仕入屋錠前屋11 並木道を歩く

 用があって訪ねたら、耀司から絶対いいから見ろと映画のブルーレイを渡された。哲も映画は嫌いではないが、積極的にあれこれレンタルしたり、有料の配信サービスに加入するほど好きでもない。
 耀司から渡されたディスクはパッケージ付きではないから、何かで録画したものだろう。タイトルは書いてあったが、面倒だからろくに見もせず受け取った。
 自宅にはパソコンもないし、テレビを買ったときついでに買ったプレーヤーは少し前から調子が悪い。そういうわけで、哲は秋野に電話をかけ、今からブルーレイを持って行くから再生できるもんを用意しとけと一方的に告げてさっさと切った。
 秋野の部屋には何度も行ったが、二人並んで映画を観たりしたことは──当然ながら──一度もない。だから、そもそも再生機器があるのかどうかすら知らなかった。
「暇だから別にいいが」
 ドアを開けた秋野は哲が無言で突き出したディスクを受け取り、中身を見ずに言った。
「多分ラブストーリーだぞ。クラシックってほどでもないが、かなり昔のやつ」
「はあ?」
「あいつ、何が好きってラブストーリーと香港アクション映画だからな。この間ラブストーリーで泣けるのがあったから観ろってうるさかったんだ」
 秋野は要らんと断ったそうだが、次に標的にされた哲がうっかり受け取ってしまったというわけだ。
「マジかよ」
「せっかく用意したんだから帰るな」
 苦笑した秋野がまた哲にディスクを放って寄越す。
 渋々受け取って上がり込んだ部屋には、真新しいプレーヤーが床に直置きされていた。テレビから伸びたコードに接続された筐体は、新品に見える。しかも、出しっぱなしになっている箱はどう見ても開封したばかり。用意しろと哲が言ったから用意されたのは明らかだった。
「仕方ねえ、観るか……」
 哲は萎える気持ちを無理矢理抑えつけてプレーヤーの前に腰を下ろした。電源はすでに入っていたから、トレイの開閉ボタンを押してディスクを載せる。機体に吸い込まれていくディスクを眺めて溜息を吐き、哲は再生ボタンに指を伸ばした。

 見たことはあるがどの映画に出ていたのかわからない女優が、ハンサムとしかいいようがない顔の男優と腕を組み、色づいた並木道を歩いている。まだ始まってから少ししか経っていない。こんな早くくっついたら、一体この後どうなるんだ。
 昔の恋人でも出てくるのか、それともどちらかが不治の病かなんかで死ぬのか、浮気か、どうでもいいけど面倒くせえ。
 つまらないことをつらつら考えながら秋野に目を向ける。観ているのかいないのか、視線は画面のほうに向けているものの、秋野はどこか上の空だった。多分観ていないに違いない。
 つまらないと思いながら、それでも一度始めたら意地になるものだ。哲は欠伸を噛み殺しつつ、秋野から画面に目を戻した。
 内容はどうでもいいが、確かに映像は美しかった。黄色く色づいた並木道を歩く女優の赤いセーターと、男優のチョコレート色のコート。女優の髪が黒っぽいのがいい。煙草に火を点けながら、哲は女優の妙に潤んだ大きな瞳を見つめていた。

