仕入屋錠前屋17 プラズマ邂逅 2

 哲が扉を開けたら、そこには秋野が立っていた。
 昼に百貨店前で待ち合わせ、結局すぐに別れて半日。昔の恋人と積もる話があったのか、それともあのまま物別れに終わったかは、見た目だけではわからない。
 基本的に秋野の色恋沙汰に興味はないが、秋野の言わばアキレス腱が多香子なのだろうから、さすがの哲もいささか気にはなった。
「大丈夫か?」
 気が立っているのか、秋野の目つきは普段よりきつかった。仕方ないだろう。昔の恋人に街でばったり会うなんて誰でもあまり嬉しくない。それがうまくない別れ方をした相手とくれば尚更だ。
 哲はそれ以上は訊ねずに身体を引いて秋野を通した。あの時哲が秋野の名前を呼ばなければ、多分二人はお互いに気づかず通り過ぎただろう。故意ではないのにそんなふうに考えるのは馬鹿げているが、申し訳なく思う気持ちも僅かにあった。
「悪かったな、呼び出しておいて」
 声だけ聞けば秋野はいつもと何の変わりもない。低く穏やかな声に苛立ちや怒りは僅かも滲んでおらず、ただ、薄い色の目の色が平素のそれより微かに濃かった。
「別に。することがあったわけじゃねえし」
 なぜか部屋の真ん中で突っ立ったまま座ろうとも動こうともしない秋野の肩を小突いてやった。目だけがゆっくりと動いて哲のほうを向く。
「酒でも飲むか」
 秋野は小さく首を振って、長い脚を折り畳むようにして床に座り込んだ。煙草を銜え、床に転がっていた哲の安っぽいライターで火をつける。肉が薄い削げたような頬が、今日は落ち窪んでいるように見えた。
「ちゃんと話せたか」
「ああ、まあな。結婚するんだそうだ」
「へえ。そりゃ」
 何となく続ける言葉が思いつかずに絶句する。黙り込んだ哲を物憂げに見上げて、秋野は微かに頬を歪めて煙を吐いた。
 今まで話し込んでいたのだろうかと考えたが、それにしては時間が長すぎる。よりを戻したならともかく、秋野の様子や結婚するという話からしてもやけぼっくいに火がついたとは思えない。何となく剣呑な雰囲気の秋野に気圧されながら、哲は秋野の脇に立ったままでいた。
「さすがに、ちょっと、応えるな」
 切れ切れに吐き出された低い声は、今度はいつもより力がなかった。
「……まあ、気にすんな。って、他人が言うことじゃねえけどな」
 秋野は僅かに頷いたようだが、顔は伏せたままだ。哲は肩を竦めて秋野に背を向け、冷蔵庫の扉を開けた。何もいらないとは言ったが、酒でも飲んで寝かせるのが一番だろう。この調子でとぐろを巻かれたらこっちまで暗くなる。
「なあ、お前ビール」
 一缶取り出して振り返ったら、すぐ目の前に秋野が立っていた。哲の背後に長い腕を伸ばし、音を立てず静かに冷蔵庫の扉を閉める。
「いらないって言ったろう」
 哲は十センチ高いところにある秋野の薄い色の瞳を見上げた。銜えたままの煙草を右の犬歯で噛んでいる。
「酒でも飲んで寝たほうがいいんじゃねえの? やってらんねえってツラしてるけど」
 秋野は煙草を手に移し、ゆるゆると煙を吐きながら、ゆっくりと哲に顔を寄せた。薄くいがらっぽい煙が鼻腔にまとわりつく。自分で吐き出す煙と人の吐き出すそれは不快感がまるで違う。喫煙者はみなそう言うが、どうしてなのか考えてみたことはない。
 軽く齧られ、吸い上げられた舌にも絡みつく煙草の香り。秋野と、というより煙と口づけている気分だった。
「……俺は女の代わりにはならねえぞ。気を紛らわしたきゃ風俗でも行けよ」
「今は世の中の女全部が憎たらしい気分なんだよ」
 あながち嘘でもないのか、秋野の声は強張っていた。眼前の薄い色の目は、濃くて長い睫毛の向こうで不穏な金色に煌めいている。秋野にとって大切な、大切な女。哲は数時間前に見た多香子の顔を思い返した。結婚すると聞いて、こいつは何を思ったのだろう。
「あのなあ、失恋を慰めるのはガラじゃねえんだって」
「そうじゃない」
 秋野はそう言いながら哲の首筋に顔を寄せた。甘噛みされ、咄嗟に秋野の脛を蹴り飛ばしそうになったが何とか堪える。今怒らせるのは得策ではないことくらい、哲にもわかる。
「お前に慰められるようになったら俺も終わりだ」
「わかってるなら退け、馬鹿」
「聞こえない」
 哲は勘弁してくれ、と胸の内で呟いた。別に死ぬほど嫌だというほどのことでもないが、喜んでお迎えする気にも到底なれない。どう考えてもセックスは女とするほうがいいし、根が受身でないから、誰にであれ押さえつけられたりすると暴れ出したくなるのだ。
 秋野とは前に一度、喧嘩の延長のようにして事に及んでしまったことがある。だが大して気持ちよくもなかったし、二度目があるとは思ってもいなかった。
「秋野、おい、そんなに彼女が大事か。だったら今から取りに行け」
 秋野の片手が哲の二の腕をきつく掴む。その手が微かに震えているのに気がついて、哲は秋野の目を覗き込んだ。怒りなのか慟哭なのか知らないが、表情は変わっていない。その目が、いつもより光っているだけで。
「必要ない」
 吐き捨てた言葉とは裏腹に目は雄弁だった。できることなら多香子を取り戻したいとその目は言っている。そしてきっと、例え走ってあの場所に戻っても、それが実現しないことを秋野もよくわかっているのだろう。
「……仕方ねえやつだな、まったく」
 哲は深い溜息をひとつ吐き、右手に持っていたビールの缶を床に落とした。
「痔になったらお前のせいだぞ、くそったれ」

