君のすべて 6

 その建物には看板も目立つ装飾もなく、一見すると独身者用のマンションか何かに見えた。実際は入口に部屋を選ぶためのパネルがあり、専用のエレベーターと廊下がある──要するにラブホテルだった。
 曾山は居酒屋を出てからほとんど何も喋っていない。桑島は桑島で、ポケットの中で突然重さを増したように思える携帯に気を取られ、黙って曾山の後ろを歩くだけだった。そうして到着したのがこのホテルの前だ。こんな建物の入り口に、この間久し振りに再会した同級生、しかも男と一緒に並んで立っているなんて一体何の冗談なのか。自ら招いたはずの状況に軽い眩暈を覚え、桑島は目を瞬いた。
 曾山がカードキーで部屋のドアを開ける。リゾートホテルのようなインテリアは趣味がいい。何も知らなければただのホテルだと思うところだ。
 曾山は部屋に入るなり靴を蹴り脱ぎ、ソファにどっかりと腰を下ろした。煙草を取り出し銜えて火を点け、一口吸いつける。
 桑島を見上げる顔にはこの場に似合う感情も、衝動も、欲望もない。あるのはただ、きちんと説明しろと促す表情だけだった。それでもホテルに来たということは、頼みを聞いてくれる気もないではないのか。
「……で?」
「……うん」
「分かんねえだろ、それじゃ」
 曾山は眉間に皺を寄せて顔をしかめ、桑島を手招きした。まるで犬を呼ぶような仕草に突如笑いがこみ上げる。酔っ払っているときのような笑いの発作。しかし、同僚と飲んだ酒はすでに醒め、今はほとんど素面だった。
「酔ってて言ってるわけじゃないんだ」
 今時はクールビズが主流だが、営業職にはあまり関係ない。勿論ないほうが涼しいし楽だけれど、営業がノータイだと嫌がる客はいまだに結構存在するのだ。今日もきっちり締めていたネクタイが首輪のように思えてひどく苦しい。桑島はチョコレート色に淡いラベンダー色の小紋柄が散ったネクタイを乱暴に解き、上着のポケットに突っ込んだ。掌で顔を擦り、座った自分の膝に目を向ける。曾山の顔が見られなかった。
「──俺のこと、好きだって言うんだ」
 指がポケットの中の携帯を撫でていることに、桑島は少しの間気付かなかった。
「あいつはあいつで悩んだみたいだけど、それでも迷いなく言うんだ。俺が好きなんだって」
 部屋のどこかで空調が唸る微かな音。曾山のふかす煙草の煙が目の前を流れていく。
「俺だってあいつが好きだ。可愛い後輩だし、いい奴だから。でも、俺もあいつもゲイじゃない。お互い同性に興味ないのに、どうしてお互いだけが特別になれるんだ? どうして、恋愛ができるんだ? そんなの、おかしくないか」
「さあな。俺には分かんねぇ」
 曾山の両耳の細い銀の輪に何となく目が行った。きつい顔立ちとピアスが良く合っている。男らしい骨組みながら細身の身体も、すっきりした顎の線も、昔から女を引きつけた。
「知りたいんだよ」
「何を」
 桑島は拳を握り締め、爪が食い込む掌をどこか他人のもののようにじっと眺めた。
「あいつとセックスできるのは、あいつが好きだからなのか、流されてるだけなのか知りたいんだ。俺はあいつに恋してるのか、それとも依存してるだけなのか。あいつは他の誰かとどう違うのか」
 自分勝手もいいところだ。分かっていたが、引く気はなかった。
 どうしても知りたい。このまま薮内を引きずり回してお互い擦り切れてしまうなら、曾山を利用することにためらいはなかった。
「……気が乗らねえんだよなあ」
 曾山はゆっくりと煙草を揉み消して指の長い手を伸ばし、桑島の髪をくしゃりと掻きまぜた。子供に接するようなその仕草に、欲はまったく見当たらない。
「お前相手じゃその気になれないってことじゃねえぞ」
 曾山は桑島の顔を覗き込むようにして身を屈める。その仕草が薮内を思い出させて胸に錐を差し込んだような痛みが走る。
「こんなの間違ってるって思う。お前をいいように利用して最低だとも思ってる。だけど」
「俺を利用するのはいいよ。けど——こういうのって、大抵ばれるぞ」
「……」
「お前、もし俺と寝て、それが原因でそいつと壊れてもいいのか? 何もこんなことしなくたっていいんじゃねえのか」
「知りたいんだよ」
 桑島が呟くと、曾山はわかったよ、と低く言い、桑島の腕を取った。至近距離で桑島の目を覗き込み、曾山は小さく息を吐く。
「俺は何ひとつ責任取らねえぞ。それに」
「何だよ」
「……いや、別にいい」
「何だよ、気になるだろ。言ってくれよ」
 曾山は桑島の頬に触れ、ほとんど聞き取れないくらい小さな声で呟いた。
「分からない、って顔はしてねえけどな、お前」
 そう言って、曾山は桑島の腕を掴む手に力を込めた。立ち上がる曾山に引っ張り上げられるようにして立たされる。向かい合った身体が密着したと思ったら口づけられた。
