その笑顔は神か悪魔か幻か 1

「なんだこの最低な報告書は!? 再提出、出来るまで帰んな! デートだろうが何だろうが済ませてから帰れ!」
 鬼のような台詞とともに、営業三年目の保奈美ちゃんに、書類の束が突っ返された。保奈美ちゃんはちょっと泣きそうな顔をしたが、歯を食いしばって頭を下げる。
「はいっ!!」
 嘉瀬さんの下にいれば、このくらいで音を上げてはいられない。去年異動してきた時は真っ青になっていた保奈美ちゃんも、今ではすっかり逞しくなっている。
「何見てんだ、佐宗!? 見惚れるほどいい男か? あぁ?」
 台詞とは大違いで、嘉瀬さんの顔は険しい。女子社員が口さえ開かなければ最高級と嘆くご尊顔は、すっかり鬼気迫っている。
「ええ、そりゃもう。舐めたいくらいです」
「舐めたきゃ舐めろ。ひと舐め三本」
「……どんな高級娼婦ですか」
「るせぇ!! 無駄口叩いてる暇があったら書類上げろ、このへたれ!!」
 我が社の暴君は、今日も普段どおり、荒々しい。

「佐宗、行くぞ」
 すっかり撃沈された部員達を適当にねぎらうと、嘉瀬さんはそう言って顎を振った。俺は嫌々、という態度を隠さずに溜息を吐いて腰を上げる。途端にライターが額の真ん中に激突し、床にころころと跳ね返った。
「いってぇ!!」
「溜息吐くんじゃねえ、俺に向かって」
 嘉瀬さんは整った顔を振り向けて言い、ライター! と尊大に言いながら行ってしまう。床に転がった百円ライターは、どこぞのキャバクラの名前が印刷してある悪趣味なピンク色だ。俺はもうひとつ盛大に息を吐き、ライターを拾い上げた。

 嘉瀬さんは俺の七つ上で三十五歳。独身で遊び人で、口が悪くて態度がでかくて、仕事は出来るが鬼だった。新人で入社した時は全社のお姉さま達が一人残らず色めきたったというルックスでありながら、仕事で訪れた神社のお祭りで強面の的屋を泣かせたという逸話も持つ。
 異例の出世で部長になった嘉瀬さんは、部の売り上げを飛躍的に伸ばしてみせた。確かにどうしようもない人格だが仕事に対しては真摯だし、けなしているようで実際のところはそうでもない。そうでなければ保奈美ちゃんなどとっくの昔に病気休職になっているに違いない。
 俺は中途入社で同業他社からやって来たが、嘉瀬さんは転職組だろうがプロパーだろうが無頓着で、そんなことには意味はなかった。ただ、何故か馬が合うといえばいいか、暴れ馬と厩番というか、あちこち連れ回されている回数はどうやら俺が社内トップと言う噂だ。
「嘉瀬さん、今日は帰りませんか」
 俺が差し出したライターを受け取ると、嘉瀬さんは不満げな顔をした。
「何で」
「だって疲れましたよ。幾ら金曜だって、今日はきつすぎでした」
「お前らが言われたこときっちりやってねえからだろうが。誰が一番肝冷やしたと思ってやがる」
「……少なくとも嘉瀬さんじゃないと思いますけど」
 するすると、エレベーターのドアが開く。嘉瀬さんは聞こえないふりをして、エレベーターに乗り込んだ。肩越しに睨まれると、乗らないわけには行かないのが悲しいサラリーマンの宿命だ。
「一人で風俗でも行けばいいじゃないですか。飲んで歌ってセックスして」
「祝杯だろ、祝杯。凡ミスが凡ミスで済んだんだから」
 嘉瀬さんは、ここが禁煙ビルの禁煙エレベーターの中だというのに煙草を銜えた。火災報知機を気にしてか流石に火はつけないが、それにしても俺様だ。
「佐宗、お前が保奈美に甘い顔すっからだ。甘やかして失敗したらてめぇが責任取って頭下げに行けるのか? まあ下げるだけで済むなら保奈美一人でも出来るけどな」
 俺は思わず足元を見、嘉瀬さんの顔を見上げる。背も高い嘉瀬さんは、俺より五センチ高いところから、俺を見下ろす。
 嘉瀬さんは、年齢よりも身長よりも絶大なる差の高みから、俺を見下ろす。これだから、例え鬼畜だヤクザだと詰ってみても、俺はこの人が嫌いでないのだ。

