拍手お礼 Ver.24

 頬も顎も鼻の下も髭に覆われていて、猟銃とイノシシでも抱えているのではないかという哲の予想は裏切られた。
 確かに三週間分の髭は普段は何もない顔の下半分を覆ってはいたが、不精髭よりは濃いとはいえ、びっしり生えている、というにはまったく足りない。そして残念ながらイノシシも熊も見当たらない。もっとも、本当にいたらさすがに驚くが。
「欧米人の血が混じってるっつーのに、髭薄くねえ?」
 その程度の髭とはいえ普段よりは男くささが倍増している仕入屋は、妙に瞳孔が広がったような、ちょっと普段と違う目つきで「濃い方がいいのか」とつまらなさそうに言った。
「そういう意味じゃねえ」
 入口を開けた秋野に歩み寄ってじっと眺め、不意打ちで両手を伸ばす。掌全体で頬から顎をざりざりと擦ってみたら、秋野は露骨に嫌そうな顔をして哲の手をうるさそうに振り払った。
「何か用か」
「いや別に用はねえけど」
 手を振り払われるのも、用もないのに何で来たという顔をされるのもいつもは秋野で、そうするのは自分のほうだ。普段と逆だと思ったら何だかおかしい。
「この間、近野さんからお前に連絡つかねえっつって俺んとこ電話が来て」
 無言でドアを閉める秋野の横顔を見ながら言う。チハルからの電話は不本意そうだったが、知り合いが死んだとかでどうしても秋野と連絡を取りたかったらしい。
「仕方ねえから耀司に言っといたけど、連絡ついたんだろ?」
「ああ、伝言は受け取った」
 秋野は頷いて哲の脇を通り過ぎた。本当にさっき戻ったところらしく、ベッド脇に荷物が放ってあり、疲れているのか、全体に普段よりよれた感じにも見える。
「で、あん時つーかここんとこお前がいなかったのは山籠もり中だったからで、今日戻るから行ってみてくれってさっき耀司から連絡来てよ。だから寄ってみた」
 普段は耀司に行けと言われたって来やしないが、そういえば過去に一度も耀司が言う山籠もり直後の秋野を見たことがないと気が付いた。行ってきた、というのは聞いたことがあるが、大抵は戻ってから最短でも数日は経っていた気がする。それで、バイトからの帰り、明日は休みだと思って興味本位で足を運んだ。
「そういやいつも訊くタイミング逃して忘れちまうんだけどよ、山って国内?」
 秋野は何も答えない。答える気がないらしい。
「ああそう、言いたくねえのな。じゃあ、山籠もりって何すんだよ。狩でもすんのか」
「ああ、まあ……」
「マジで? ライフルで鹿撃ちとか?」
「ちょっと違う」
「どういうとこ泊まんの? バンガローとかか」
「いや、野宿とか」
「は?」
「テントとか、穴とか」
「穴?」
「ああ」
「……穴っつったか今?」
「言ったがどうした」
「……」
 いつもだったらにやにや笑うところだろう、と思ったが、秋野は無表情なままだ。目だけはやたらぎらついているというか、瞳孔が開き気味で動物っぽいというか、秋野をよく知らなかったら怪しい薬でもキメているのではないかと疑うところだ。
「狩の他は何すんだ?」
 気を取り直して訊ねてみたら、秋野はベッドに腰かけて煙草を銜え、煙を吐いてから首を傾げた。
「何って?」
「いや——何か山登りとかすんのかな、と。山だけに」
「崖は登った。嫌になるくらい」
「……」
「あと、藪の中を這ったり」
「……一応訊くけど一人でじゃねえよな?」
「勿論」
 よかった、とちょっと胸を撫で下ろす。一人で三週間も山に籠ってそんなことをしているとしたら怪しすぎる。勿論複数人でも怪しいが、修行僧じゃあるまいし、単独なら怪しさは段違いだ。
「ふうん、まあ好きで行ってんなら地べた這いずり回ってても止めねえけど」
「好きで行ってると思うか?」
 まだ長い煙草を灰皿に捨て、秋野はふらりと立ち上がった。
 その動きがいつもと違う。そう気づいて、冷たいものが背中に貼りついたように鳥肌が立ち、うなじの毛が逆立った。
「まったく——あいつは」
 耀司のことか、忌々し気に低く呟きながら秋野は哲の前に立った。
「わざわざお前を寄越すなんて」
 目の前にいるのに気配がないように感じる。それなのに、冷え冷えとした何かを発散しているようにも思える。冷たく威圧的なそれに、哲の身体は竦み上がった。
「——そんじゃ、山から下りてきたっつータイミングのお前を一遍も見たことねえのは、偶然じゃねえのか」
「そうだ。落ち着くまでは会わないようにしてた」
 低く呟く秋野の掌が哲の頬を包む。さっき、哲が髭を撫でたときのように。また逆だ、と頭の隅でちらりと考えた。
「落ち着くって」
「別に特別な何かがいるってわけじゃないし、黙って部屋に引っ込んでりゃそのうち戻るが——」
 耳朶を軽く噛まれて鳥肌が立った。
「……お前が戻してくれるか?」
 低い声と舌をまとめて耳の中に押し込まれてぶるりと身震いする。秋野が喉の奥を鳴らして楽しくもなさそうに笑い、哲の顔から手を離した。支えがないまま激しく口づけられて眩暈がする。押し付けられる壁も縛める腕もない。一歩下がれば自由になれるのに、どうしても下がれない。
 クソ忌々しい。
 憤慨しながら手を伸ばし、秋野の首に縋って崩れ落ちそうな身体を支えた。秋野の手は身体の脇に垂らされたまま、どこに添えられることもない。
「くそったれ——」
 掠れた声を漏らした哲の目を秋野が間近で覗き込む。黄色にも薄茶にも見える、酒みたいな色の虹彩。濃い金色の斑紋が散るそれは、普段どおり、何も違わない秋野の目のはずなのに、明らかに何かが少しだけ狂っている。
「いつもどおりにはできない。ああいうふうにして、もし——」
 囁きながら、秋野がひとつ瞬きした。
「勢いで殺しちまったら洒落にならない」
「——笑えねえ」
「だから、それが嫌なら帰れ」
 かっとして、思わず秋野の頬を一発ぶん殴った。
 それじゃあな、と踵を返せば、多分秋野はどこかの女のところにでも行くのだろう。そうして次に会った時にはいつもの秋野に戻っている。
 秋野が女と寝るのは別にいい。
 だが、この男の何もかもが見たいのだ。俺には隠し、どこかの女に曝け出すくらいなら全部俺の中にぶちまけろ。
 殴った頬に掌をあてて引き寄せ、唇を塞ぐ。深く差し入れた舌はすぐに舐め取られ、絡ませているうちどちらがどちらのものか分からなくなった。

