「何だって?」
 秋野はスピーカーにしてベッドの上に放り出していた携帯を思わず振り返った。
「だから! 哲が誘拐されて──」
 耀司の声は切羽詰まっている。
「……はあ? あの凶暴なのを攫える奴がいるとしたらアンヘルか柚木くらいだぞ」
「知らないよ! なんか俺の携帯に連絡来たんだよ!」
「誰から?」
「分かんない、そのへんのお小遣い稼ぎの学生とかだよ多分、知らねえ声だったもん」
「そうか」
「けど大元はアンヘルじゃねえの!?」
 喚く耀司を宥めながら秋野は思わず独りごちた。
「何だって言うんだ……」
 手を出すなと──所謂裏社会の更に裏側みたいなところに勧誘するなと──釘を刺したつもりだったが、いたずらまでは止められなかったか。
「そのうち自分で脱出してくるんじゃないのか?」
「呑気なこと言ってる場合じゃないだろ!」
 耀司は本気で腹を立てている。
「そんなんでまた哲が秋野から遠く離れようとか思ったらどうすんだよ! 大体──」
「ああ、分かった分かった、どこに行けばいいんだ」
 熱の籠らない秋野の返事に小言を挟みつつ情報を伝え、とにかく急げと念を押して、耀司からの通話は切れた。
 

 誘拐されて薬を盛られたと聞いたら、十人中九人は多分似たような状況を想像するだろう。いや、もしかしたら自分が男で下衆だというだけなのかもしれないが。
 しかし、さすがに秋野も哲が誘拐されたからと言って、そういう色っぽい──と言っていいのかどうか疑問だが──シチュエーションを想像したりはしなかった。案外睡眠薬でも盛られて爆睡している錠前屋を発見するかもしれない。そんなことを考えながら、秋野は指定された場所へ向かった。
 そうして哲のもとにたどり着いた秋野は、やはりアンヘルと言えばいいのか、それともやはり哲と言えばいいのか決めかねていた。思わず溜息を吐いてこめかみを指で揉む。
「……どうしたもんかな」
 錠前屋の手首は背中側に回され、結束バンドで括られている。手にはご丁寧に袋がかぶせてあって、人並み以上に器用な指先は使えないようになっていた。足は括られているわけではないが、右足首に嵌められた重そうな枷から鎖が延びて、壁に打ち付けられた杭に繋がれていた。足枷の鍵らしきものはドアを入ってすぐ、哲からは届かない場所に落ちていた。
 人気のない倉庫は、監禁にはお誂え向きだった。高い天井、薄暗い照明、剥き出しの床に積もった埃。
 これで哲が半裸にでもなっていれば囚われのヒロイン──本人に言ったらぶっ叩かれる──だろうが、当然のことながら服は少しの乱れもなく着込んでいた。
 ぐるぐる、と濁った不穏な音が響いている。
 言うまでもなく、錠前屋の喉から発せられた音だ。普段からこういう獣じみた声を出すが、今聞こえているこれは獣じみたどころか完全に獣のそれだった。床に胡坐を掻いて鼻に皺を寄せ唸っている哲は、秋野が身じろぎすると歯を剥き更に唸った。
 完全に犬だ。それも、人里離れた山奥で捕獲されたほとんど野生に返った犬。
 一体どんな薬を盛られれば犬になるのか教えてほしい、ともう一度溜息を吐く。
「哲?」
 声を掛けて一歩近づいたら、更に低くごろごろいう音が返ってきた。どうやら気に入らなかったらしい。もう一歩踏み出したら、唸り声の音量が跳ね上がった。眇められた目は瞳孔が開き気味なので漆黒に見える。短くなった鼻には皺が寄り、蹴りを放つためか、枷の嵌められていない方の脚を身体に引き寄せるようにたわめている。
 気を逸らすのに犬のおやつでも買ってくるかと真剣に思ったが、さすがに味覚まで犬になっているわけではないか、と思い直した。
「まったく──一体何がしたいんだ、あのおっさんは」
 もう一度嘆息し、前髪をかき上げると秋野は無造作に哲に近づいた。
 太く低く、鼓膜を震わせるような音がする。哲の唇がめくれ上がり、音がまた低くなったその瞬間。
「哲」
 冷たく切りつけるような秋野の声に、唸り声がぴたりと止んだ。

 

「おはよう」
 自分の部屋の布団の上で目を開けた哲はいきなり起き上がり、眩暈がしたのかそのまま布団に倒れ込みながら悪態をついた。
「くそったれ!!」
「倒れながら喚くんじゃないよ、忙しいね」
 結局、哲は何も覚えていなかった。アンヘルに攫われたのも、薬を打たれたことも、その後のことも。
「くそ、あのジジイ見てろよ、今度会ったらぶち殺す!」
 恐ろしい形相でアンヘルへの復讐を誓う哲を見ながら、秋野はついにやにやした。アンヘルにはきつく言わなければいけないが、不本意ながら感謝もしなければいけないだろう。あんな哲は多分二度と見られない。
「何笑ってやがんだてめえ!!」
「いやいや、何でもない」

 

「哲」
 歩み寄る秋野を見上げ、哲は目を瞬いた。目の前にゆっくりと腰を下ろした秋野に油断ない視線を向けつつも、唸り声は蜂の羽音くらい微かになっている。
「うるさい、唸るな」
 有無を言わせない口調で告げると哲は数回奥歯をがちがちと鳴らしたが、じっと見つめる秋野から目を逸らし、窺うようにちらりとこちらを見た。
 犬は群れの生き物だから、序列を重んじる。こちらが優位だと思い知らせてやれば逆らわない。秋野が伸ばした指先が頬に触れると鼻に皺が寄って短くなった。喉の奥から微かに漏れる唸り声。秋野の手に噛みつき食い千切ろうとする本能に、歯を食いしばって耐えている。
 そのまま指を下にずらして腕に触れる。驚かせないように少しずつ移動して、ポケットから取り出したキーホルダーの鍵のひとつで結束バンドを断ち切り手を覆っていた袋を剥がした。
 哲の手が一瞬秋野を払いのけようと撓ったが、思い止まって静止する。
「いい子だ」
 唇の端を曲げて言った秋野に不本意極まりないと言う視線を向けつつ一瞬歯を剥く。そうして哲は、唐突に唸るのを止めた。
 僅かに俯けた頭のてっぺん。突っ立った髪が本心からの服従ではないのだと訴えているようだった。本物の犬のようなその姿にこみ上げた衝動に負け、秋野はつい、右手を差し出した。
「哲」
「……」
「お手」
「……」
 哲は、ものすごく嫌そうな顔をした。

 奇跡のお手は一度切り。
 写真を撮っておけばよかったと仕入屋が思ったときには、薬が切れた犬は力尽き、人間に戻って寝息を立てていた。