 何もかも覚えているわけではなかったが、二度目も一度目とそう変わらなかった。ひとつだけ違うのは、秋野がやけに執拗なことくらいか。
 人間だから性感帯に触れられればそれなりに感じはするが、やはり快楽とは程遠いのはなぜだろう。どこか醒めた部分にとりとめなく色々なことが浮かんで消える。
 興奮はする。自分でも意外なほど。血が滾るような何かが腹の底からせり上がり、鼓動を速くし呼吸をひどく荒くする。それなのに、快感はろくに感じないというのは一体なぜなのか。
 うっかりどこかに彷徨いそうな意識を手繰り寄せ、瞬きしたら秋野の顔が見えた。哲に見られていることに気づいて微妙に逸らされた目線が癇に障る。
「おい」
 手を上に伸ばして顎を掴まえ、力づくで顔をこちらを向けてやった。
「人のケツに突っ込んどいて目ぇ逸らしてんじゃねえぞ──」
 哲の低い声に眉を顰めた秋野が掌で哲の目を覆った。視覚を奪われると気を逸らすものがない分、意識の外に押し出していた痛みと吐き気が強くなる。手で乱暴に払いのけたら、秋野に怖い目で睨まれた。
 それとわからないほど僅かに焦点がぶれたような薄茶の目に睨まれると、なぜかさっきまでのことがおかしくなって笑ってしまった。仕入屋にも昔の女に会ってへこむ人間らしいところがあったと思えば、それはそれで見物だったということだ。
 低く笑う哲を不機嫌そうに見下ろして、秋野は指で哲の髪に触れた。かと思ったらいきなり髪の生え際を乱暴に掴まれた。仰け反った哲の顎の下、やわらかい部分に秋野の歯が深く食い込み痛みが走る。
「い──っ、てめ、噛むな!」
 返事はない。ただ、獣が唸るような低い振動が喉から身体に伝わってくる。
 まったく、本当に躾がなってねえ——。
 哲の膝に脇腹を蹴り上げられた秋野は小さく呻き、食らいついた喉に一層深く歯を沈めた。

 

 尾山は利香を思い切り高く持ち上げ、勢いよく膝の上に下ろしてやった。五歳の子供くらい、まだまだ片手で支えられる。利香はきゃーきゃーと声を上げて尾山の首にしがみついてきた。顎の下の頭を撫でながら、尾山は利香に訊ねてみた。
「利香、お母さんに会いたいか?」
「おかあさん?」
 利香は尾山を見上げて首を傾げた。その仕草がまた愛しくて、尾山はつい微笑んだ。利香もそうだが、耀司もよくこういう仕種をした。血の繋がりはひとつもないのに、利香は時々耀司の幼い頃を思い出させる。
「まーママじゃなくて、おかあさん?」
 尾山の妻であり、養母である真砂子を利香はそう呼ぶ。
「そうだ」
「わかんなぁい」
 利香は困ったように眉を寄せた。利香には物心ついた時から自分たちが養父母だということを話してあった。どの程度理解しているかはわからないが、いずれ知ることなら早く知らせたほうがいいし、本人が望んだ時には実の親に会わせてやりたいと思うからだ。
 今のところ利香が産みの親に会いたがったことはない。何せ一歳半で別れたから恋しがるほど覚えていないのだろう。自分のルーツに関心を持つのはもう少し成長してからに違いない。
「そうか。じゃあ、もっと大きくなって利香がお母さんに会いたくなったら、パパに言いなさい。わかったね?」
「はーい!!」
 わかっているのかいないのか、元気よく答えながら部屋の向こう側に跳ねていく利香を目で追って、尾山は思わず笑いながらも溜息を吐いた。
 秋野の声は、表面上はどこまでも冷静だった。昨日の昼間偶然多香子に会ったというその電話は、心中をまるで窺わせない事務的な内容に終始した。
「あいつの連絡先を聞いておきました。俺からは連絡しませんので」
「わかってる。俺が連絡を取ろう。利香の今後のことも話しておきたいし」
 秋野が電話の向こう、はい、と短い返事を寄越す。声は小さくも震えてもいなかった。だが、当時の秋野の荒れようを見ているだけに心配しないではいられない。まさか前のようにはならないだろうと思うが、それも尾山が勝手に思っているだけだ。
「秋野、大丈夫なのか?」
 尾山の声と同時に秋野の後ろで何か物音がした。誰かが何か言っている声だろうか。はっきりとは聞こえなかったが、秋野がそちらに気を取られたことは電話越しにもわかった。
「え? ああ、はい。すみません。ちょっと他人に迷惑かけましたが、もう大丈夫です」
「他人? 迷惑?」
 秋野は低く笑うと、お願いします、と言って電話を切った。
 居間の真ん中で玩具を広げる利香を見ながら、尾山は秋野のことを思った。後ろの物音が何だったにせよ、多香子のことを話しているのにそちらに意識が向いていた。
 やっとあの子も多香子から自由になれるかも知れない。多香子にそのつもりはなかったにせよ、それでも彼女は秋野を長くその思い出に繋ぎとめていた。
「しげパパー、見て見てー」
 物思いを破る利香の声に相好を崩し、尾山はいそいそとソファから立ち上がった。その目には、今は利香の笑顔だけが映っていた。