その笑顔は神か悪魔か幻か 3

「高橋……佐宗? 変わった名前だな、寺の息子か?」
「いいえ、寺の孫です。残念ながら」
 初めての会話は、確かそんなようなものだった。椅子にふんぞり返って問う嘉瀬さんと、口調だけは丁寧に、顎を上げて仏頂面で答える俺。それを見ていた同じ部のある先輩は、こいつは絶対すぐに配置換えになるなと思ったというが、結局俺は既に一年半ここにいる。

 俺の実家はごくありふれたサラリーマン家庭だが、親父の実家が寺だった。親父は次男坊で、寺は兄貴が継いでいる。因みに親父の親父と言うのは今だにかくしゃくとしており、俺の名付け親はこの祖父である。
 何故今そんなことを思い出しているかと言うと、神社の境内にいるからだ。
 嘉瀬さんと二人、大して有名でも何でもない神社で風に吹かれ、俺はちっとも楽しくない。嘉瀬さんも楽しくはないのだろうが、そんなことは俺の知ったことではない。
「まったく、意趣返しならもっとこう、ダメージのあるやつにすりゃいいと思わねえか? この俺をへこませたきゃそれなりのことを考えろっつーんだよ、ガキか、あのハゲは!」
 そう言いながらのしのし石畳の上を歩く嘉瀬さんは、檻の中の猛獣のようだ。
「苛立たせるって意味なら結構うまく行ってるんじゃないですか。それより俺まで巻き込まれてる意味が分かんないんですけど」
「ああ? そりゃお前、当たる相手っつーもんが要るからに決まってんじゃねぇか」
「謹んで辞退させて頂きます」
「うるせえ、業務命令だ。俺のすっかり傾いた機嫌の面倒見やがれ、佐宗」
「いっそ傾くとこまで傾いたら戻りますって……いってえ!!」
 嘉瀬さんが投げつけた絵馬が俺の側頭部に命中し、乾いた音を立てて地面に落ちた。

 保奈美ちゃんのミスから始まった災難は、俺にも部にも今だ影響を残していた。俺にはこの鬼上司との複雑怪奇な関係、部には総務部長の逆恨み。どっちがより重大かと言ったらはっきり言ってどちらもくだらないことに大差はない。
「何がお守りだ何が。ったく中身抜いてやろうか」
「天罰が下りますよ」
 営業車のハンドルを切りながら俺が言うと、嘉瀬さんは舌打ちし、不機嫌に黙り込んだ。膝の上には小さなお守りの袋がひとつと、俺の頭に突撃した絵馬が一枚乗っている。
 銀行の融資の部長の息子が有名大学を受けるんだそうだ。是非学生時代は成績優秀、わが社のトップ営業である嘉瀬くんに買ってきて貰いたい、なんてこんな遠い辺鄙な所まで来させられて、要するに幼稚な嫌がらせを断る理由を思いつけなかった二日酔いの嘉瀬さんが悪いのだ。

 確かにあの時の総務部長の言い分にも一理あった。どんな事情があれ、締め日支払日を守らなければいけないというのはルールだし、会社はルールで回っている。ただ、この場合それでは得意先を失う恐れもあったし、相手が嘉瀬さんでなければ総務部長もあそこまではごねなかったのは明らかだった。総務部長は去年全社の忘年会で保奈美ちゃんのお尻を揉み——触ったのではなく揉んだのである——、嘉瀬さんに殴り倒されている。それまで保奈美ちゃんはこのハゲ部長のセクハラに人知れず耐えていたのだと、俺たちは白目を剥いて床に伸びた部長を見下ろし初めて知った。
「総務からの着信、絶対あのハゲだな。誰が掛け直すか」
 嘉瀬さんは着信をチェックするのに携帯電話をいじりながらぶつくさ言っていた。携帯を閉じ、お守りの入った袋に放り込むと忌々しげに舌打ちする。
「あの助平ハゲが、あいつは逆恨みする以外に特技はねえのか」
「セクハラも得意技ですよ」
「いつか絶対ストッキングで首絞めて落としてやる」
「何でストッキングなんです」
「俺の優しさだ。使用済みなら本望だろう」
 訳の分からないことを言う嘉瀬さんを横目で見て、俺はウィンカーを出しかける。嘉瀬さんの手が勝手に伸びて、俺の手を叩くように遮った。
「そこ曲がんな、次右」
「って、左に抜けないと」
「抜け道があんだよ。いいから言われたとおりにしろ、馬鹿」
 暴君は、酷く不機嫌であらせられる。
 帰社後、満面の作り笑いで総務部長に絵馬とお守りを渡した後、嘉瀬さんは「外出、直帰!」と吼えてそのまま消えた。

