拍手お礼 Ver.25

「暇か?」
 この男が開口一番そう訊ねるのは、大抵ろくでもない用事があるときだ。だから、哲は「か」の半分あたりで躊躇うことなく電話を切った。すぐにまた鳴動し始めたから無視して歩く。数歩進む間に止まったが、今度は短い振動が、メッセージの着信を告げた。
 ——奢るから飯に付き合え
 画面を眺めながら、哲は三秒くらい考えた。
 飯にあっさりつられるほど食に執着はない。だが、それこそ飯を食いに行こうと思っていたところだったので、返信した。
 ——交換条件がないなら
 送るなり通話が着信したから渋々応答する。笑いを含んだ低い声が、前置きなしに「ない」と言った。
「ほんとかよ。なんかの罠じゃねえだろうな」
「罠ならもっと分かりにくく仕掛けるよ、馬鹿だね」
 仕入屋は喉の奥を鳴らして笑った。
「手塚のところに来てるんだ」
 手塚というのは手塚医院のことで、内科がメインの小さな個人病院だ。院長の手塚は秋野の古い知り合いで、内科医だが簡単な傷の手当くらいはしてくれる。
「ああ、そう」
「少しは心配してくれ。風邪でも引いたか、とか」
「お前に割く心配は持ち合わせてねえ」
「冷たいねえ」
「で、風邪なのか」
「いや」
「違うんじゃねえか、結局」
 電話の向こうで笑い声と何かの音がする。紙をいじっている音だろうか。
「用事があって寄ったら、ついでに健康診断も受けさせられてな。それはどうでもいいんだが、お前に仕事がひとつあるから、話すついでに飯でも食おうかと」
「分かった」
「手塚は用があって一旦出てる。ここ閉めてもらわなきゃならんから、お前、寄れるか」
「ああ」
 そう告げて電話を切り、哲は手塚医院に向かって歩き出した。

 手塚医院にも一応入院設備があるにはあるが、病床数は極端に少ない。元々手塚が引き継ぐ前から小さな町医者が開業していた建物で、延べ床面積からして少ないのだ。今は入院患者もいないらしく、建物の照明はほぼ消えていた。
 最近、診察室は広い空間の一角にスペースがあり、奥は処置室に繋がっていることも多いようだが、ここは昔ながらの作りだった。狭く小さな診察室には入り口が二つ。一つは患者が出入りするドアで、もう一つは受付との間を仕切る引き戸。哲が医院に着いて中に入ると、当然受付には柵のようなものが降りていて、廊下に面した患者用のドアが開いていた。
「よう」
 入っていくと、まだ手塚の姿はなく秋野だけがいた。偉そうに手塚の椅子に座って携帯をいじっている。何か調べ物でもしていたのか、メールでも読んでいるのか、長文が表示されているように見えた。秋野はそのまま数秒画面に目を走らせてから、アプリを閉じた。
「早かったな」
「たまたま近くにいた。手塚さんは?」
「あと三十分もしたら来るだろ。お前が来るのにもう少しかかると思ってたから」
「ふうん」
 病院内には他に人気はなく、秋野が言葉を切ると沈黙が落ちた。
「なんかあれだな、人気のない学校と病院ってのはどっちかっつーと薄気味悪ぃよな」
 哲が言うと、秋野は意外そうな顔をした。
「お前でも? 夜中学校で肝試ししたクチか」
「ああ、いや——つーか、高校ん時、付き合ってた女と学校に忍び込んでやったことはあるけど——」
「……」
 一瞬、余計なことを口走った気がして、哲は急いで語を継いだ。
「さっさと電話でもして来てもらえばいいんじゃねえの、手塚さんに。電話するか、俺が」
哲が言うと、秋野は少し何かを考える顔をして、不意に唇の端を曲げて笑った。
「……何だそのツラ」
「何がだ?」
「すげえ嫌だ」
「だから、何が?」
 ふらりと立ち上がった秋野が一歩歩み寄る。
「飯は自腹で食うから電話しろ、今、すぐに」
「……なあ、哲。交換条件の話だが」
「いやだからねえって言ったよな!?」
 険しい表情を浮かべた哲を見て、秋野は満面の笑みを浮かべて見せた。

 やっぱり罠だ。
 仕入屋は否定したが、まあ真偽のほどはもうどちらでもいい。
 結局哲は迫りくる男にあっさり追い詰められ、秋野が閉めたドアに押し付けられて下半身を剥かれて抱え上げられる羽目になった。自分の口が招いた災いだと分かっていても、業腹だ。
 哲は痩せているが筋肉がないわけでは決してない。細身の割には重いはずで、たかだか十センチ差の男にいいようにされる体格ではないはずなのだ。しかし、目の前のこの男はまるで哲が華奢な女か何かのように軽々と抱え上げ、腰に脚を回させ突っ込むということをやってのける。ハリウッド映画の濡れ場かよ、と突っ込みたく——違う意味でだ——なるのは仕方ないだろう。
 そういう意味では押し倒されて入れられるより自尊心が傷つくから、哲は猛烈に腹を立てていた。その上秋野は普段より丁寧に——言ってしまえば哲が気持ちよくなるように事を進め、尚更はらわたが煮えくり返っていたところに、これだった。

