仕入屋錠前屋1 自惚れさせてくれ

 その男女は親子か何かに見えた。上品な母親と、母親と一緒にいる気恥ずかしさが無愛想な態度に出てしまう息子、と言った風情。
 暖かな気候の日曜日、女の気に入りのカフェのテラス席は、飲み物を楽しむ客で混み合っていた。とはいえ、他の客からは十分に離れた特等席──彼女の元の職業も今の立場も知っているオーナーが、彼女が訪れれば必ず通してくれる──には話し声までは届いてこない。向かい合って座った秋野と女は、まるで囀る鳥のように華やかな客たちを漫然と眺めていた。
 普段の秋野なら、女と並んでいたら息子には決して見えない。だが、今は不釣合いには見えないはずだ。
 これも耀司が見立てた、普段はかけることのない薄い色のサングラス。そのお陰で、秋野の瞳の色がアジア人のものではないことは女には見て取れないだろう。サングラスなんかかけていたら却って目立ちそうなものだが、このカフェは芸能人やそれに類する客が多いようで、やたらサングラス率が高かった。
 目の色を誤魔化すだけならカラーコンタクトを入れればいいのだが、今日はそういう気分になれなかった。耀司に選ばせた清潔で、上品で、地味で、秋野のえげつない雰囲気をうまく隠す服——というのは耀司の弁——のせいかもしれない。
 着飾ることに取り立てて関心はなかったが、それでも好みくらいはある。自分ではない誰かを装う、というほどのことはないにしても、落ち着かない格好で素顔を晒して歩く気になれなかっただけだ。
 依頼人は元女優で、今の姿を見る限り化粧にも服装にも人並み以上に気を遣っているのが見て取れる。色を変えたところで目の表情に違いはない。自分の脅威にならなくても、誰かに、必要以上に自分を晒す気はまるでなかった。
「お会いできるのが遅くなってごめんなさいね」
 彼女は女にしては低く落ち着いた声で言った。
「スケジュールに空きができなくて」
 女は大手建設会社の社長夫人だ。ボランティア活動や様々な福祉団体の援助や立ち上げでも有名だし、著名人との付き合いも多いらしく、多忙な身なのは分かっている。
「いえ、僕は急いでいませんから」
 秋野はそう言って、厚く膨らんだ、何の変哲もない茶封筒を差し出した。ベージュの薄手のコートを着た女は、封筒を見て軽く身じろぎした。白く美しい指をそっと伸ばすと、撫でるように封筒に触れる。黒目がちの二重の目が、一瞬厳しい光を宿して秋野を凝視した。
「すべて、よね?」
「僕はあなたに頼まれたものを仕入れてきた。金は受け取ったし、それ以上は望んでませんよ」
 暫しの後、女は目を伏せ、ありがとうと呟いた。秋野は頷き腰を上げかけたが、女の声がそれを制した。
「電話が来たのよ」
「——八重樫から?」
 女は顎を上げ、秋野を見た。還暦に手が届そうな年齢でありながら、彼女は美しい。作られた美しさではなく、美しく老いたのだと思う。
 女優は、多くがその美しさを売り物にする。勿論演技力や個性があってこその職業だが、人目を惹く容姿であることもまた求められる。若い頃に美しさを誇れば誇るほど、容色の衰えは本人を悩ませる。彼女はうまく対処できたのだろうし、うまく対処できるのは、己の見た目に関することだけではないのだろうと思わせた。
「盗んだんだな、と詰られたけれど勿論認めはしなかった。だって私は盗んでいないものね」
 楽しそうな表情が目の奥をちらりとよぎる。
「散々喚いた後、彼はこう言ったの」