 淡々とした物言いからは想像がつかないくらい濃厚なキスに、膝が震えた。腕を掴んでいない方の曾山の手が股間に触れる。巧みな指の動きに思わず鼻から抜けるような声が漏れ、曾山の舌は更に奥深くまで潜り込んできた。
「……曾山」
 間近にある曾山の顔には、やはり欲望の色は微塵も見えない。多分、自分もそうなのだろう。
「——シャワー浴びるか?」
 曾山は、頷いた桑島の背中をそっと押しやった。

  
 それが不貞と呼ばれるものなのか、そうでないのか、桑島にはよく分からなかった。薮内とは違う触れ方に、当たり前だが、人それぞれ違うんだなと思う。それだけのことだ。
 曾山が部屋を暗くしたのは、桑島への気遣いだったのだろう。顔もよく見えない暗がりで、しかし曾山を薮内だと思うことに意味はない。薮内でない誰かと身体を繋げて、そうして得るものが果たしてあるのか。
 一言も話そうとしない曾山の少し浅くなった息遣いに桑島が感じるのは、友達を利用しているという疚しさだけだ。
 涙が出た。
 どういう涙なのかは分からない。曾山の手が桑島の腿を抱え直し、腰の動きが速くなる。女性と違って——といっても女性にとっての本当のところは桑島には不明だが——挿入されただけで達することはできないから、自身のものに手を伸ばす。
 まるですべてが引き伸ばされたように薄っぺらな快感。曾山が低く呻いて引き抜き、身体を震わせる。直後、自分の掌が濡れる感触に、桑島はゆっくりと目を閉じた。曾山がいた店のビデオ。ああいうものを見ながら自慰するのと変わりはない。
 ただのセックス。薮内のそれとは、何もかもが違う。俺は何をしているんだろうと思うと鼻の奥が熱く痺れた。薮内だけではない、曾山にも酷いことをしているのだと改めて思い、堪え切れずにまた涙が溢れる。
「……馬鹿、だから言ったろ」
 コンドームの始末をしているのだろう。ティッシュを箱から引っ張り出す音、ゴムが丸められる独特のかさついた音がする。それは桑島の内心の軋む音によく似ていた。
「泣くなよ。俺が悪者みたいじゃねえか」
「ごめん。そんなつもりじゃない……」
「知ってるよ」
「曾山」
「あのな、生まれつきゲイだっつったって、男と寝るのには勇気が要るんだよ。ゲイがみんなそうかどうかは知らねえけど、少なくとも俺はそうだった」
 曾山の声は低く、部屋の床を這うように静かに響く。ライターの音と煙草の煙。薮内とは違う銘柄だと匂いで分かる。そんなことにも胸が締め付けられるような罪悪感で一杯になった。
「生物学上はさあ、男は女とセックスするのが正解なんだって、分かってるからよ。つまりは繁殖できるっていうのが、生物としてあるべき姿だって知らねえわけじゃねえもんな」
「……そうか」
「今は呼び方だってLGBTQとかつって、まあみんな結構気ぃ遣ってくれるし、生きやすくはなったと思うけど──あの、中学生くらいの頃のな。思春期ど真ん中に自分がホモなんじゃねえかって疑って、恐る恐るエロ本見る時の恐怖ったらお前、半端ねえぞ。なあ」
 空調の音だけが、饒舌な曾山の言葉の隙間を埋める。
「好きな男目の前にして興奮してたってさ、尻の穴に挿れるか挿れられるかしちまったらもう引き返せない、俺は一生普通になれない、って危機感があるわけよ。普通の定義とかそんなんどうでもいいやな。一生女としないままだったら? 幾らゲイとしてアイデンティティを確立したとしたって、なんか生き物としては失格だって思うわけ。大袈裟かも知れねえけど」
「大袈裟なんて、そんな」
「お前だって最初の時、何とも思わなかったわけじゃねえだろ? 駄目なら女とやり直せる分悲壮感はなかったかもしんねえけど、だからってノンケ同士がほいほい寝られるもんじゃねえだろ」
「——分からない。決意して臨んだっていうのとは違った気がするけど」
 桑島は、腕で目を覆ったままそう答えた。確かに、あの時自分にこれといって決意はなかった。特別な嫌悪も、逆に言えば覚悟も。薮内とならしてもいい、漠然とそう思ったのだ。
「決意して臨むって、サムライかよ」
「おい、こういう流れで笑わせんな」
 うっかり笑ってしまった桑島の膝を曾山の足が軽く蹴飛ばす。
「笑えよ。つーかさ、諒の性格からして、気軽にやったとは思えねえけど」
「……」
「それでも、リスクは分かってて寝たんだろ。そいつのために、ここまでしてるんだろ。それが好きってことでいいんじゃねえの」
「……俺は……」
 曾山の手が桑島の前髪を掻き回す。薮内の愛しむような触れ方とは違う。宥めるような、労わるようなその仕草には、愛情ではない、何かもっと穏やかで害のないものがあるだけだった。
 曾山の手が触れて、目を覆っていた腕をそっと外された。
「俺の前で泣くんじゃねえよ、諒。慰めてほしい相手は俺じゃねえだろうが」
 曾山は桑島の顔を見て僅かに笑い、立ち上がった。ソファに身を沈める曾山を追うように、煙もまた、桑島の傍を離れて行った。