 

 ただお互いの体温を感じ、快感を得るためだけのそれに暴力はない。荒っぽさはあっても、いつものそれとはまるで違う。
 ねっとりとした水が詰まった袋か何かになった気がする。秋野に突かれ、掻き回され揺さぶられて、破れて中身がはみ出てしまいそうだ。
 攪拌された体液だか内臓だか脳だかが粘つく音を立てる。よくて堪らないのだと身体中が訴えた。いつもは頭で拒否するそれをそのまま受け入れ、普段なら決して上げない声を漏らす。ひどく感じていることが丸分かりで、だけどそんなことは、今は別にどうでもいい。勃ち上がって濡れたものに長い指が絡みつく。内側も外側も覆いかぶさるこいつに擦られているのだと思ったら一瞬息ができなくなった。
 限界を迎えて身体が強張る。縮もうとする筋肉と粘膜を掻き分けるように硬いものをより深く捻じ込まれ、哲は喉を反らせて悲鳴を上げた。最後まで吐き出してもいないのに何度も激しく奥まで突かれて目が眩む。いきそうなのかいっているのかいけないでいるのかも分からない。
 一体何をやっているのか分からなくなる。
 注ぎ込まれるものが何なのかも。
 誰の何を見て、何を理解し、何を受け入れ歓喜に喘いでいるのかも。
 引き換えに、何を差し出しているのかも。

「哲——」
  今日、初めて名前を呼ばれた。
 好き勝手やりやがって、この野郎。半ば飛びかけた意識の縁で毒づきながら、哲は唇の端で微かに笑った。