「あれー? 秋野? あーきーのー?」
 背中に当たるドアがガタガタ揺れて、哲は思わず身を竦めた。真正面の秋野は片頬を歪めてわざとらしく色悪めいた笑みを浮かべ、哲をドアに押しつけるように体重をかける。内側に押し開けるドアだ。秋野と二人分の重さがかかっているから、力を入れずに押したくらいでは開かないが、なんということだ、鍵はかかっていない。
「いるのか?」
 ドア一枚隔てて頭の後ろから手塚の声がする。
「ああ」
 馬鹿、返事すんな、と必死の形相で訴えたが、秋野は哲を無視して平然と続けた。
「中にいる」
「玄関にスニーカーあったけど、佐崎くんはもう来たのか」
「哲もここにいるが、取り込み中だ」
 耳元で秋野は言って、事もあろうに抱えた哲の腰を激しく揺すり上げた。不意打ちに、嚙み殺し切れなかった声が漏れる。ドア越しとはいえ間近で上がった短い悲鳴が聞こえたらしい。手塚が「え?」とか「何? どうした?」とか言ってまたドアノブを勢いよく捻ってドアを揺らしたが、はたと気づいたのか、動きが止まった。
「……秋野、まさかとは思うがお前」
 手塚の呆れた声に低く笑いを漏らしながら、秋野は哲の首筋に顔を埋め、歯を立てながら哲の奥深くを抉った。
 食いしばった歯の間に指をこじ入れ無理矢理顎を開かされ、瀕死の動物みたいな声が出た。手塚がドアの向こうから何か言っているがよく分からない。聞こえているのに、理解できない。
「こいつがいるし、玄関の鍵はかけておく」
「あのな……それはいいけどそういう問題か?」
「さあ? 説教は後で聞くよ」
 勃ち上がったものを長い指と掌で巧みに擦られ、その動きに合わせるように突き上げられ、訳が分からなくなってつい声を上げる。
「あ——!」
 腹の底が目の前の男で充たされているのだと思ったら——そうして上げた声を他人に聞かれたのだと思ったら頭の中が一瞬空白になるほど腹が立ち、どうしようもなく息が乱れた。
「今はこいつで手一杯だからな」
 秋野が言葉を発する度、振動が身体に伝わる。堪え切れない喘ぎが漏れ、哲は秋野の身体にきつく指先を食い込ませた。
「ん……っ、あ、馬鹿野郎、や……っ、うあ、ぁ」
「おい、いつまでそこに突っ立って聞いてる気だ?」
「あー、ああ、そうだな、いや、すまん!」
 何を聞いているのか突然実感したらしい。慌ててドアから離れる手塚の気配。
 秋野が誰かに——手塚に何か答えている。哲はその肩口に顔を押しつけ必死に声を嚙み殺した。パタパタとスリッパの間の抜けた足音が廊下を遠ざかる。足音が完全に消えたのを確認する間もあらばこそ、哲は秋野の肩口に思い切り噛みついた。
「痛っ。そんな思い切り噛むなよ」
「てめえはなあ! ふざけんのも大概にしとけよ!!」
 怒鳴りつけたが、おかしそうに細められた瞳に反省の色はない。
「ちょっとやりすぎたか? でも興奮したろ?」
「しねえ! 全然しねえ!」
「そうか。俺はしたけど」
 低い声で囁きながら耳朶を噛まれ、背筋を震えが駆け上がる。まったく、こいつは本当にどうしようもない。
「俺に露出趣味はねえんだよ!!」
「俺もないぞ」
「嘘つけ」
「嘘じゃない。まあ、たまに誰かに見せてやりたいと思うことはあるが」
「だからそれが露出趣味だって——」
「そうじゃないよ」
「じゃあ何だっつーんだ、くそったれが!」
「誰かに見せつけたら、なかったことにはできなくなる。そうやって、お前の逃げ道を塞ぎたいと思うだけだ」
 優し気な口調とは裏腹に、底光りする薄茶の瞳には恫喝するような色があった。
 今更。
 何を今更。
 考えるのは放棄したと告げたではないか。今更前言を翻して逃げたりしない。なかったことになんかしたりしない。本当はそうしたいが、したくたってできないのが癪の種だということが、こいつはいまだに分かっていない。
「くっそ——てめえはマジでろくでもねえ……!」
「ああ、俺はろくでもないよ」
 剥き出しの尻から腿を掌が這う。深々と貫かれ、哲は、身体に食い込む男のものから逃れようと背を反らした。引き戻すようにより一層腰を押しつけられて、いっぱいに受け入れたものの硬さを嫌でも意識する。激しく出し入れされて思考はあっという間に砕けて散り、快感に勝る強烈な憤懣に、哲は思わず天を仰いで吼えた。
 誰にも見られたくなんかないし、聞かれたくもない。だが、秋野の言うとおり、それが逃げ道を塞ぐというのならそれでもいい。引き返せなくなるのは、自分だけじゃない。
「くそ、もう……死んじまえお前なんか、くそったれ仕入屋……!」
「まだ死なないよ」

 硬いドアと喉の奥で笑う秋野の身体に挟まれ押し潰され、激しく身体を震わせながら、哲は秋野の名前を呼んだ。
 聞いているのは互いだけ。それでも。

 掠れた声で、何度も。