君の匂い

「何言ってるんですか、冗談じゃないすよ!」
 薮内の怒声に、桑島は思わず溜息を吐いた。薮内の気持ちはよく分かる。
「大体ねえ、クライアントだからってあの態度何ですか」
 この時間は管理会社の守衛以外誰もいないビルのロビーに、自動販売機を蹴飛ばす音が鈍く響いた。
「桑島さんだって、何もそんな、あんな言われ方して黙ってることないでしょう」
「いい警官、悪い警官って言うだろ? 二人で突っかかったら一体誰が止めてくれるんだよ」
 得意先のクレーム処理に薮内を連れて行ったのは間違いだったかと、桑島は指先で目頭を揉んだ。
 相手は大手ながら、担当者の嫌味な言動で社内では評判が悪い。だが、対会社のつき合いであるから、担当者が嫌なやつだからといっておつき合いを終わらせるわけにはいかない。
 中途採用で異業種から来た薮内はこの業界があくまでもクライアント優位だということが今ひとつ納得できないようで、ことあるごとにこうやっていきり立っている。
 部内で一番年齢が近いというだけで彼の教育係に任命された桑島には正直迷惑な話でもあった。大体近いといっても彼は二十五で桑島は三十。若いやつのテンションについて行くには、ほんの少しオトナになりすぎたと自分では思っている。
「まあ、あそこは特別だからな。下手に怒らせても仕方ない」
 薮内は禁煙のはずのビル内で、平気な顔で煙草に火を点けた。桑島の表情をちょっと見て「吸いますか?」と眉を上げる。桑島が首を横に振ると、頷いてうまそうにひとくち吸いつけた。
「でも、やっぱり俺には納得行きませんよ。あんな、こっちを見下したやり方」
 紫煙を吐き出す薮内を見て灰は一体どうする気だろうと思いながら、前髪をかき上げる。
「いいか、仕事はな」
 無意識に頭を掻き毟りながら桑島は口にした。喋っているうちにどっと疲れて、自販機の前の椅子に座り込む。
「嫌いな相手を掌の上で躍らせてなんぼなんだよ。嫌いなやつに嫌われて何の得がある? 嫌ってる相手にこそ好かれてみせろ。どうせクライアント相手に吠えたって追い払われた上に会社に不利益なんだ。だったらせいぜいうまく撫でられてやるさ」
 薮内が桑島をじっと見た。煙草の先から灰が落ちそうになっている。
「落ちるぞ、灰」
「あ、っと」
 薮内はポケットから財布を取り出し自販機に硬貨を入れると、缶コーヒーのボタンを押した。
 がらんがらんと音が響いて、取り出し口に缶が落ちてくる。どうしてわざわざそんなものを買ったのかと思いきや、薮内はコーヒーを一口飲んで、すぐにその中に灰を落とした。
「勿体ねえな」
「いいんすよ」
 そう言って隣に座った薮内が「髪、大変なことになってます」と言って手を出してきた。さっき乱暴に引っ掻き回したから乱れているのだろう。妙に優しい手つきで髪をいじられ、何だか背中がむず痒かった。
「いいよ、どうせ帰るだけだから、触んな」
 頭を振ると、薮内がそうっすねえ、と言って笑う。確かに、どうせ帰るだけですもんね。
 ひとくちだけ飲んだコーヒーの缶に吸殻を落とし、薮内は立ち上がった。
「桑島さん、煙草吸わないんですか」
「たまに吸うけど。お前みたいにチェーンスモーカーじゃないよ」
 桑島も放り出してあったビジネスバッグを手に立ち上がった。明日も仕事だ。さっさと帰って、シャワーでも浴びて寝よう。目を閉じて伸びをした桑島の鼻先。ふわりとやわらかい何かが触れ、煙の香りが漂った。
 目を開けたら、桑島より背の高い薮内が屈み込み、桑島のネクタイの結び目のあたりに顔を近づけていた。
「あー、ほんとだ。煙草臭くねえや」
「何してんの、お前は」
 薮内は桑島を見て薄く笑った。
「俺も撫でてみようかなあ」
「何をだ、何を。さあ帰って寝るぞー! 明日も早いんだからな!」
 なぜなのか、理由は自分でも分からないまま早口にまくしたてて歩き出す。背後の薮内が待ってくださいよとかなんとか言っている。
 ビルを出た桑島の鼻先になぜか薮内の髪の匂いがふと甦り、そうしてすぐに消えていった。