「——やっぱりここでしたか」
 俺の勘は多分鈍い。
 というより、嘉瀬さんに対して働く勘なんかどこにもない、と言うほうが正しいか。それでもこの上司を発見出来たのは、伊達にアルコール行脚に付き合ってはいないと言うだけで、先週はこっちだったから今日はこの界隈かと当たりをつけた、それだけだ。
「佐宗。お前のネクタイ、寺に行くには赤すぎたよな」
 嘉瀬さんは僅かに酔ったような顔をして振り返り、俺のネクタイに目を遣った。確かに赤いが派手ではないし、別に葬式だったわけじゃない。カウンターとテーブル席が四つの小さなスナックで、嘉瀬さんは俺のネクタイより数段真っ赤なワンピースの女を前に、グラスを傾け煙草をふかして座っていた。
「あんたのアルマーニやら何やらと違って俺は単なる国産ブランドですからね、すいませんね」
「今日はアルマーニじゃねえし、国産だって持ってるよ。そういや、アルマーニは柄はいいけど生地が柔らかくて段々よれてくるんだよなあ。あれ何とかなんねえかな、ねえ、みっちゃん」
「ネクタイなんかなんだっておんなじよ。佐宗君、こんばんは。持って帰ってよ、今日の嘉瀬さん面倒くさい!」
「ひでえな、みっちゃん、冷たくすると犯すぞ」
「嘉瀬さん、セクハラです。将来禿げますよ」
「そうよ、禿げるわよ! あら、いらっしゃいませ!」
「うるせえ、佐宗、逆らうと犯すぞ」
「何を言ってるんですか。そんなことより用事があってわざわざ来たんです、俺は」
「そんなことなのか」
「そんなことでしょう。ほら、携帯忘れたのにも気付いてなかったんですか」
 嘉瀬さんは俺が差し出した携帯を見て、ああ、と呟く。
「袋に入れたんだっけか」
「はい。お守り出した後忘れてたでしょう。危うく保奈美ちゃんがお菓子の空箱を入れて捨てるところでしたよ」
「保奈美はいつも食ってんな。あれで太らないってのは世の中の女性に対して、なあみっちゃん……」
 カウンターの中に赤いワンピースは見当たらない。チーママであるみっちゃんはテーブル席のサラリーマンに水割りを作って微笑んでいる。嘉瀬さんは溜息を吐いて立ち上がり、カウンターに札を置くとじゃあな、と言って出て行った。

「待ってくださいよ、嘉瀬さん」
「佐宗、もう帰れよ。俺はもう一軒寄ってく」
「分かってますよ。どこでも行ったらいいでしょう。好きにしてくださいよ」
「じゃあ何だよ。俺は機嫌が悪いんだ。しつこく絡むと本当にやっちまうぞ」
「はいはい、どうぞ」
 俺がいい加減な返事をすると、嘉瀬さんはちっ、と舌打ちをして地面を蹴った。色とりどりの飲み屋と風俗の看板が嘉瀬さんの端正な顔に色を投げかける。ピンクから青へ、黄色へ。どの色が映っても嘉瀬さんの表情は不機嫌そうだ。
「何だ」
「……別に。ただ、嘉瀬さんがあんなくだらない嫌がらせ、流さないで苛々するのは珍しいなと思って」
 昼間からずっと思っていたことを言うと、嘉瀬さんは銜えていた煙草を吸い込んだ。ネオンに加えて赤い光が嘉瀬さんの顔を彩り、通った鼻筋の影が煙に揺らめく。
「——俺にだって機嫌の悪い日はあるんだよ」
「保奈美ちゃん、何だかんだ言って可愛いんでしょう。花嫁の父の心理ですか」
 嘉瀬さんは低く唸り、煙草を地面に吐き捨てた。高そうな革靴の底で煙草を踏みにじりながら嘉瀬さんは傲然と顎を上げる。
「神社仏閣なんか一切合切消えちまえばいい。辛気臭くて見てるだけでイラつくんだよ。それだけだ、文句あるか」
「あんたがそう言うならそうなんでしょう。じゃあ、イラつく寺の孫はお暇します」
 俺が踵を返す前に、嘉瀬さんが動いて俺に手を伸ばす。襟を掴んで引っ張られ、俺はよろけてたたらを踏んだ。嘉瀬さんの上着のピークドラペルに目を遣って、それから視線を上に動かす。嘉瀬さんは俺と目が合うと、唇を歪めて皮肉に笑った。
「どうぞって、お前言ったよな、佐宗」

 

