物の拳銃など見たこともなかったし、そもそも本物と偽物の区別もつかないが、秋野はそのへんにある日用品と変わらない気安さで銃を手に取っていた。
「誰かを撃ち殺したこともあんのか」
「ああ」
 即答に、何となく想像はしていたものの、さすがに驚いた。怖い男だと思うし、時折見せる素の部分に得体の知れない何かを感じる。しかし、訊いておきながら何だが、本当に人を殺したことがあると思ったことはなかった。
 秋野の手がシャツの裾から中に入ってくる。Tシャツを引き出し、脇腹に触れた指先は、やけに乾いていて冷たかった。
「冷てえ」
 自由になる右足で脛を軽く蹴飛ばす。秋野の顔が動き、哲の頬に息がかかった。こめかみの瘡蓋を舌で辿られ、傷を触られる嫌な感覚に眉を顰める。
「剥がすなよ」
「分かってるよ、しつこいな」
「信用ならねえんだよ、お前は」
 秋野が何を考えているのかは知らないが、山城をぶちのめすことができなかった鬱憤をここで晴らすのも悪くはない。歯列をなぞる舌に敵意を持って攻撃を仕掛けると、秋野はちょっと笑った。
「噛むのは構わんが、食いちぎらないでくれ」
「さあ、どうすっかな」
 大きな手で頭を抱え込まれる。光の加減で黄色っぽくも金色にも見える薄茶の目が、顔の間近で凶悪に光を放った。
「何が俺を不機嫌にさせるかって、哲、お前以上にそうさせるものなんかない」
 秋野の声はしゃがれて、威嚇するような響きだった。こいつなら、この長い指で迷わず引き金を引いただろう。自分の口元にある秋野の指を見て、そんな思いが頭をかすめた。指先が唇を割って、口蓋をなぞる。齧りついてやろうかと顎に力を入れたら、何を察知したものか、指はあっという間に撤退した。
「……お前と本気で殴り合ったらどうなるかな」
「上等だ。今からやるか?」
 哲は秋野を睨みつけた。秋野がそうしようとひと言言えば、哲は嬉々として秋野の腕を振りほどく。別に秋野が言わなくたって構わないのだ、本当は。
 ただ、どうしてか分かってしまった。秋野は多分、殴り合いたい気分ではない。頚動脈を親指で強く押された。太い血管を流れる哲の血を感じようと、指の腹をより一層押し付けてくる。獰猛な瞳の奥に見え隠れする不機嫌さ。それは多分、怒りより少しだけ、違うものの分量が多い不機嫌さだ。
「──またの機会にな」
「そりゃ残念」
 本気で残念。お前も多分、分かっているとおり。
 小さく肩を竦める哲の襟足を、秋野の指がきつく掴む。力を入れ引き寄せられて、思い切り下唇に噛みつかれた。
「痛え、馬鹿」
 哲は潜り込んできた舌にお返しとばかりに齧りつきながら、片頬を歪めて小さく笑った。