 隣に座っている秋野が少し動いた気配で目が覚めた。うつらうつらしていたらしい。長時間床に座っているので尻が痛い。
 画面は丁度、男が女を抱き締めているシーンだった。ハリウッド映画にお定まりのラブシーンが始まるらしい。男の手が優しく女の頬を撫でる。そのまま首筋にまわされた手が、彼女を引き寄せて口付けた。
「女っていうのは」
 秋野が覇気のない声を出す。
「時々面倒だよな」
 秋野らしくないふにゃりと気の抜けた声に思わず笑いが漏れてしまった。
「何だよ、今の女とうまくいってねえの」
「いや、そうじゃない」
「女はいねえってことか?」
「上手くいくとかいかないとか、そういう女はいない」
「じゃあ何だよ」
「元々面倒くさいのは抜きにしようってきちんと話してるんだ。それで納得してると思ってても、構ってやらんと臍を曲げることもあるし」
 利香の母親とは違うということなのだろう。大人なのだ。お互い割り切って遊ぶだけの関係なら、面倒は避けたいのはよく分かる。分かるが、そうはいっても相手は人間だ。
「そりゃ仕方ねえだろ。女ってのはそういうもんなんじゃねえの」
 あなたを煩わせたりしない。割り切ったつもりでも、そう口にしても、期待する女だっているだろう。哲ならともかく、相手は秋野だ。甘ったるい言葉を囁かれ、まばゆいばかりの笑顔を向けられれば勘違いだってするはずだ。
 勘違いするほうが悪いとは思わない。勿論、秋野が悪いとも思わない。人の心なんて制御不能だ。惚れられたくなければ金を払って寝るしかないのだし、ビジネスライクな関係だって絶対に恋愛に発展しないとは言えないのだ。
「口では納得してても、違うんだろ。そういうことに関しちゃ男は即物的だけど、女は違うんだろうし。感じ方も考え方も違うじゃねえか」
 画面には女優の首筋に顔を埋める男の横顔が写っている。女優の滑らかな肩の線がきれいだった。
「それが面倒なら風俗でも行くか、女はやめたほうがいいぞ」
 人より余程優しげに見えて、秋野には酷く冷淡で残酷な面もある。約束を違えた女はあっさり置き去りにするのだろう。画面の中の、どこまでも女に優しい男とは大違いだ。
「──そうだな」
 肩を掴まれ、耳を噛まれた。どういう意思表示なのか、それとも攻撃なのかよくわからず、哲は間近の顔を睨みつけた。
「……痛えな。何してんだよ」
「同じこと」
 秋野が目線で示すテレビ画面では、男が女の耳に口付け終わったところだった。そろそろ暗転しそうな雰囲気だ。年齢制限作品ではないし、この頃の映画はベッドシーンもあまりあからさまではないはずだ。
「目を皿のようにして見てみやがれ、俺が女に見えるか?」
「全然」
「じゃあさっさと離せ。毎度お前の冗談はわけがわからねえ」
 しかし秋野は掴んだ手を離そうとせず、哲をソファに押しつけた。獣があま噛みするように、何度も耳朶を齧られる。
「何なんだよ、一体」
「女はやめたほうがいいって言わなかったか?」
「男にしろって言ったわけじゃねえよ。分かってるくせに、何言ってる」
 手で秋野の顔を払いのけると、秋野はいつものように唇の端を曲げて笑った。
「もっと慌ててくれないと面白くないな」
 まったく、こんな男に優しくしてもらおうとか思う女どもの気が知れない。つい溜息を吐いた哲の顎を秋野の長い指が辿り、喉のほうまで下りていく。
「慌てる必要なんかねえだろ」
「——そう思うか?」
 笑いを消した秋野が、いきなり哲の喉笛に喰らいついた。

 

「耀司、これ返すわ」
 耀司は反射的に手を差し出したものの、目は受け取った物を見ていなかった。哲の喉についた赤紫の痣に気を取られたからだ。喉仏を挟むようについた二箇所の痣は、所々血が出たような痕がある。耀司は思わず自分の喉をさすりながら口を開いた。
「哲……どうしたの、それ。動物に噛まれたとか……?」
 哲はうんざりした顔をして耀司を見つめた。
「俺がこんなでかい動物飼ってると思うか?」
「……まさか」
 恐る恐る、そしてよくよく見れば、確かにそれは噛み痕に見える。
「ああいうのを放し飼いしていいのかよ? そもそも飼い主なしで猛獣放牧してるようなもんじゃねえか」
「ほうぼく……」
「いや猛獣は放牧しねえけど。牧草食わねえし」
「そうだね……」
「つーかあいつ絶対動物園で檻に入れとくべきだぜ」
「喧嘩でもしたの……?」
「してねえよ。いきなり噛まれたんだよ、昨日。まったくえらい目に遭った」
 耀司の頭の中を束の間あまり想像できないししたくもないことが駆け巡ったが、哲のこの様子ならそれはなかったのだろう、と内心安堵する。まったく、と耀司は内心溜息を吐いた。
 哲が欲しいんだか何だか知らないけれど、いくらなんでもやりすぎだ、あの馬鹿。
「──上がっていけば? お茶でも飲んできなよ」
 耀司の誘いに首を振り、哲はさっさと帰っていった。

