君のなまえ 3

 薮内はまったく言葉を発しなかった。
 片手でひとつに纏めた桑島の腕を引き伸ばすように押さえつけ、終始怒ったような顔をしていた。
 学生時代に一体何を勉強していたんだか。そんな思いが頭をかすめる。触れ、探り、追い上げる指先に迷いはない。まさか男性との経験はないだろうが、少なくとも拙いとか、消極的とは口が裂けても言えなかった。
 桑島も三十過ぎたごく普通の男だし、恋愛経験は豊富ではないが少なくもない。女性とは世間一般並みのお付き合いをしてきたと思っている。だから戸惑いはしたし勿論羞恥もありはしたが、少女漫画のヒロインのように大粒の涙を零して肩に縋ったり、恥らったりはしなかった。例え思ったよりも感じて声を上げてしまっても、押し開かれる苦痛に生理的な涙が滲んでも。
 半ば暴力的に抱かれても、薮内をひどいやつとは思わなかったし、恨む気持ちも芽生えなかった。ただ、女性との甘く穏やかなそれとは違う生々しさに、いくらか面食らったがそれだけだ。
 好きか嫌いか。恋愛か親愛か。
 それを思い悩むほうが余程胸の奥に応え、胃を掴まれたように痛みが走る。思ったほどの抵抗も嫌悪もなく事に及んだ自分は一体どこまで鈍いのか。
 どこまでも真摯な薮内が大切に思う価値など、およそこの自分のどこにもないと思うと、ぎりぎりと音を立てて胸が軋んだ。
 内容はまるで観ていなかったが、目の端で、頭の隅で、エンドロールを認識した。
 黒い背景に白い文字が流れるだけの暗い画面に、ソファの上の身体はほとんど照らされなかった。
 薮内が、桑島の耳元で荒く早い息を吐く。同じリズムで吐き出される掠れた声が自分のものだと気付いたのは、上り詰めて意識を手放す寸前だった。

「俺、帰ります」
 身じろぎした桑島を背後から抱いたまま、薮内は呟いた。
 少し眠ってしまったのだろう。いつ移されたのか、寝室のベッドの上で目が覚めた。それほど身長も変わらない眠った男を運ぶのは、いくら薮内が若いといってもさすがにきつかっただろう。真っ先にそう思ってしまい、我ながらおかしくなった。
 背中に当たる感触から薮内は服を着込んでいるのが分かる。対する自分は下着だけの姿だった。寝ている間に穿かされたかと思うと何だか間が抜けていて、発作的に笑いの衝動がこみ上げる。さすがにここで笑うのはどうかと思い唇を噛み締めて耐えていると、背後の薮内が口を開いた。
「……ごめんなさい」
 大人同士で合意の上でセックスして、ごめんなさいはないだろう。そう言おうとしたが、乾いた喉が貼りついたようになって一瞬声が出なかった。咳払いを二度すると、薮内が無理しないで、と呟きながら離れていく。
「薮内」
 呼び止めた声が聞こえないはずはなかったはずなのに。
 何も答えない薮内が静かにドアを閉める音が、暗い部屋に重く響いた。