 結局嘉瀬さんに首根っこを捕まえられ、俺は薄暗いスナックでいかさきを噛んでいた。
 嘉瀬さんの遊びは幅広く、キャバクラから高級クラブ、オカマバーから外国人バーまでとにかく素晴らしいレパートリーだ。どうせ行くなら可愛い女の子に「お疲れ様」なんて言って酌をしてほしいのに、こんな日に限って嘉瀬さんが向かったのは、もはやミイラ化したママと俺の母親くらいのホステスしかいないスナックだった。因みに店の名前はどり~む、「~」が切なくて泣けてくる。
「佐宗、お前はな」
 嘉瀬さんはママが覚束ない手つきで注いだビールを片手に、さっきから俺に説教を垂れていた。さきいかの噛み過ぎで顎が痛い俺の酔った頭から、その声は容易に零れ落ちてしまう。
 何だか静かな声で色々と喋る嘉瀬さんは、いつもより勢いがない。確かに一歩間違えば大損害というミスだった。嘉瀬さんは荒れ狂いながらよくまとめてくれたと思う。正直嘉瀬さんが机を蹴っ飛ばしたり総務部長の胸倉を掴んで締め上げたり身の危険を感じた隣の部が全員退避するくらい俺をどやしつけたりしてくれなければ乗り切れなかったかもしれないのだ。
 結局嘉瀬さんは、いつも進むべき道を示してくれる。その道がどんなに険しい道だろうと、構わずに。それが俺の、求める者の望む道ではないとしても。
 そんなことを思っていたら、感謝の気持ちを伝えなければと不意に思った。
「嘉瀬さん」
「あ?」
 嘉瀬さんは少し長めに伸ばした前髪を指で払って煙草を灰皿に押し付けた。まったく、そういう仕草ひとつにどれだけの女性が泣かされて来たのだろうか。
「今日はすいませんでした。本当にありがとうございます」
「礼が遅えんだよ! お前は本当に気が利かねえやつだな!!」
 頭を平手ではたかれて、俺は思わずカウンターに突っ伏した。
「痛……」
「おい、佐宗。煙草ねぇか、煙草。切れちまった」
「そこにあるでしょ、勝手にいくらでも吸ってくださいよもうお礼です!!」
 嘉瀬さんが俺の煙草をくゆらせる。
 ママのしわがれた笑い声。なんだか老人ホームにいるようだ。俺の煙草の煙の匂いが俺じゃない誰かから漂う不思議。嘉瀬さんの香水の微かな匂い、乱暴な口調、下品な馬鹿笑い。
 半分眠りかけていた俺を嘉瀬さんの手がゆさゆさ揺すった。
「こら、寝るんじゃねえ! 置いてくぞ! ママにやられても知らねえからな、佐宗!」
 跳ね起きた俺を見て嘉瀬さんはげらげら笑った。
「起きます。お供します。帰ります!」
「馬ぁ鹿、ママにそんな元気があるか」
「あらやだ、嘉瀬ちゃん。アタシだってまだまだ現役だよ」
「はいはい、ママは美人だよ。行くぞ佐宗」
 あっという間に身を翻す嘉瀬さんを追い、俺はよろけながら店を出た。

「お前、帰れんのか、そんなんで」
 半地下の店からようやく地上に出た俺の目の前に、嘉瀬さんは立っていた。
 煙草の箱を取り出して、一本銜える。それはもしかして俺の煙草じゃないんですか。
「ああ、お前のだ。三本もらったぞ」
「さんぼん? ひと舐めですね」
 さっきの会話を思い出してそう言うと、嘉瀬さんはちょっと考え、ようやく思い出したのか苦笑した。
「——煙草三本じゃねえっつーのに」
 笑いながらよろける俺を嘉瀬さんの手ががっしり掴む。却って足元がふらついて倒れこんだ俺を見下ろし、しばらくの沈黙の後、嘉瀬さんは唐突に口を開いた。
「まあ、いいか。……お前、俺と寝るか?」
「は?」
 さんぼんって煙草じゃないでしょう、嘉瀬さん。今自分で言ったじゃないですか。三万円でしょう?
「来い、佐宗」
「って、え?」
 煙草三本で本番って、どんな安い娼婦ですか。
 手を引かれ、俺は行く。ドナドナ、ってやつだろうか。なんだか足元がふらついて、酔っているせいか何を考えてもまとまらない。タクシーの運転手が、自慢の娘が幼稚園の運動会で何をやるかを喋っている。嘉瀬さんが玄関の鍵を開けている。ネクタイが足元に落ちてとぐろを巻いて、嘉瀬さんの男前な顔がそこにある。
「嘉瀬さん? ちょっとこれやばくないですか」
「やべえよな」
「あんたバイですか? そこまで遊んでたんですか」
「んー、男とは三回しかしたことねえよ」
「四回はしなくていいでしょ。四は不吉な数字です。俺は部下です。社内倫理に悖ります」
「……お前のそういうとこ嫌いじゃねえんだよ、これが」
「はあ」
 思わず納得した俺に、嘉瀬さんは笑う。可笑しそうに笑いながら、暴君は恭しく俺の唇に口付けた。
「やべえなあ」
 嘉瀬さんの呟きは、唇の隙間に溶けて消えた。
 嘉瀬さんが脱ぎ捨てた上着から、三本減った煙草の箱が転がり落ちる。吐きそうなくらい甘く卑猥な言葉を耳の中に囁かれて、俺は思わず目を閉じた。
「目を開けろよ、佐宗。俺が見えなきゃつまんねぇだろ」
 ああ神様仏様。
 目を開けたらそこには嘉瀬さんの顔がある。天が与えた色気たっぷりのその笑顔。
 その笑顔は神か悪魔か幻か。

 嘉瀬さんは神でも幻でもなかったが、俺はどろどろに蕩かされて、本物の悪魔と対峙した気分になった。嘉瀬さんがくゆらす四本目の俺の煙草。煙草臭い口に覆われて、文句と忠告と苦言はすべて誤魔化された。
 四本目の煙草、四回目の男とのセックス、四回イった馬鹿な俺、さっきから四度目の嘉瀬さんの台詞。四は不吉な数字に間違いない。
「佐宗、俺に惚れろよ、なあ」
「冗談はその顔だけにして下さい」
 悪魔のような上司は笑みを浮かべる。神のような顔をして、幻のような台詞を悪魔の美声で何度も呟く。五度目に悪魔が謡ったときには俺はもう、悪魔の手に落ちていた。