「親父はな、言ったんだ。自惚れさせてくれ、と」
「何ですって?」
 意味がわからずに彼女は訊ね返した。八重樫昇は、怒りで荒くなった息を抑えようともしなかった。電話越しに聞こえる、まるで追い立てられ今にも狩られようとする小動物のような息遣い。どこか哀れを催すと思われていることには気づかずに、八重樫は声を荒げた。
「親父があんたからの手紙を何度も読み返してるのを、ガキの頃から俺は知ってた! 親父が死ぬ少し前に、何でそんなものを後生大事に取っておくんだって問い詰めたよ。捨てた女からの手紙なんて、何の意味もないのに!」
 彼女は黙って続きを待った。八重樫の声は割れ、掠れ、今にも泣き出しそうだった。
「あんたは親父にとって、一番大事な女だったんだよ、死ぬまで。俺の母親以上に!」
 彼女は電話を握り締めた。声はまったく似ていないにも関わらず、昇の言葉はまるで優一自身が喋っているように耳の奥に響いた。彼女が大好きだった彼の、やわらかな声で。
——彼女みたいないい女にはもう会えない。俺の女好きは病気みたいなもんだし、彼女の人生を駄目にする権利は俺にはなかったから別れた。だけどな、昇。この手紙を書いたとき、彼女は俺のことを世界で最高の男だと思ってくれていた。俺はそう思っていたいんだ。
——彼女は、心底俺に惚れてた——そんなふうに、この老いぼれを自惚れさせてくれ。
「それなのにお前のせいで親父は死んだ!」
 八重樫の叩きつけるような怒声を最後に通話は切れた。彼女は電話を握り締めて立ち尽くした。

 秋野は語り終えた女を見て僅かに眉を寄せた。お前のせいで、というのは単に息子の想像なのか、それとも幾許かの真実なのだろうか。
「……八重樫優一さんの自殺の原因は、事業の失敗を苦にしたことだと聞いていますが」
「そう。それは本当。彼が持ち込んだ企画は、客先で一度は役員会を通りかけたのよ。でも当時はその会社も厳しくて、とてもそんな大きな企画にかける予算は捻出できなかったんですって。週刊誌で書かれたみたいに、お話にならないって門前払いされたなんてことはなかった。だからこそ落ち込んだんだと私は思う。一度はうまくいきかけたから」
「その会社というのは、ご主人の?」
「そう。でも、優一さんが企画を持ち込んでるなんて私は本当に知らなかった。だって私達がお付き合いしていたのは三十年も前だし、もう連絡を取ってもいなかったのよ。それに、もし万が一私が邪魔しようとしても、主人が許してくれるわけはない。ドラマじゃないもの、企業の決定に妻の意見なんかが反映されるわけないでしょう。だけど——」
 彼女はテラス席の向こう側に目をやった。華やかな女たちのグループ。ノートパソコンを広げた若い男。誰もが見た目通りとは限らない。胸の内に何を抱え、遠くを眺めるようにそれから目を逸らし、たまに取り出して見つめながらもなんとか生きている。
「優一さんはもしかしたら、私が捨てられた腹いせに妨害したと思ったのかしらね」
「それはどうでしょう」
 秋野がそう言うと、彼女は優しく微笑んだ。
「少なくともご子息はそう思っているようだわ」
「資金繰りに大変でいずれそれどころではなくなりますよ」
 今度こそ椅子を引いて腰を上げる。女はもう秋野を止めようとはしなかった。
「ところで、誰が僕のことを教えたんです?」
「あら、どうして?」
「顔見知り以外の仕事は、僕に直接ではなく、手順を踏んで依頼が来ます。あなたは誰かに直接僕を探させたって仰ったでしょう」
「ああ、そのことね。そう、私はこういう……なんていえばいいの? 裏社会? 任侠映画みたいね。若い頃端役で出たことがあるけど」
 そう言っておかしそうに笑った女は少女のように見えた。笑顔から構えが消え、目尻の笑い皺も温かみを感じさせる。
「とにかく、そういう世界には確かに疎いの」
「確かにそう見えますよ。なので、ほんの好奇心です」
 女はティーカップを優雅に持ち上げると、その日の気候のように、優しくふんわりと微笑んだ。
「主人の幼馴染の方に頼ったの。主人の会社と共通点はあるけれど、でも違うお仕事をしてる。とても親切な方なの。主人も私も信頼する人よ」

 