「兄がお世話になってます」
 薮内葉月は、目元が兄にそっくりな女性だった。顔の造作全体はそれほど似ているわけではないが、やはり兄妹だと思わせる雰囲気が確かにある。几帳面に立ち上がって頭を下げる、その動きの滑らかさは営業職にあるというのが頷けるものだった。
「こちらこそ……頑張ってますよ、お兄さん」
 何と挨拶したらいいのか分からず言葉がつっかえた。葉月はこくりと頷いて席についた。桑島が近づいてきた店員にアイスコーヒーを頼み終えるのを見計らったように、葉月は緊張した顔で口を開いた。
「今日は、無理を言ってしまってすみません」
「とんでもない。帰り道だし——それより、こちらこそこんな時間まで待たせてしまって」
 火曜日の今日、薮内は出張だった。昨日の午後から飛行機に乗り、明日の昼に戻ってくる。昨日も朝から薮内は忙しそうにしていて、顔を合わせても、ろくに話す暇もなかった。
 日曜の夜にあんなことになったから、桑島はある意味胸を撫で下ろし、それでは今までと変わらないと自己嫌悪の深い淵を垣間見た。
 わざわざ薮内のいない日を指定したのは桑島だったが、葉月に否やはなかったようだ。会議で多少遅くなるがいいかと確認したら、畠山を通じて聞かされた答えはイエスだった。
「いえ、私も仕事が終わらなくて。だから、気になさらないでください」
 社会人らしい物言いだが、薮内の妹ということは桑島より五歳以上は若い。肩すれすれの髪は大袈裟でない程度にきちんと巻かれ、きれいに化粧をしてスーツを着込んでいるけれど、まだ若く、可愛らしさが勝っている。
「兄から聞きました。桑島さんが好きだって」
 葉月は、営業の話術はこの場では披露しないことにしたようだ。紹介云々の言い訳を挟むでもなく突然核心に触れた葉月の台詞に、桑島は言葉を探しあぐねて口を噤んだ。アイスコーヒーがやってきて一旦訪れた沈黙は、今度は中々立ち去ろうとはしなかった。
「——ごめんなさい!!」
 葉月がいきなり大きな声を上げ、思わずグラスを取り落としそうになる。
「え? いや、そんな、謝ることじゃ」
「もうどうして私ってこうなんでしょう!? これじゃあ馬鹿兄貴とおんなじですよねっ」
「え、ええ? なにが?」
「私、いつも上司に言われるんです。お前は何でもはっきり言いすぎるし、結論から言うのは分かりやすくていいけど、話には前置きが必要なこともあるんだって。そのへんの機微がちっとも分かってないって」
 顔を真っ赤にした葉月に桑島は思わず吹き出した。葉月の上司の言が、以前どこかで誰かに言った自身の台詞と驚くほど似ていたからだ。
「いや、あいつと葉月さんは違うから大丈夫でしょう。お兄さんは結論の上に皮肉と捨て台詞もつくからね」
「昔から口が達者で……! 上の二人の兄も、いつも——」
 曖昧に消えていく葉月の言葉。
 アイスコーヒーの氷が動いてからりと清涼な音を立て、反対に桑島の心はまたひとつかくりと挫けた。自分が知らない、知ろうともしなかった薮内というひとのひとかけら。
「──葉月さん」
「はい」
「この間、お兄さんといるのを見かけたんですよ。土曜だったかな。喧嘩してた?」
 葉月は俯けていた顔を上げ、掌で鼻の脇を軽く押さえた。
「……兄から、あなたのことを聞いて」
 葉月がほとんど口をつけていないアイスティーらしき琥珀の液体。それが入ったグラスの表面の水滴が、ぱたりとテーブルの上に落下した。ストローの先に薄く残った淡い口紅の色に、意味もなく指の先がちりちりした。
「私、やっぱり嫌なんです。自分の兄弟が——同性愛なんて。生まれたときからそうだっていうなら仕方ないけど、そうじゃなくて女の子も愛せるのに、わざわざ辛くて苦しい道を選ぶなんて」
 からからと、隣のテーブルから音がする。子供がジュースをかき混ぜるその音が、桑島の中の何かが崩れる音に奇妙に重なった。
「兄は、桑島さんは俺のことが好きなわけじゃない、って。きっと混乱してるだけで、同情とか友情とかなのは見てれば分かる、それでもあなたが好きだって」
「葉月さん、僕は」
「兄の心の中から、消えてください」
 葉月の顔は、上気していた。言いたくないことを言っている、それは薮内によく似たその目を見れば、言われなくてもよく分かった。そこに桑島への悪意があるとは思えない。
「こんなこと──悪いのは兄貴なんです。桑島さんを責めたりしたいわけじゃないんです。このままじゃ桑島さんに迷惑かけるだけなんだし、兄が言うとおり、可愛い後輩だから可哀相だと思うなら、兄を諦めさせてやって下さい。お願いします」
 氷が崩れた。
 またひとつ。
 グラスではなく葉月の瞳から滴が落ちた。桑島は、思わずその滑らかな頬に手を伸ばした。