 もしかすると嘉瀬さんは、どうしていいか分からないのかも知れない。
 百戦錬磨と言ってもいい男女のことと、保奈美ちゃんを可愛がることはまったく違う。彼女のために常の冷静さも余裕も失って吼えるその姿は、知らぬ間に子を持った父親のように見えなくも無い。そんな、普段なら鼻も引っ掛けない幼稚な悪意に歯を剥く嘉瀬さんが気にならなかったといえば確かにそれは嘘になる。
「佐宗」
「……何ですか」
「いつになったら白状するんだ」
「何をです」
「俺に惚れたってさ」
「惚れてませんから、白状の仕様がないんですが」
「——心配して追っかけてきたくせに、よく言うぜ」
 嘉瀬さんの舌が耳に押し当てられて、低い声が吹き込まれる。確かに心配しなかったとは言わないが、それとこれとは、多分、別だ。別であると思いたい。
「なあ、佐宗」
「あんたほんとしつこいな!」
 暴君は低く笑うと、俺の右の膝に手を当てて脚を更に押し広げた。僅かな隙間もないくらい押し込まれ、立ち上がったものを握られて飛びそうになる。
 総務部長のように白目を剥いたり泡を吹いたりしたら見苦しさに解放してもらえるかも知れないと一瞬思うが、挿れたまま強引に揺すられると気を失うことさえ出来なくなった。
 嘉瀬さんは、俺を包んだ手を緩く上下に動かしながら、笑いを含んだ声で甘く囁く。
「だってお前、俺に惚れてるからこうやって硬くしてんだろ、なあ」
「違いますよ、惚れてません」
「言っちまえよ。大事にしてやる」
「……いいから」
「は?」
「あんたがすげえ巧くてイイからおっ勃ってんだよ、それだけだっ」
 俺が怒鳴ると嘉瀬さんは所謂鳩が豆鉄砲を食らったような顔の後、一拍置いて苦笑すると、俺の額にキスをした。
「ああ、佐宗、お前ほんっと可愛くねえ」
「余計なお世話です」
「可愛くねえが、そういうところがたまんねえな」
 あんたは俺に要求しすぎる。俺はそこまで有能じゃない。いつも会社で吐き捨てる台詞を今も言いかけたが飲み込んだ。
 俺は大事にするって一体なんだ、と考える。保奈美ちゃんを庇うように、俺を庇って誰かを殴るのか。あんたの言う惚れると言うのは女のように俺に傅けと言うことなのか、違うのか。
 いつか俺は言うのだろうか。
 この鬼上司に、あんたに惚れてる、と言うのだろうか。そしたら一体何が変わって、何が残るか。いっそ神社で護符でも買うべきか。
 嘉瀬さんがテーブルに放り出した携帯が、また鳴った。
 さっきから何度も続く呼び出し音は俺の知ってる女性か、仕事か、それともまったく違う誰かか、分かりはしない。嘉瀬さんは電話を無視して俺を抱え、激しく抱く。これが一時の興味なら、惑わせないで欲しいと俺は本気で何かに祈った。
「言えよ、佐宗」
「あ、ああ……、あ……っ」
「佐宗?」
「い……、この…………呪われろ!!」
 喘ぎながら盛大に喚く俺に、嘉瀬さんは喉の奥を鳴らして笑った。
 ハゲ部長の卑屈な顔と、保奈美ちゃんの笑顔が脳裏に浮かぶ。境内に落ちた絵馬が石畳にぶつかる音が、耳の中で警鐘のように鳴り響いた。

 

 後日談だが、結局、銀行の部長の息子は試験に落ちた。もっとも第二志望の大学に特に落胆せずに入学したらしいから、別に可哀相とも思えないが。それにしても神社のお守りのご利益を上回る嘉瀬さんの呪いは恐ろしい。そう言ったら後ろから背中の真ん中を蹴飛ばされる。高い靴だけあってやたらと痛い。
「蹴らないで下さい、あんたと違って俺は治癒力は並なんですから!」
「何だそりゃ? 俺は化け物か」
「似たようなもんです」
「……そこがいいと思ってるくせになあ?」
「は?」
 俺の仏頂面を眺めてにやにやしつつ、嘉瀬さんは髪をかき上げた。エレベーターが下の階で止まったのか、チン、と間抜けな音がする。
「お前は興味ない人間に時間は割かねえ、そんなの知ってるんだよ。俺を誰だと思ってんだ。仮にもお前の上司だぞ」
 髪を弄る嘉瀬さんの手首のヴィクトリノックスの黒い盤面。俺の不機嫌な顔と、エレベーターの階数ボタンが映っている。音もなく開いたドアへ踵を返して一歩踏み出し、俺は嘉瀬さんを振り返る。
「そうですね。あんたと寝るのはあんたが巧いから、それと多分、溺れてみたいと思うからです。じゃあ、お先に失礼します」
 固まった嘉瀬さんの顔がエレベーターのドアの隙間に消えていく。さあ、どうやって逃げようか。どうせ部屋も携帯も知られているが、せめて好きにはさせないと、俺は一人でにやりと笑った。
 ——俺に惚れられ呪われて、地獄へ落ちろ、鬼部長。