 川端の事務所は、いつものように客の姿はないようだった。受付のおばさん──名を玉井さんと言う──は、ずっと昔に椅子と一体化してしまったのか、哲を見ても蠅が飛んだくらいの反応しか示さなかった。渋面ではあるがそれは通常の表情で、何かが気に障ったわけではないということは哲も知っている。
「おお、哲。どうした?」
 声はするが姿が見えない、と思って首を伸ばしてみたら、川端の禿頭がスチールデスクの影で動いていた。
「おっさん、何やってんだよ?」
 玉井さんに会釈して奥に進み、デスクの向こうを覗き込む。川端は上体を屈め、ごみ箱に足を載せて足の爪を切っていた。
「あのな……」
 思わず呆れた声を上げた哲を見上げ、川端はにっと笑った。おっさんぽい熊のぬいぐるみがあったら──そして禿げていたら──こんな感じだろうな、と思わせる笑顔を浮かべたまま、川端は黒いビジネスソックスをたくし上げて爪切りを袖机に放り込んだ。
「今月は家賃を倍払ってくれるのか?」
「何でだよ」
「何だ、違うのか。じゃああれか、俺の顔を見に寄ってくれたのか、いや、優しいなあ」
「はいはい、元気ならよかったよ」
「それでどうした、何か用があったのか?」
「いや──」
 何となく口にするのを躊躇って、哲は一旦口を噤んだ。川端に話したくないから躊躇ったのではない。多分、口に出してしまったら、引き返せなくなるからだ。
「……この間言ってた、仕入屋」
「ああ」
「そいつと組むっていうか──解錠の仕事、これからも引き受けることにした」
「そうなのか」
「ああ。って言っても、声かかるまで別に会うこともねえし、だから何だって話なんだけどよ」
「そうか」
 川端は頭頂部に反比例して毛深い眉を寄せた。
「哲、何度も言うが、お前は佐崎のじいさんからの大事な預かりもんだ。頼むから前科持ちだにだけはならんでくれよ」
「俺だってそれはごめんだ。まあ、そういうわけだから、一応な」
「ああ、わかった。まったくお前さんを預かるのは結構大変だよ」
「うるせえなあ」
 川端はうるさそうにする哲を見て笑ったが、不意に笑みを引っ込めデスクの上に視線を落とした。デスクはいつもどおり何かの資料や新聞、チラシや付箋で取っ散らかっている。川端は暫くデスク上に視線を彷徨わせた後、赤のボールペンを手に取ってくるくる回した。哲に目を向けず、ボールペンを凝視したまま低く呟く。
「──これから組むのか? もう組んだのか?」
「ああ?」
 哲は外から聞こえる古紙回収の車の騒音に気を取られ、窓の外に目を向けた。子供の頃はよく耳にしたが、今時走り回っているのはほとんど見かけない。
「こないだ一回金庫開けた。なんか中身は手紙だか書類だかだったらしいけどよく知らねえ」
「そうか」
「つーか、うるせえなあ、毎度お騒がせと思うなら自粛しやがれ。じゃあ俺行くわ」
 文句を垂れながら踵を返した哲には、川端が呟いた声は小さすぎて聞こえなかった。
「そうか、お前が開けてくれたか」
 だから哲は、川端が銜えた煙草に火を点け忘れていたことには気付かなかった。微笑む旧友の妻の顔を思い出し、川端は哲が立ち去った後も暫くの間、どこか遠くを見つめていた。