「秋野、お前やりすぎ」
 秋野が出るなり言ってやったが、電話の向こうの秋野は反省した様子もなく小さく笑った。
「哲に会ったのか」
「さっきブルーレイ返しに来た。お前さあ、中身大事にするなら容れ物も大事にしなよね。壊す気はないんだろ」
「ああ」
 秋野が気のない返事をする。
「何だよ、哲が喧嘩して傷だらけになった時は滅茶苦茶怒ってたのに。それなのに何で自分でああいうことするのか、俺には全然わかんないね」
 以前哲が山ほど傷をこしらえて来た時のことだ。秋野は相手を酷い目に遭わせた。そもそも原因が秋野の依頼した仕事にあったから、あの時の秋野の気持ちは耀司にも理解できた。だが、そうやって大事にしているくせに、自ら哲に傷をつける気持ちはまるで分からない。
「前にも言ったろ、骨まで噛み砕いてやりたいって」
 秋野の低い声が耳の中で谺する。聞き取りにくいほど低いのにはっきり耳に届くのはなぜだろう。秋野が望みを口にすることが嬉しいからか。それとも、その望みが耀司には理解しがたいからか。
「……この映画、観たのかよ?」
「観たよ」
「ああやってさ、仲良く手繋いで並木道でも歩いたら? それなら俺は、相手が男でも全然気にしないし、普通に応援するんだけど」
「手なんか繋ぎたくないね」
 いきなり音が聞こえなくなったと思ったら、通話が切れていた。耀司は無音になった電話をテーブルの上に戻して腰掛けた。
 どうして哲が係わるとああなんだろうな、あいつは。友人というよりは兄と慕う男の肉食獣のような目を思い浮かべ、耀司は深い溜息を吐いた。

 

 急所に噛みつかれ、さすがに動物の防衛本能らしきものが働いた。
 哲は膝を蹴り上げ身体を半分起こしたが、上体を預けられ、重みに負けてそのまま背をつけ仰向けになってしまった。身体全体で抑え込まれてしまうと、身体が大きく重い秋野にかなり分がある。
「殺すぞ、この馬鹿」
 圧迫される喉から声を絞り出したが、しゃがれた声に迫力はあまりない。喉に食い込む歯の硬さに猛烈に腹が立ってもがきながら唸り声を上げた。
「おい、てめえ──秋野!」
 名前を呼んでも反応はなかった。何度も繰り返し、僅かに角度を変えながら歯を立てられる。強烈な痛みはないものの、じわじわとしみ込んでくるような不快感はあった。罠に掛かった動物のような気分だ。動けば痛いし、動かなくてもこのまま死んでしまう、と焦る動物のような。
 しばらくしてようやく、圧力が僅かに緩んだ。少しずつ、本当に気が遠くなるほど少しずつ、喉笛をくわえ込んでいた顎が外れていく。
「──何考えてんだよ、お前は」
 ようやく解放された喉をさすりながら睨み上げると、秋野のぎらついた目と目が合った。
「俺も即物的な男だから」
 顎は外れたが、身体は押さえ込まれたままで動けない。何と答えていいかわからず、哲は開きかけた口を閉じた。
「お前とやってそれで済むなら、寝るのは簡単なことなんだけどな」
 ちょっとぞくりとするようなことを言った秋野は、薄茶の目を眇めて哲を見た。間近で見つめたら、金色に光る筋の部分が揺らめいて見える。美しい虹彩に見入っていたら秋野が不意に身体を持ち上げ、哲から離れた。
 喉に手をやり、掌を見たら僅かに血がついていた。拳を握り込んで立ち上がり、哲は思いきり秋野の横っ面を殴った。指の付け根に秋野の頬骨が当たる感触。硬いものに骨がぶつかった衝撃で、指の先が電気を通したようにびりびりした。
 秋野の上体が傾ぎ、長めの前髪がばらりと頬に掛かる。口の中を切ったのか、秋野は自分の掌に少量の血を吐き出した。
 腹は立っていたが、それは単純に痛かったから、それから押さえつけられたら反発する本能からだ。秋野の行為とその言葉にどんな意味があるのか考えたからではない。考えたところでどうせ、他人の意図を正しく理解できるわけもない。
「痛えからな、結構。お返し」
 それでも、嫌悪も憤りも感じないのだから、俺はここにいればいいのだ、と思う。秋野のそばにいれば退屈とは無縁だ。時たま噛まれるくらい、躾の悪い虎を飼っていると思えば何ほどのこともない。
 殴った拳を開いてひらひらと振る。
「飯でも食いに行こうぜ。腹減った」
 殴られた顔をさすりながら、秋野が腹を空かせた虎のようににたりと笑う。
「俺は腹一杯だ」
「うるせえ、早くしやがれ」
 哲は秋野の背中を思い切り蹴りつけて玄関に向かい、スニーカーに足を突っ込んだ。
 噛み癖のある肉食獣なんてまったく手がつけられない。
 だが、不思議なことに。
 並んで歩くのは別に、嫌じゃない。