 哲がビルから出ると、呪文のように同じ言葉をがなり立てる古紙回収業者の車の行った方から秋野が歩いてきた。
 数度しか会ったことがないが、印象が随分違う。似合うとは言えない地味な格好をしているせいだろう。ただ、だらしなく着崩しているのが秋野らしいと言えば秋野らしくはあった。頭の上にはサングラスを載せ、ちんぴらなのか一般人なのかよくわからない。
「哲」
 秋野が哲を認めて声をかけてきた。立ち止まり、哲の出てきたビルを一瞥して視線を戻す。
「何でこんな所にいるんだ?」
「ちょっと不動産屋に用事」
「不動産屋?」
 秋野の表情が微かに動いたが、結局何も言われなかったから気のせいだったのかもしれない。秋野に用事はなかったが、哲の行く方向に向きを変えて歩き出したから、そのまま並んで歩を進めた。
 訊ねたわけではなかったが、秋野は金庫から何を盗んでどうしたか話し始めた。
「面倒くせえな」
 正直な感想を口にしたら、秋野はおかしそうに頬を緩めた。
「大体、そいつの親父が死んでから、もう五年近く経つんだろ? 何で今頃」
「さあな、人間の心はわからんよ」
 哲は、自分より十センチほど背が高い秋野の横顔を何となく眺めた。身長差は顔を見上げるほどのものではないが、同じ目線でもない。身長だけではなくて多分年齢も哲より上だし、母親の来歴を聞いただけでも人生経験が違いそうだから、ものの見え方も哲とは違っているのだろうと思う。
 不意に動いてこちらを見た薄茶の眼に背筋を駆け上がるものがあって、哲は咄嗟に秋野から目を逸らした。
 呑気に原っぱを歩いていたら肉食獣に捕捉されていた小動物。哲自身は性質もついでに見た目も小動物とは言い難いが、彼らが感じる恐怖はこういうものなのかもしれない。感情でも経験でもなく、本能が感じ取った何かに身が竦む。
 もう一度無理矢理目を向けたら、秋野はもう哲を見ていなかった。一瞬でも怖いと思ったことに無性に腹が立って足を止める。
「あんた、苗字なんて言うんだ」
 僅かに苛立ちが滲んだ哲の口調のせいか、質問のせいか。秋野は怪訝そうな顔をして足を止め、哲を見た。
「何故?」
「別に。何となく」
 秋野、というのは苗字ではなく名前だと聞いた。ひどく馬鹿げた考えだったが、苗字で呼べばこの心許なさから救われる気がした。秋野は黙って哲を見ていたが、「教えてもいいが」と言って首を傾けた。
「苗字じゃなくて名前で呼ぶって約束するなら教える」
「……どっちでもいいじゃねえか」
「よくない。お前に名前で呼ばれたい」
 わけのわからないことを真顔で言う。薄茶の眼は角度が変わったせいか、妙に光って黄色く見えた。野暮ったい格好なのに、初めて会ったときのように獰猛な何かがそこにいる。秋野は一歩踏み出し、哲は縫いとめられた虫のように同じ場所に突っ立ったままでいた。
「いいな?」
 答えず黙っていると、秋野はうっすらと笑みを浮かべ、低い声で哲を呼んだ。
「哲」
「……わかったよ」
 秋野は哲の答えに薄い色の目を細めた。まるで鼠を銜えた猫のようだ。いや、猫はと一緒にしたら猫に失礼か。
「言ったよな、俺の親父は生まれた俺を見てもいない。子供ができた途端に逃げたって」
「それは聞いたけど」
「俺の母親は不法就労者で、だから俺の出生届は出ていない。俺には戸籍がない」
「だから──?」
 秋野の手が素早く伸びて、うなじを掴んで引き寄せられた。間近で見る金色に吸い込まれそうになる。長く濃い睫毛の向こうに透けて見える美しい色の何か、類まれなもの。まるで錠前を前にしたときのように、頭が痺れて指先が微かに引き攣った。
 秋野は哲に顔を寄せ、痩せた虎のようににたりと笑った。
「だから、俺に苗字なんてないんだよ、哲」
 哲が振り上げた膝は空を切り、飛び退いた秋野は楽しそうに笑い声を立てた。

「お前、錠前を開けたいんだろう」
 先を歩く秋野が前を向いたまま哲に言う。渋々頷く哲の方を見もしないで、秋野は低く深い声で囁いた。聞こえるのが不思議なくらいの音量なのに、当然のように耳が拾うのが忌々しい。
「俺はお前の開けるべき錠前を仕入れてやろう」
 哲は煙草を銜えて火を点けた。歩き煙草が禁止だとか言ったって、周りには誰もいない。秋野と哲の二人だけだ。振り返った秋野が手を伸ばし、哲の口から素早く煙草を掠め取って吸い付けた。
「おい」
「だからお前には俺が必要だと思うがね、哲」
 揺らぐ煙の向こうの秋野の目。恐れを感じながらもこみ上げた笑いを無理矢理腹の底に押し込めて舌打ちする。
「自惚れてんじゃねえぞ、仕入屋──返せよ」
 秋野は唇の端を曲げて笑い、哲の唇にさっき奪い取った煙草を突っ込んだ。返せと言ったのは自分なのに、どうしてか腹が立つ。
「……くそったれ」
 煙と悪態を一遍に吐き出しながら、哲は秋野の長い脚を思い切り蹴飛ばした。